湖をわたって
そのまま宿の部屋に戻り休むことにする。部屋の前で、
「それじゃあ、明日!お嬢さん寝坊するなよ!」
「そっちこそ!おやすみなさい、明日もよろしくね」
木造の建物はきしむ音こそしたものの、寝台は思いのほか柔らかく、ユリアは久しぶりに夢も見ずに眠れた気がした。ルフも彼女の肩ではなく、窓辺の棚の上で身を丸めていた。
翌朝。階下の食堂には、まだ早い時刻にもかかわらず、すでに何人かの旅人がパンとスープを前にしていた。窓の外には朝霧が立ちこめ、湖面を白く覆っている。
ユリアはテーブルにつくと、少ししてアルもやってきた。彼は目をこすりながら、「昨日は、よく眠れたか?」と尋ねた。
「うん。静かな夜だったね。夢も見なかった」
そう答えると、彼は小さく笑った。「それは、よかった」
温かいスープと焼きたての黒パンが運ばれてきて、ふたりはしばらく黙って食事をとった。隣の席では船乗り風の男たちが航路について話している。
やがて、ユリアはテーブルの端に置かれた小さな掲示板に目を留めた。そこには「対岸行き定期船、午前九時半発」と記されている。
「そろそろ、向こう岸に渡る準備をして出発するか、市場にも寄っていくだろう?」
ユリアの言葉に、アルは頷いた。
「霧が晴れる頃には出られるだろう」
ふたりは食事を終えると、静かに立ち上がった。船着き場は、宿を出て坂を下った先、湖の縁にあるという。まだ霧のなかだったが、少しずつ晴れてきている。
宿を出てすぐ、ふたりは船着き場の手前にある小さな市場に立ち寄った。湖沿いの通りに軒を連ねる屋台では、焼き魚の香ばしい匂いが立ちのぼり、乾いた果物やナッツ、旅人向けの保存食が並んでいた。
「これだけあれば、しばらく持つかな」
ユリアは果物の干し包みを手に取りながら呟いた。アルは荷物の重さを気にする素振りもなく、塩漬けの肉を選んでいた。
市場では、人々が活気に満ちた声でやり取りしていた。どこかの村が税を引き上げた話、帝国の兵がこの町にも現れたという噂、北方で船が沈んだという不吉な話まで聞こえてくる。しかし、白鳥の姫について語る声は、どこにもなかった。
ルフはユリアの肩に戻り、時おり首を傾けて周囲を見ている。彼女もまた、誰かの言葉を探して耳を澄ませたが、風はただ、湖の香りを運んでくるばかりだった。
やがて、朝の霧がすっかり晴れ、湖面は陽光を受けてきらきらと輝いていた。青く澄んだ水の上に、対岸行きの船が浮かんでいる。甲板にはすでに荷を積んだ商人や旅人たちの姿があった。
ふたりは船の近くまで歩き、順番待ちの列に並んだ。ルフはユリアの肩から飛び降りて、岸辺の石の上に降り立ち、小さく羽ばたいてはまた留まる。
列に並ぶあいだ、ユリアはそっと周囲を見渡した。髪に貝の飾りをつけた若い娘、巨大な荷車を引く男、見慣れぬ布を纏った旅僧。どの顔も、それぞれに異なる目的と物語を背負ってここにいる。
こんなにもたくさんの人が、それぞれの道を歩いているんだ
ユリアは小さく息を吸った。胸の奥で、知らない風がそっと動いた気がした。彼女の旅もまた、ひとつの物語として、この人々のなかに編まれていくのだろう。
そして、いよいよ乗船の順が巡ってきた。
桟橋からタラップへと足を運ぶと、地面とは違ってわずかに揺れているのがわかる。空を飛ぶ方がよほど不安定なはずなのに、なぜかこの揺れには少し緊張してしまう。
ユリアは足元に意識を向けながら、慎重に進んだ。
軋む音を立てる甲板に一歩を踏み出すと、すでに乗客たちが思い思いの場所へ向かっていた。子どもを連れた老婦人、荷を担いで黙々と歩く旅人。すでに腰を下ろし、くつろぎ始めている者もいる。
アルは手慣れた様子で荷を帆柱のそばにまとめ、持参した布を敷いて簡単な腰掛けを作ると、どさりと腰下ろした。
ユリアもその隣に座り、肩に止まったルフが羽を風にそよがせる感触を感じながら、湖の広がりに目を向けた。
船はゆっくりと岸を離れ、水面をすべるように進み始める。
船底が水を切る音が、静かに、けれど確かに耳の奥へと届いた。
陽はすでに高く、湖面はまるで磨かれた鏡のように輝いている。遠くの対岸はまだ白い霞に包まれていたが、空と水とが一続きになっているかのように、どこまでも続いていた。
「なんだか……どこへでも行けそう」
ユリアがぽつりとつぶやくと、アルは小さく吹き出して、
「うんうん。でもね、進めるのは湖の上だけだから」
「もう、気分壊さないでよ」
ユリアはむくれるふりをして笑った。
ふざけ合うようなやり取りを交わしながらも、ふたりの時間は穏やかに流れていく。
船は、黙々と湖上を進んでいく。帆に風がはらみ、時折、甲板に張られたロープがきしむ音が響いた。まばらな話し声や荷物のきしむ音が混じり合いながらも、どこかに「旅の途中」の静けさが漂っていた。
ルフは風に目を細めながらしばらく辺りを眺めていたが、やがてユリアの膝の上に降りて身を丸め、そっと目を閉じた。
どこまでも続く水面を見つめながら、ユリアは思う。
このまま行けば、夜には対岸の町に着けるだろう。
帆をふくらませる風が、自分の背中も静かに押してくれているような、そんな気がした。




