かもめの行方2
案内された奥の扉をくぐると、そこは広い倉庫のようになっていた。
木箱が積まれ、布に包まれた荷が壁際に並べられている。中央には少しだけ空間があり、その先にはきしみのある木の階段が上階へと続いていた。
「ちょっと、少しだけここで待っててくれ」
男はそう言うと、軽い足取りで店の外へと出ていった。
ユリアは倉庫の中に一人残され、目の前の階段を見上げながら待った。ほんの短い間だったが、心臓の鼓動が少しだけ早まっていた。
間もなく、彼はすぐに戻ってきた。手には何も持っておらず、表情はさっきと変わらない。
「待たせたね。それじゃあ、上に上がろうか」
ユリアは頷き、彼の後に続いて階段を上っていった。
階段の上には、民家のような、しかしどこか旅人の寄り合い所のような、不思議な雰囲気の空間が広がっていた。天井は低く、壁には地図や航路図のようなものが掛けられている。
部屋の中には、二人の子どもがいた。
ひとりは十二、三歳ほどの男の子で、もうひとりは七、八歳くらいの女の子。
どちらも濃い茶色の髪と瞳をしていて、静かに、まっすぐユリアを見つめていた。
「ここに座ってくれ」
男がそう言って、小さな木のテーブルの前にある椅子を引いてくれた。ユリアはそっと腰を下ろす。
「これでも飲んで。甘い果実水だ」
ガラスの器に注がれた冷たい飲み物が差し出される。ユリアが礼を言って一口飲むと、やわらかい柑橘の香りが喉を潤した。
「ここまで遠かっただろう。お疲れ様。成人後、初めての旅かい?」
ユリアは頷いた。「そうです」
男は微笑んだ。「今年成人ってことは……君は、ユリアかな?」
ユリアは少し驚き、口を開いた。「はい……そうです」
男はどこか懐かしげに目を細めた。「今の姿じゃわからないけど、黒髪に黒い瞳、黒い翼を持つ子が来るって、サピエルから聞いてるよ」
ユリアは少しだけ警戒しながらも、しっかりと目を合わせた。「私がユリアです」
男はにこりと笑った。「俺はガロ。“カモメの夫婦”と呼ばれてる、この店の“夫”の方だ。よろしく」
「夫の……方?」
「そう。もう一人は“妻”役のルチア。今はちょっと出かけてる」
ユリアは首をかしげた。「夫役、妻役って……本当の夫婦じゃないんですか?」
「いや、違う。俺たちは兄妹さ」
「……兄妹で夫婦を?」
「はは、変に聞こえるか? でもそういう決まりなんだ。この店は代々、飛翔族の中から選ばれた二人が“夫婦”として住んで、10年、20年と町に根を下ろして、旅人や噂、異変の情報を集める拠点になってる。いわば、長期任務だな」
「……じゃあ、見た目も?」
「そう。もう20年以上ここにいるからな。年を取らなきゃおかしいだろう? この姿も変装、ああ、だから敬語もなしでいいぞ!」
そう言ってガロは、笑いながら白髪混じりの髪を指でかき上げた。
そして視線を横に向け、微笑みながら、
「この子たちは——」
だがその言葉を遮るように、ソファの端に座っていた小さな女の子が、勢いよく口を開いた。
「ねぇ! 私が話してもいい?」
それまで静かにしていたと思っていたが、目はきらきらと輝き、言葉をずっと溜めていたようだった。
ガロは苦笑いしながら首をすくめる。「ああ、いいよ。話しても大丈夫だぞ」
女の子はうれしそうに立ち上がり、小さく礼をするようにぺこりと頭を下げた。
「私はエリン! よろしくね、ユリアって呼んでいい?」
「もちろん、よろしくね、エリン。ユリアって呼んで」
ユリアが笑顔で返すと、エリンもにっこりと笑った。前に出てきて、ユリアのそばの椅子にちょこんと腰を下ろす。
「私はね、ガロに助けてもらって、ここにいるの。たぶん、八歳よ。誕生日は……よく覚えてないけど」
ユリアは少しだけ目を見開き、優しく頷いた。「そうだったんだ。ガロに助けてもらって、よかったね」
「うん! こっちはねぇ、ネイヴ。一緒の孤児院にいたの」
エリンが手を伸ばして、部屋の隅に座っていた少年の手を引っ張るようにして紹介した。
少年——ネイヴは静かに立ち上がり、ユリアに向かって小さく会釈した。ややうつむきがちだが、まっすぐな目をしていた。
「……うん、ユリア、よろしく」
「よろしく、ネイヴ。ネイヴは何歳なの?」
「たぶん、十二歳くらい」
「私はね、二十五歳。今年、成人したの」
ユリアが優しく微笑むと、ネイヴの表情がほんのわずかに緩んだ。
エリンとは対照的に、おとなしく口数も少ないが、その瞳にはどこか静かな芯の強さが宿っているように思えた。
「この二人は、ここに来てもうしばらくになる。今では店の手伝いもしてくれてる、大事な仲間さ」
ガロの言葉に、ユリアはうなずきながら二人の顔を見つめた。
飛翔族たちは、こうして今も、行き場のない子供たちに手を差し伸べているのだ。
海辺のこの小さな家の中で、ユリアの心にも、少しずつあたたかなものが染み込んでいくのを感じた。
それからもしばらく、話は続いた。
エリンはどうやら森の民の血を引いているらしいこと、ネイヴは海の民とのハーフであるらしいことも分かった。
エリンは赤子のころに捨てられたそうで、自分の出自についてはよく分かっていないらしい。
ネイヴは「捨てられた」とだけ語ったが、それ以上のことは語らなかったし、ユリアも深くは尋ねなかった。
そのあいだ、エリンはすっかりルフを気に入ってしまったようで、頭の上に乗せてみたり、くすくす笑いながら撫でていた。
港町の話や、町での暮らしのことなどを話していると、
タン、タンと、木の階段を上がってくる軽やかな足音が聞こえてきた。
「ガロ~? お店閉めちゃって、どうしたの~?」
扉の向こうから、明るい声が響く。
「ルチア、お帰り。エルシアからお客さんが来てるよ」
扉が開き、ひょいと顔をのぞかせたのは、年のころ40代後半に見える、快活そうな女性だった。
その目がユリアに向けられ、ぱっと笑みが広がる。
「あら、見ない顔ね。私はルチア、よろしくね」
「ユリアです。はじめまして、ルチアさん。よろしくお願いします」
「ううん、“さん”はやめて。敬語もいらないわ。気楽に話しましょ」
「……うん、そうする!」
ルチアはにっこりと笑い、ユリアの顔をじっと見つめた。
「それで、まだ旅慣れてはいなそうね?」
「うん、成人の儀を終えてから、初めての旅なの。族長から“かもめの夫婦”に会ってこいって言われて……」
「族長って、サピエル様のことかしら? ここを勧めるってことは……あなた、海の旅に出たいの?」
ルチアは少し首をかしげ、ひとりごとのように続ける。
「最初の旅なら西の山道あたりを勧めそうなものだけど……」
ユリアは少し戸惑いながらも、静かに続けた。
「行き先は特に決めてなかったんだけど、旅に出るなら“白鳥の姫君”を探してくれないかって……族長に言われたの」
「白鳥の姫君?」
ルチアは眉をひそめ、聞き返す。その反応からして、どうやら知らないようだった。
代わりに、ガロが小さく息をのんだ。
「……ずいぶん久しぶりに聞いたな、その名。消えた白鳥の姫君。俺が生まれるよりも前の話だ」
場の空気が一瞬だけ静まる。しかし、ルチアが手を打つように言った。
「ま、とりあえず話はこのくらいにして、ご飯にしましょうか」
「そうね。すっかり話し込んじゃったわ。お昼も食べ逃しちゃって、お腹ぺこぺこ」
ルチアはそう言いながら、手際よく食器を並べ、パンやハム、野菜、果物などをテーブルに並べていった。ガロも手伝いながら、テーブルの空気が穏やかにほどけていく。
食事がはじまるころには、ユリアの表情にも自然と笑みが浮かんでいた。
「さて……まずはどこに向かおうかしら?」
パンをちぎりながら、ルチアが軽やかに切り出した。
カモメの夫婦と出会えたことで、ようやく次の一歩へとつながっていく気配がした。




