港のざわめき2
酔っ払いは黒い服の男に気づくと、ぱっとユリアの手を離した。
「なにをしてる、と聞いているが」
酔っぱらいは戸惑ったように、うう……と呻くだけで、はっきり答えない。
黒衣の男の登場にに気を取られていたユリアも、はっと我に返った。
「この人、いきなり“お前を買う”とか言ってきたんです!」
男はふぅ、と深くため息をつきながら、酔っぱらいを見下ろす。
「こんな幼い娘を買おうなんて……何を考えている。酒の飲みすぎだ。ほどほどにして立ち去れ」
その言葉に、ユリアは「幼い娘」と言われたことに少しむっとする。
男は眉間にしわを寄せ、改めてユリアの顔を見つめた。
「……君は昨日の……大丈夫か? ああいうのを見かけたら、近づかないことだ。連れているのは弟妹か? 小さな子を連れているなら、なおさら気をつけるべきだ…」
唐突な説教に、ユリアはまるで族長に叱られているような気分になり、つい真面目に聞いてしまう。
(……でも、この人誰なのよ。昨日ちょっと顔を合わせただけじゃない)
しだいに不満が込み上げてきた。
(ていうか、“幼い”って……何よ)
「聞いているのか?」
「……二十五歳ですけど」
「ん? なんだって?」
「二十五歳です! 幼くなんかありませんけど!」
反撃するように言うと、男は目を丸くして、そしてふっと笑った。
「……気に入らなかったのは、そこか?」
「何がおかしいんですか?」
「いや、酔っぱらいに絡まれて怯えてるかと思えば、年齢で怒るとは……」
男は肩を震わせて、またくつくつと笑い出す。
(なんなのこの人……からかってるつもり?)
ユリアはますますむっとした。
そのとき、ふわりと頭の上に白い影が舞い降りた。ルフだ。やさしく羽ばたいてユリアの頭にとまり、つぶらな瞳でこちらを見つめる。
少し遅れて、ネイヴが心配そうにユリアのそばへ寄ってきた。
はっとして周囲を見渡すと、通りがかりの人たちがこちらをちらちらと見ている。視線の多さに気づき、ユリアはいたたまれない気分になった。
そういえば――助けてもらったのに、お礼も言っていなかった。
少し恥ずかしい気持ちになり、気まずさをごまかすように声をかける。
「あー、助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
黒衣の男――ファルカスは穏やかに答えると、どこか柔らかい表情で続けた。
「俺はファルカス。君の名前は?」
「ユリア……です」
気を抜いた拍子に、つられて名前を口にしてしまった。
「家はどこだ? 送っていこうか」
「結構です、大人ですから」
そっけなく言うと、ファルカスはまた楽しそうに笑った。
そのとき、遠くからユリアを呼ぶ声が響く。ガロだった。慌てた様子でこちらに駆け寄ってくる。ファルカスの顔を見て少しはっとしたような顔をしていただが、すぐに気を取り直し、
「ユリア、どうした? 何かあったのか?」
なぜか先に口を開いたのはファルカスだった。
「酔っ払いに絡まれていてな、仲裁に入ったところだ。送っていこうかと思ったんだが、本人が“大人だから必要ない”って言うんでな」
冗談めかして言うと、ガロも「はは」と笑って頷いた。
そこへ、軍服を着た別の男が近づいてくる。
「副団長!」
と呼ばれ、ユリアは一瞬きょとんとする。
(副団長? 偉い人だったの……?)
「どうした?」とファルカスが返す。
「どうしたも何も、人だかりがあったから覗いたら、副団長がいらしたんで……何かあったのかと」
「大したことはない。ちょっと話をしていただけだ」
とファルカスは軽く応じる。
そのやり取りを聞いていたガロが、
「それじゃあ、俺たちはすぐそこの“かもめの店”なんで」
と言いかけたとき、
「“かもめの店”? 薬草を扱ってるっていう、あそこか?」
と、後から来た軍人が口を挟む。
「評判がいいと聞いたぞ」
「レイハルトも、誰かそんなこと言ってたな」
軍人たちはそんなことを言い合いながら、ふと思いついたようにファルカスが言った。
「よし、何かの縁だ。そこまで一緒に行こう」
そう言って、ガロと並んで歩き出す。
軍人の男は「では自分は戻ります」と言い、足早に去っていった。
ユリアは少し戸惑いながらも、仕方なくガロの後を追い、“かもめの店”へと向かうのだった。
にぎわう通りを後にして、ユリアたちが“かもめの店”へ向かって歩き出すのを、少し離れた路地の陰から見つめる者たちがいた。
人々の肩越しに、その姿がわずかに覗く。
すらりと背の高い男が二人。
一人はレイハルトと同じく黒衣をまとっているが、違っていたのはその容貌だった。
髪は陽の光を跳ね返すように輝く金色、瞳は深く透きとおるエメラルドグリーン。
まるで絵から抜け出してきたような、美しい男だった。
もう一人は、フードを深くかぶり、その顔を影に沈めている。
ただ、その周囲に流れる空気には、静かで重たい。
金髪の男が、ユリアのほうを見ながらくすっと笑い、口元でつぶやく。
「へぇ……聞いたか?」
フードの男は何も言わないが、わずかに顔を傾けた。
「リアじゃなくて、“ユリア”だってさ。しかも、二十五歳だって。――嘘だろ?」
その声には、ただの冷やかしとも、妙な期待ともつかぬ色が混じっていた。
金髪の男の視線は、何かを楽しむように、ユリアの背中をじっと追い続けていた。




