はじまりの夢
高い高い山脈の合間――
人が簡単にはたどり着けないその場所に、一つの村がある。
風の通り道にひっそりと寄り添うように点々と築かれたそのエルシアという村には、少しだけ“かわった”人々が住んでいる。
朝、村の高く伸びた一本の木の枝先に、羽を休める少女がいた。陽の光を浴びながら空を見上げる。少女の名は――ユリア。
「ユリア~!」
下から呼ぶ声がした。
「なぁ~に~?」
「ちょっと降りてきてよ~」
「上っておいでよ~」
「無理に決まってるじゃん!」
「アハハハ、わかった、わかった。今降りるね~」
ユリアは黒い翼をバサッと広げ、枝から滑るように飛び立つ。風を切りながら音もなく地面に降り立った。
そこには、幼なじみの少女・メイナが立っていた。小柄な体に大きな目をきらきらさせて、手には何かを抱えている。
「メイナ、どうしたの?」
少し、もじもじしながら、差し出されたのは、少しつぶれかけているが、丸くふくらんだ橙色の実。、ぽん、と軽く弾みそうな見た目だった。
「ねぇねぇ、あのね、これみて見て。これが落ちてたの!」
「ん?あぁ、そんな季節ね。そのポンポンの実」
山里にも春の兆しが現れはじめている。日差しはあたたかく、野には小さな花が咲き始めていた。
「きっと、あっちの山の上の方にたくさんなってると思うんだけど……」
「西側の崖の方でしょ?たしか。う~ん、結構高いところにあるもんね。確かにメイナじゃ難しいかもね、一日かかっちゃう」
「んもう!」
「んふふ、いいよ。とってきてあげる。ちょっとまってて、後で家に持ってくね!」
そう言うと、ユリアは再び翼を広げて空へ舞い上がった。
雲のすぐ下まで上昇し、西側の崖を目指して飛ぶ。高い位置から見下ろせば、岩場のあいだに実をつけた木々が風に揺れているのが見える。
(たくさん採って帰ろう。メイナ、喜ぶだろうな)
(確か山小屋に、カゴとか袋とかあったはず、よね?)
その前に――ユリアは近くの山小屋に立ち寄ることにした。そこには、登山者たちが共同で使う道具や備品が置かれている。何か実を入れる袋やカゴがあるはずだ。
小屋の扉に手をかけたその時、不意に扉が開いた。
「わぁ!」
「わっと、なんだぁ、ユリアか」
驚いたユリアが一歩さがると、扉の向こうには背の高い青年が立っていた。灰色のマントを羽織り、肩に弓を背負った彼――エルネス。
「びっくりした、誰かいるなんて思わなかったよ!」
「こっちもだよ。まさかこんな時間に誰か来るとは思わなかったからな。お前、今日は崖の方にでも行くのか?」
「うん、メイナが“ポンポンの実”欲しいって言うから。ここにカゴとかないかなーって」
「カゴなら奥にひとつあったはずだ。ちょっと待ってろ」
中へ入っていくと、しばらくして編み目のしっかりしたカゴを持って戻ってきた。
「ほら、これ。ちょっと重いが、飛んで運べるか?」
「もちろん!ありがとね、エルネス!」
うれしそうに受け取ると、ユリアは翼を広げた。
「おい、気をつけろよ。あのあたり、風が強い日が多いからな。上昇気流に乗りすぎると崖の上に叩きつけられるぞ」
「うん、大丈夫!……たぶん!」
軽く手を振って笑うと、ユリアは再び空へと飛び立った。
高く高く――風を受けて、黒い翼は空を滑る。崖の上に実る、春の恵みを求めて。
(メイナ、きっと喜んでくれるよね)
エルネスはその姿をしばらく見送ってから、ふっと息をついてつぶやいた。
「……やれやれ、あいつはいつも風のようだな」
風がユリアの黒い翼を押し上げる。山の間を越え、雲を割って、彼女はその実を探しに向かう。
崖の上の森は静かだった。風の音と、木々のざわめき、そして時折聞こえる鳥の声だけが周囲を満たしている。
ユリアは枝に降り立ち、周囲を見回した。
「……あった」
陽に照らされて、橙色の“ポンポンの実”が枝先に揺れている。丸くふくらみ、表面には細かい毛がふわふわと生えていて、まさに名前通りの姿だ。
彼女は器用に枝を渡りながら、ひとつずつ実を摘み取り、カゴへそっと入れていく。気がつけば、カゴの中はもう半分以上が埋まっていた。
(よし、あと少し……)
その時だった。
誰かの声が、聞こえたきがした。
「……誰かいるの?」
ユリアは手を止め、翼を少し広げる。気配を探るように静かに耳を澄ませる。だが、次の音はしなかった。
風が止み、森全体が一瞬、息をひそめたように感じた。
「……気のせい、かな」
そう自分に言い聞かせながら、再び実を摘もうとしたその時――
「ユリア……」
背後から、微かに名前を呼ぶ声がした。
驚いて振り返るが、そこには誰もいない。けれど、空気がわずかに震えていた。
彼女は目を細め、森の奥を見つめる。
「……エルネス?」
いや、違う。あの声はもっと……遠く、古い記憶の底から響いてくるようだった。
(この森……なにか、いる?気のせいかな?)
ユリアは再び翼を広げた。これ以上、ここに長くいる必要はないと思った。
「また今度にしよう……これだけあれば、十分」
そうつぶやき、カゴを胸に抱えて、ユリアは森を後にする。
崖を飛び降りるように、ユリアは風に乗って滑空した。森を背にしても、あの声の余韻はまだ耳の奥に残っていた。
(あれは……気のせい、かな。名前を呼ばれた気がしたけど……)
空を飛ぶ感覚に集中しながらも、心はざわめいていた。ユリアは下の谷に広がる雲を抜け、小さく見える里を目指して飛ぶ。
やがて、彼女の家の前に着地すると、メイナがちょうど外に出てきたところだった。
「ユリアー! おかえりっ!」
「メイナー、はい、これ。いっぱい採ってきたよ」
カゴを手渡すと、メイナの目がぱっと輝いた。
「わあ! 本当にたくさん!ありがとう!……えへへ、ユリアってほんと、かっこいい」
「ふふ、それほどでもないけどね。とりあえず、一つ食べよう!」
「うんうん!食べよう、食べよう!」
二人は縁側に並んで腰を下ろし、ポンポンの実を一つずつ手に取った。
手で皮がむける果物はきちょうだ、食べやすいし、それにこれはおいしい!
「じゃあ、いただきまーす!」
「いただきます!」
ふたりが同時に実を口に運ぶと、柔らかな甘みと、ほのかな酸味が口いっぱいに広がった。ふわふわとした果肉が舌の上でとろけ、香りが鼻を抜けていく。
「ん~! やっぱりおいしい!」
「うん、やっぱりこの季節の味って感じだよね」
頬をほころばせるメイナを見て、ユリアも自然と笑顔になった。けれど、その笑顔の奥には、まだ森の奥で感じた“気配”が、ぼんやりと残っていた。
メイナがふと、ユリアの横顔を見て首をかしげる。
「ねえユリア、なんか……元気ない?」
「……うん。さっきね、誰もいないはずなのに、誰かに呼ばれた気がして。でも、なんだかすごく懐かしい声だったの」
「懐かしい……?」
ユリアは黙ってうなずいた。
その瞬間、遠くの山の向こうで、ふたたび風がざわめいた。どこか、声のように聞こえたその風に、ユリアの目が鋭く細められる。
(何だろう、不思議だったな・・・)
それから他愛のない話を続けながら満足いくまでぽんポンポンの実を食べ、メイナの家をあとにする。
「それじゃあまたね!」
「うん!またね!」
――その夜。
ユリアは夢を見た。
深い森の中。霧のかかる木々の間。月夜の湖。高い高い崖の上の神殿。場面は次々と変わっていく。誰かがいる気配がするが、姿は見えない。
「だれ?なに?」
夢の中で、ユリアはそう呼びかけた。
すると、何かの気配がちかづいた。
「ユリア……思い出して」
低く、優しく響く声。
目が覚めたとき、ユリアの額には汗がにじんでいた。
そして、心の奥でなぜか確信する――何かをさがさなくては、と。