夜の足音
ほんの少し、早めに眠りについていた。森のざわめきに守られるように、ユリアは静かにまぶたを閉じていた。
――ちょん、と肩をつつかれる感覚に目を開ける。
そこには、白く丸まったルフが、くちばしでそっとユリアを突いていた。
「……なに?」
声は出さずに唇だけが動く。ルフは静かに羽ばたき、木立の向こうを指すように舞った。
ユリアは身を起こし、耳を澄ませる。……誰かの足音。数人分。距離は少しあるが、確かにこちらに向かってきているようだ。やや低い声で、短く言葉を交わしている。
息をひそめ、草の陰に身を寄せる。葉が風に揺れる音と、かすかな足音が重なる。
(誰かを探してる……?)
踏み鳴らすように地面を調べている様子。捜索――それも、急を要する何か。
しばらくして、足音が遠ざかっていった。ユリアはそっと息を吐く。
けれど、眠気が戻るより早く、また別の気配が近づいてきた。今度はばらばらに、さまようような足音。少し乱れている。……一人か?
再び草の影に身を伏せる。先ほどの数人が戻ってきているらしい。そしてその近くに、そろそろと草をかき分け、後ずさるように移動する影。片足をかばうように動く姿に、ユリアは息をのむ。
(あそこにいたら……見つかる)
思考よりも先に体が動いた。ユリアは地を這うように静かに近づき、相手の肩をとんと叩いた。
男が振り返る。驚いた顔。目が合う。
「……しっ。ついてきて」
小さく囁き、ユリアは導くように手招いた。男は躊躇したが、すぐにその意図を悟ったのか、そろそろとついてくる。ふたりはユリアが眠っていた草むらの奥へと潜り込み、そこでユリアは小さく魔法を紡いだ。空気が淡く震え、ふたりの周囲に透明な結界が張られる。
足音が近づく。草が踏まれ、言葉が交わされる。だが、それもやがて遠ざかっていった。
しん、とした静寂が戻る。
「……もう、大丈夫よ」
囁くように声をかけると、隣にいた男がふぅ、と息を吐いた。
明るい茶色の髪、そして顔の半分を覆うような髭。年齢は――よくわからない。光の加減で、若くも見え、大人びても見えた。
「やぁやぁ、お嬢さん、ありがとう。助かったよ」
男はにやりと笑いながらユリアの手を取って握った。軽薄な印象。けれど、目だけは真剣だった。
「助けてくれたのはいいけどね、俺が悪い奴だったらどうするの。次は、助けない方がいいよ?」
「……足、怪我してるでしょ。見せて」
ユリアは感情を動かさずに言う。男は少し眉を上げてから、笑いながら足を見せた。擦り傷と打撲があり、歩くのもつらかっただろう。ユリアは手早く薬草を取り出し、静かに手当てを施した。
「慣れてるねぇ」
「少しだけ」
その夜は、そのまま茂みの奥で朝を迎えることにした。
いつの間にか、眠っていた。警戒していたつもりだったが、静寂と疲労に引き込まれるように眠ってしまったのだ。
空は淡く染まり始めている。まだ太陽は森の端から顔を出していない。
隣を見ると、男はまだ眠っていた。だが、ルフが面白がってその鼻先をちょんとつついた瞬間、くしゃみのように目を覚ました。
「うわっ!なんだ? ああ……君か。昨日は本当に助かったよ。命の恩人だな」
男は起き上がって、ぐっと背伸びした。
「俺はアル。君の名前は?」
「……リア」
ユリアは一瞬だけ言葉に詰まり、本名を避けた。
「リアか。いい名前だ。で、リアさん、どこへ行くんだい?」
ユリアは一拍おいて答える。
「湖へ行くの。そのあと、向こう岸へ渡るつもり」
「ふむ、その先は?」
「港まで。そこから、さらに東へいくつもりよ」
「港までね。それなら俺と一緒だ。どう? 一緒に旅しない?」
軽い調子だったが、悪意は感じなかった。不安はあったが、今は同行者がいた方が心強い。
「……いいわ。港までなら」
ユリアは頷いた。
二日ほど歩き続け、ようやくティルヴァ湖が見えてきた。ふと初日に見た夢が湖のようだったことを思い出すが、雰囲気は全く違うので考えを振り払う。
湖に到着したときには、空が紫に染まりはじめていた。湖は静まり返りこれから出発はできなそうだ。
「泊まる場所を探さないと」
土地勘のないユリアは、戸惑いを見せまいとして、アルに問う。
「この辺でいい宿、知ってる?」
「もちろん。来たことあるからな」
アルは迷うことなく通りを歩き、手慣れた様子で宿屋に入っていく。古いがこぎれいなところだ。受付で二部屋を頼み、助けてくれたお礼だといって、支払いまで済ませてくれた。おかげで宿のとり方も何となく覚えることができた。
「部屋、二つ取っといた。さすがに同室じゃ、まずいだろ?」
「当たり前でしょ」
「ハハハ。それじゃあ、部屋に荷物を置いたら、いっしょに食事でもするか」
そういって、いったん部屋へ行き、
食堂でふたり並んで食事をとる。湖の魚と温かなスープ。あまり食べたことのない味に少し感動していると、
周囲の客の話し声がざわざわと耳に入る。
「……港の方にも……」
「……帝国の兵が来てるって……」
「……夜中に騒ぎがあったらしいよ……」
「……誰か捕まったとか……」
「見たんだ……」
「……黒い箱を……積んだ船……」
「……酒場にまで聞き込み……あんたも気をつけな」
「……白鳥の女神……」
ユリアはスプーンを持ったまま、ふと耳をそばだてた。
その名が、会話の合間に紛れるようにして確かに聞こえた。空耳ではない。けれど、その言葉に誰も反応せず、会話はまた別の話題へと流れていく。
ユリアは目を伏せ、ただ静かに、湯気の立つスープの表面を見つめた。言葉は霧のように彼女の内側で広がり、かすかに胸を締めつける。




