航海の始まり
船酔いに襲われたユリアは、カモメ号の甲板の隅で小さくうずくまっていた。
風は心地よく、空は高く晴れているというのに、彼女の顔色はすっかり青ざめていた。
「だ、大丈夫……薬、飲んだから……」
そう呟く声も力なく、息の合間に吐息がまじる。
エリンが心配そうに彼女の背をさすり、ネイヴが濡らした布でユリアの額をそっと拭う。
「無理しなくていいよ。もう少し寝てて」
「お水、飲めそう?」
ユリアは弱々しく頷くが、波の揺れに合わせて眉をひそめる。
体がふわりと浮いたかと思えば、次の瞬間には重く引き戻される。そんな感覚の連続に、地に足のつかない心細さが募っていた。
湖の旅の延長のように思っていたが、海は、違った。すべてが違う。
*
港を出たのは数時間前。
最初は風も穏やかで、進みも滑らかだった。海鳥の鳴き声が空に響き、帆のはためきがリズムのように耳に残っていた。
カモメ号は、小型の帆船である。
とはいえ、無理をすれば十数名は乗れそうな広さがあり、荷もぎゅうぎゅうに積まれているわけではない。
甲板も船室も、どこか居心地がよく、ひとつの家のような親密さを感じさせた。
だが、湾を越えた瞬間――
突如、船はぐらりと大きく揺れ、ユリアはその場に立っていられなくなった。
「え、こんなに天気がいいのに、なんで……?」
戸惑いを隠せない彼女に、舵を握っていたガロが軽く笑って返す。
「ここから先は湾の外だからな。海の揺れってのは、こんなもんだよ。むしろ、今日は静かな方だ」
「湖とは、ぜんっぜん違うからね」
ルチアも楽しげに肩をすくめる。
「天気が悪い日なんて、こんな揺れじゃ済まないよ。ほら、あたしたちも最初はひどかったの。ガロなんて三日くらいまともに歩けなかったもんね」
「それを言うか……」とガロが苦笑し、ユリアはようやく小さく笑った。
だが、その笑みもすぐに消える。
「……慣れるまで、船室で横になってるね」
そう言って彼女は立ち上がろうとするが、その途中でもう一度大きく揺れ、船べりに手をついてうずくまった。
「外に出て、景色を見たほうが少しマシかもしれないわよ」
ルチアが声をかけたが、ユリアの目に映るのは、どこまでも果てのない水面。
空も海も青く、どこからどこまでが境なのかもわからない。
「今回は一日くらいで小さな島に寄るから、もう少しの辛抱だぞ」
ガロが言う声は優しかったが、それでも波のリズムにのまれる感覚は、なかなか去ってくれなかった。
朝早くからの出航だったこともあり、薬の効き目が出はじめる頃には、ユリアはそのまま眠りに落ちていた。
*
「ユリア、起きて。少し楽になった?」
ルチアの声に目を開けると、甲板は茜色に染まり、夕陽が穏やかな光を投げかけていた。
船は、先ほどまでのような揺れを感じない。寄港したようだった。
「……どこか、着いたの?」
「小さな無人島よ。今日はここで一晩過ごすことにしたの」
ルチアの手に引かれて船室へ戻ると、ガロ、エリン、ネイヴが輪になって、簡単な食事をとっていた。
干した魚、少しのパンと、温かいスープの香りが胃を刺激する。
ユリアは、自分が朝から何も口にしていなかったことに気づき、そっとパンを手に取った。
するとガロがふと口を開いた。
「そろそろ、本来の姿を見せておこうか」
言うなり、彼は軽く手を振り、変装の魔法を解いた。
くすんだ白髪交じりの髪は、若々しい茶色に変わり、顔つきも飛翔族らしく20代くらいの青年だ。
「おっと、ついでに」
隣のルチアも魔法を解くと、艶のある赤みがかった髪の、凛とした若い女性の姿になる。
それに続いて、ネイヴとエリンも首にかけていたペンダントを外した。
ネイヴの髪は深い夜のような紺色に変わり、瞳は静かな水のように澄んだ水色。
エリンは太陽の光を受けたような明るい金髪になり、瞳はやわらかな黄緑――まるで新芽のようだった。
ユリアはその変化に目を丸くしていたが、ふとエリンが振り向いて言う。
「ユリアは、ユリアも変装してるんでしょ?」
「あ、うん……」
そう言いながら、自分も変装していたことを思い出し、そっと魔法を解く。
茶色に染めていた髪は、真っ黒な羽のように深く、瞳も黒曜石のような色に戻る。
「翼も、出した方がいいかな……?」
「ここで広げたらぶつかっちゃうわよ」
ルチアがくすくすと笑う。
「次の街に着いたら、人気のないところで思いっきり広げるといいわ」
「そうだな」とガロが頷きながら言った。
「次の港からは、俺の名前も“ロシェ”に戻す。ルチアは“ナディア”だ。間違えるなよ」
「なんで名前まで?」
ユリアの問いに、ガロは表情を引き締める。
「港町では、小さな雑貨屋を営む兄妹ってことになってる。表向きはな。けど実際は、帝国とつながる情報の中継地だ。港には小さな倉庫があるし、住まいは街の中心部。これから出入りも多くなる予定だ」
「エリンとネイヴは、もうしばらくは変装してた方がいいな」
「ユリアも、そのままのほうがいいわ」
ルチアが静かに言う。
「東の大陸では珍しくないけど、西では黒髪黒目は目立つの。特に、あなたみたいにきれいな黒は」
夕暮れの中、彼らの会話は次第に落ち着いた静けさに包まれていく。
次の目的地のこと、明日の風の話、小さな笑い――
波の音にゆっくりと溶けていくように、夜は更けていった。
ユリアは穏やかな眠気を感じながら、目を閉じた。
未知の空の下――航海は、まだ始まったばかりだ。




