海の見える場所へ 1
朝。
かすかな鳥のさえずりと、窓の外から差し込む光が、ユリアのまぶたをゆっくりと開かせた。昨夜の出来事が夢だったかのように、部屋は静まり返っている。
ベッドから身を起こすと、窓辺にとまっていた白い影がふわりと跳ねて、彼女の肩へ舞い降りた。
「……ふぁ、おはよう、ルフ」
ルフは小さく鳴いて、くちばしで彼女の髪をついばむように撫でた。
支度を整えながら、ユリアは昨夜のことをぼんやりと思い出していた。
宿の食堂に降りると、まだ人影はまばらだった。
パンと干し果実の皿、温かいスープを運ばれて、テーブルに腰かける。ルフが湯気を警戒して、そっとユリアの肩に顔をうずめた。
「おはよう」
その声に顔を上げると、入口の影からアルが現れた。眠れなかったのだろうか、眠そうにふらふらしてる
「……おはよう」
それ以上、どちらからも昨日のことには触れなかった。何をしに行ったのか、今はしない。それは互いの距離を保つ、黙契のようなものだった。
「ここからは、までだな、天候が悪くなければ14、5日あれば着くとおもうぞ。」
「うん。地図を見た限り、街道沿いに南へ下っていくみたいね。」
「ああ、少し遠回りではある港町のヴァリーノが、天候が悪くても進めるからな。森の中を抜ける近道もあるが、場所によっちゃ足止めを食らう場合もある。」
「うん。いくつか川もあるみたいだし、街道沿いのほうが確実そう。」
「だな。いくつか町もあるし、特に準備も必要ないな。それじゃあ、行きますか。」
そういいながら、港町のヴァリーノへの旅へ出発した。
「ねぇ、何度目だと思ってるの。」
怒りを抑えた声が、街道に長く伸びる影の中で静かに響いた。
ユリアは一歩先を歩きながら、振り返りもせずに言った。
「ねえ、アル。聞いてる?」
「……聞いてる。めちゃくちゃ聞いてる。耳に風穴があきそうなくらい」
「じゃあ、その口、少し黙ってて。あと、女の人に話しかけるの、今日から禁止」
「いや、でも俺が口を開かないと、この旅、会話ゼロじゃない?」
「それでもいいから」
ルフが肩の上で「ピピ」と鳴いた。完全に同意している。
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ティラーニアを出発した後、野宿をして小さな町へ着くまでは順調だった。
一つ目に立ち寄った町で、
「やぁ、お嬢さん。その髪、陽に透ける琥珀みたいだ。きっと森の精霊の血でも混ざってるんだろう?」
声をかけられた女性はあからさまに嫌そうな顔をして、避けていく。
「やぁ、君のその青い瞳、澄んだ湖のようだよ」
今度は女性の彼氏らしき人に威嚇されている。
「ちょっ、アル!やめなさいよ、迷惑がられているでしょう?」
「いやぁ、美しい人を見るとつい声をかけたくなっちゃうんだよね~」
「迷惑よ、やめなさい」
ひとやすみするつもりだったが、これは、早めに村を出たほうがよさそうだ。
「もう、アルのせいだからね!」
そういいながらすぐに町を出ることにする。
しばらく離れてから街道脇の木陰で休むことに。
「次からは声をかける相手考えてよね。」
「いや、ちょっと挨拶しただけで・・・」
「その挨拶が問題なの。」
「わかった、わかった」
「次の町では気を付けるよ」
「うん、そうして」
と約束したはずなのに、次の町でも、またその次の町でも同じことを繰り返すので、このままじゃまともに宿で休むこともできない。あきれて他人のふりをすることにした。
あと少しすれば海も見てくるだろうという頃に立ち寄った町で、
「……またやってる」
ユリアは井戸の前で水袋を満たしながら、ちらりと振り返った。アルが今度声をかけているのは、洗濯籠を抱えた若い女性。顔を赤らめて笑っているが、周囲には明らかに物言いたげな視線もちらほら。
その町は、他よりもやや大きく、人通りもにぎやかだった。ユリアは昼食用に果物やチーズを選びながら、アルの姿を完全に視界から外していた。
「……もう知らない。巻き込まれるの、疲れた」
いつもなら数歩後ろを歩いていたアルが、今どこにいるかなんて気にしなかった。
けれど、町の広場を抜け、パン屋の角を曲がったとき——背後から鋭い怒号が飛んだ。
「リア~!」
「そこの女! お前もグルか!!」
「えっ」
振り返ると、こちらの駆け寄ってくるアルの姿、その後ろには、怒りに燃える顔の中年男が、屋台の果物を蹴散らしながら突進してくる。
とっさに隠れる魔法を使いこともできずに、他人のふりをして逃げる。
「いや、違う、誤解なんだ! 俺はちょっと話しかけただけで、そしたら旦那さんが——って、ユリア! 待って! 助けて!」
ユリアはとっさに角を曲がり、さらに角をもう一つ曲る。近くの食堂の扉を押し開けると中に飛び込む。パンの香ばしい匂いと笑い声が迎えてくれる。
アルも何とか滑り込んできて、ドサリと向かいの椅子に腰を下ろす。
「……間に合った……」
「巻き込むの、やめてって言ったよね」
「うん……いや、ほんとごめん。でも、君も冷たくない?」
「冷たくさせてるのはだれ?」
アルはやれやれというように手を上げている。
ルフは店内の梁にとまり、くるくると目を回している。
しばし、パンとスープでささやかな昼食。何事もなかったかのように、町の喧騒は外で続いている。
だが、平穏は長くは続かなかった。
店を出た瞬間——
「いたぞ!! そいつらだ!!」
「止まれッ!!」
広場の反対側、怒り狂った旦那と、衛兵らしき男がこちらに向かって走ってきた。
「……また、あんたのせい……!」
「いや、でも逃げないと! 走って、ユリア!」
「ルフ、ついてきて!」
ユリアはスカートをかかげて駆け出し、アルと並んで路地を駆け抜ける。パン屋の裏、果物屋の裏手、物干し場を横切って、町の裏門へと突っ切る。
「こっち! 塀が低い!」
「ほんとに、もう、なんでこうなるの!?」
怒号と追いかける足音が背後で響くなか、ふたりは塀を越えて、町のはずれの草むらに転がり込んだ。
息を切らせながら、しばらく草の中で顔を見合わせる。
「本当に、次は無いから」
草の上、ルフが小さく羽ばたいて、彼女の頭にそっと降りた。




