すれ違いの街角で
ユリアとアルがヴァリーノの手前で別れたあと、
ヴァリーノの正面入口から離れつつ、自分が来た道を振り返る。
――リアには、ちゃんと別れも言えなかったな。
未練を断ち切るように、もう一度門の様子をうかがう。帝国の軍装をまとった兵士たちが数人立っており、検問の列は長く伸びていた。
あのまま正面から入るのは、さすがに無茶だった。
「アル様、お疲れさまでした」
背後から落ち着いた声がする。ゼイドだ。
「……で、なんであそこが検問になってるのか、分かるか?」
問いかけると、ゼイドはわずかに首をかしげた。
「昨日、港で怪しい荷を持った商人がいたそうで、警備が強化されているとか。何か状況が動いたのかもしれません」
「なるほど。まあ、正面突破は無理そうだな。別の入り口から行こう」
「こちらへどうぞ」
ゼイドに案内され、小道を進んで町の裏手へ回る。かつて密輸人が使っていたという抜け道は今も健在で、門番の姿はなく、拍子抜けするほどあっさりと市内に入れた。
港へ向かう途中、人波の中に見覚えのある背中を見つけ、思わず立ち止まる。
――ファル……?
まさに今から会いに行くはずだった人物。その姿に声をかけようとした瞬間、ファルカスの進行方向に周囲を見ずに歩いてくる少女が目に入った。
そのまま、軽くぶつかる。
「あっ、ご、ごめんなさい! つい、その……ぶつかってしまって……」
少女の慌てた声を聞いた瞬間、思わず身を隠す。リアだ。
彼女はファルカスと一言二言だけ会話を交わすと、そのまま立ち去っていった。
「ゼイド。彼女を追ってくれ。気づかれないようにな」
「かしこまりました」
ゼイドが人波にまぎれて消えるのを確認し、俺は再びファルカスを追う。
角を曲がり、ほどよい距離を保ってから声をかけた。
「――ファル」
名を呼ぶと、彼は足を止め、肩越しにこちらを振り返る。
深く澄んだ青の瞳。まるで海の底のように静かで冷ややかだった。
「アルベルトか。どこをほっつき歩いていた。それに、その格好はなんだ」
予想通りの説教の気配に、手を上げて先手を打つ。
「待て待て、言い訳はあとだ。取り逃がした連中を尾行してたら、気づけば湖まで越える羽目になってた。……悪かったって」
ファルカスは深くため息をつき、肩をすくめた。
「『しばらくで戻る』などという曖昧な伝言だけ残されても、こちらとしては動きようがない。まったく……」
「反省してるよ」
「とにかく、宿舎に戻ってから詳しく話せ」
促されるままに並んで歩き出す。
リアの顔が脳裏をよぎるが、今は報告が優先だ。
宿舎に着くと、ファルカスは振り返らずに言った。
「まずは湯あみして着替えてこい。話はそれからだ」
「ちょうどよかった。さすがにこの格好、もう限界だった」
素直に従い部屋に戻る。扉を閉めると、付け髭を外し、目元まで覆っていた茶色のかつらを脱いだ。
金髪にエメラルドの瞳が現れる。本来の姿は、彫像のように整っていた。
湯に身を沈めると、全身から力が抜けていくのが分かった。
湖を越え、追い、逃げ、隠れ……身体は限界に近かった。
しばし熱と静けさに包まれ、何も考えず湯に身を委ねた。
身支度を整えてファルカスの部屋に戻ると、卓上には簡素な食事が用意されていた。
だが、湯気はもう消え、皿も器もすっかり冷めている。
「湯あみしろとは言ったが、ここまでのんびりしろとは言っていない」
腕を組みながら、ファルカスが呆れたように言った。
「アルベルト、その立場で勝手な行動は慎むべきだ。自覚が足りていない」
幼馴染だが、彼の真面目さは筋金入りだ。説教が始まれば長い。
「はいはい、その話はあとで。まずは報告からだろ?」と弟を叱るような口調をとめる。
「……仕方ない。ならば聞こう」
椅子に腰を下ろし、俺はゆっくりと語り始めた。
「きっかけは、港で取り逃がした連中だ。似た顔を見かけて追いかけた。山側に向かってたから、急いでな」
「ゼイドと二人で?」
「ああ。けど途中ではぐれて、ティラーニアまで行ったが、結局見失った。そのあと湖を越えようとして、逆に襲われて……」
ファルカスの眉がぴくりと動く。
「ゼイドは?」
「途中で合流した。逃げる途中、一人の少女に出会ってな。名前はリア。今は彼女をゼイドに追わせてる」
「……少女と一緒に?」
「山の中を一人で旅してた。怪しいとは思ったが、こっちが隠れてたときに助けてくれたし、怪我の手当てもしてくれた」
「つまり、信用してると?」
「少なくとも敵意はなかった。謎は多いが、人目をごまかすにはちょうどよかった。港町までは一緒に行動したが、大人しくしてたよ」
「“成り行き”というわけか」
「まあな。再びティラーニアに戻ったとき、寺院で妙な動きがあった。何かを運び出してるようで、それを見ていたら――爆発した」
「爆発?」
「火薬か魔導薬か……あるいは崩落。原因は不明。こっちもすぐに離れた」
ファルカスは腕を組んで黙って聞いている。
「その後、ゼイドに積み荷の連中を追わせたが、まだ確認は取れていない。中身が武器なのか、それ以外かも分からない」
声をやや落とし、続けた。
「ただ、人身売買のような場面は見ていない。少なくとも、若い娘が連れ去られるような動きはなかった」
「……ふむ」
ファルカスは短く唸り、思案顔で視線を落とす。
「要点は理解した。ゼイドが戻り次第、全体を整理しよう」
「了解」
卓上の冷えた食事だけが、所在なげに残っていた。
ふと、思い出したように口を開く。
「そういえば、寺院が爆発したとき、リアも物陰から様子をうかがってた。」
ファルカスの表情がわずかに険しくなる。
「その少女、関係者の可能性は?」
「いや、むしろ逆。森の民か、あるいは精霊の血を引いているのかもしれない」
ファルカスはそれを聞いて考えこむ。
「ファルさっき街中で少女にぶつかてただろ、それがリアだよ。」
「ああ、いたな、人の顔をじろじろと見ていた。」
「お前の顔が良すぎるからじゃないか?」
アルベルトが冗談めかして言うと、ファルカスは鼻で笑いながら、
「お前にそれを言われたくはないな」
少しの沈黙のあと、ファルカスが真顔に戻る。
「……結局、大きな成果は得られなかったようだが」
「まあな。ただ、連中が話してる中で『封印』という言葉だけは聞こえた」
「封印、か。断片だけでは判断は難しいな」
「それでも、何かにつながっている気がする」
ファルカスは深く息を吐いた。
「アルベルト、次からはもっと慎重に動け。お前が無茶をすれば、こちらも動きにくくなる」
「わかってる。気をつけるよ」
「……まずは休め。体力を削るのが任務ではない」
「ああ、そうする」
そう答えて、俺は部屋へと戻った。
アルベルトが部屋を出ていくと、ファルカスは静かにため息をついた。
数か月前、帝都から少し離れた地域で行方不明者が相次ぎ、怪しげな魔道具や薬品が押収される事件が続発していた。取り締まりを強化していた最中、いくつかの倉庫が放火されるなどの妨害も起きた。その一連の事件で逮捕した者のひとりが、不審な死を遂げた。
捕えた時点ですでに正気を失っており、所持していたメモにはかろうじて「封印」や「ヴァリーノ」といった文字が読めた。積み荷に関する暗号なのか、それとも地名なのか、はっきりとは分からなかったが、ちょうど数年に一度の西方視察の時期と重なっていたため、ヴァリーノ港を擁する公国にしばらく滞在し、港に着く積み荷の調査を進めていた。
それなりに怪しい品は見つかったものの、港ならばありがちなものばかりで、決定的な手がかりにはならなかった。だが、その後、帝国で取り逃がした一味と似た刺青を持つ人物の目撃情報が入り、アルベルトは独断で追跡に向かってしまったのだ。
もう一人の護衛がこちらに残り、伝書鳥を通じて報告のやり取りもしていたようだし、ゼイドが同行しているなら問題はないだろうとは思っていた。しかし、それでも途中ではぐれていたとは。
結果的に無事戻ってきたからよかったものの……まったく、アルベルトには困ったものだ。自分の立場というものを、まるでわかっていない。
少しは、こちらの苦労も察してほしいものだ。
「しばらくは、直接見張るしかないか……」
ファルカスはそうひとりごち、窓の外に視線をやった。
翌日。
港をアルベルトとファルカスが並んで歩いていると、道の先で酔っ払い同士が小競り合いをしている様子が見えた。ファルカスは無視して迂回しようとするが、アルベルトが足を止める。
「……あれ? リアじゃないか」
そう言って近づこうとするアルベルトの肩を、ファルカスが無言でつかんだ。
「待て。お前は余計なことをするな。俺が行く。……ゼイド、いるか? アルを見張っておけ」
短く言い捨てると、ファルカスは騒ぎの方へ向かっていく。
物陰から様子をうかがっていると、ファルカスはうまく場を収めたようだった。そのままリアと会話を始めるが、リアはどこか不満げで、口を尖らせながらファルカスに何か文句を言っている。その様子を見て、珍しくファルカスが笑った。
その様子を見ていたアルベルトが、となりに立つゼイドに話しかける。
「へぇ……聞いたか?
“リア”じゃなくて、“ユリア”だってさ。しかも、二十五歳だとよ。……嘘だろ?」
肩をすくめる。
「どう見ても、十六か十七ってとこだったけどな。
ん? リアの知り合いか? 一瞬、ファルカスを見て驚いてたような……」
少し考えてから、にやりと笑う。
「――ああ、気に入ったんだな。結局、家までついてってたし」
ファルカスの珍しい振る舞いに、アルベルトはなんとも言えない愉快な気分になる。
「……ま、説教を食らう前に戻るとするか」
アルベルトはそう言って軽く肩をすくめると、ひょいと踵を返した。ゼイドも無言のままあとに続く。
二人は陽の高くなり始めた港の通りを歩きながら、人混みのなかへと紛れていった。
背後では、まだ何かを話しているファルカスとユリアの姿が小さく揺れていたが、アルベルトはもう振り返らなかった。
彼の足取りはどこか軽やかで、その口元にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいた。




