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蜚蠊奇譚:AI Edition

作者: Futahiro Tada

 夕暮れ、陽は沈みかけ、世界は蒼ざめた光の膜に包まれていた。台所の片隅、排水溝の奥深くに棲まう小さき者が、一つの死に直面していた。


 ぬらりと濡れた床面に、既に絶えし命が一つ。冷たく硬直したその骸は、光すら届かぬ水の闇に沈みながらも、尚、死の瞬間の熱を微かに残していた。かつて動き回っていたその躯は、今やただの殻と化し、沈黙の中に横たわっている。


 親蠊しんそうはそれを見詰めていた。長き触角を揺らし、微かな震えと共に、かつて同胞であったものの死を受け止めていた。声なき哀悼が彼の全身から溢れていた。だが、その表情とて、人間の目には映らぬ。彼の涙は、内なる器官に閉ざされ、ただ静かに、命の深奥で染みわたっていた。


 死骸は、やがて人間の白き手に掬われ、無造作にティッシュと呼ばれる紙に包まれ、音もなく屑籠へと投じられた。祈りも弔いもなかった。ただ、日常の一コマとして、それは終わった。


 親蠊は、それを見送った。冷たい木の板の下、微かな隙間に身を潜めながら。


 「生き延びねばならぬ。」


 彼の全身に、そうした本能と記憶が呼び起こされていた。亡き同胞の死を無駄にせぬために。巣の中で待つ、たった一つの小さな命のために。


 その子は、巣から出ようとしなかった。未成熟のその身は、まだ外界を知らぬ。彼が生を全うするには、食と水と、そして知識とが必要であった。


 ——ビニルの袋。


 それは、ただの廃棄物の集積ではなかった。そこにある残飯は、まだ甘き匂いを放ち、生の名残を残している。親蠊はそれを知っていた。そして、そこへ導くべく、子を呼び寄せた。


 降りよ、そこには糧がある。

 怯えるな、そこには知がある。


 子は、恐怖に震えながらも、父の言葉に従った。かさり、と音を立てて袋に落ち、やがてパンの欠片を見出し、むさぼり食った。甘い。温い。命を感じる。


 だが、親はそこで、警告を与える。


 「音だ。袋は、音を孕む。」


 ビニル袋の中を歩くとき、微かな衣擦れのような音が周囲に響く。それは、人間、美佐子にとって、雷鳴のように響く。彼女は敏感で、怒りをそのまま暴力へと変える。スリッパという凶器。殺虫剤という化学の火。そして、毒餌という見えざる呪詛。


 親蠊は語った。語らねばならなかった。自らの命が残り僅かであるということは、既に知れていた。あの黒きカプセルに潜む甘い罠。そのゼリー状の毒を口にしたとき、熱は、確かに体を焼いていた。


 「お父さんは……もう長くはない」


 子は震え、動けぬほどに恐れた。だが親は、優しく、その細い身体を撫でながら言った。


 「お前だけでも、生き延びるのだ」


 巣の場所、水の在処、罠の形、逃げ道の位置。全てを一夜で授けねばならぬ。それは継承ではなかった。遺言であった。


 親は語り、子は記憶する。蠅帳のように脆く、だが決して消してはならぬ教訓を。


湿気に満ちた廊下を、二匹の影が忍び歩く。親の歩みはやや重く、時折、立ち止まっては熱を帯びた胸を押さえていた。毒の余熱が、身体の芯より燻り出すように疼く。しかし、まだ倒れるわけにはいかぬ。未だ語るべきことがある。


 「浴室も……教えておかねばならぬな」


 その声には、弱さと使命が綯い交ぜになっていた。


 戸口の隙間をすり抜けて、彼らは浴室へと滑り込んだ。白磁の壁に囲まれたその空間には、重たき黴と石鹸滓の臭気が沈澱している。清潔を演出すべき場所にこそ、最も濁った水が溜まる。人間たちは、その矛盾に気づかぬまま、毎夜、疲弊した身体を洗い清めるのだ。


 「ここは、使われぬ時こそ、我らにとっての命の泉となる」


 親蠊は、壁面に這い上がり、わずかに残った水滴を啜った。子もそれに倣う。喉奥に冷たい感触が広がるたび、乾いた細胞が目を覚ますようであった。


 「だが、ここにも罠がある。見よ、この白き壁を。お前の黒き体は、余りにも目立つのだ」


 視覚に訴える対比。その単純さ故の恐怖。親は、白と黒の狭間で命を落とした幾匹もの記憶を語り継いだ。


 そして再び、彼らは玄関へと歩を進める。途中、脱ぎ捨てられた履物が無秩序に散乱していた。ブーツ、ミュール、パンプス。すべてが人間の奔放と怠惰の証左であった。


 「ここにも道がある。人間の目には映らぬが、小さき我らには、生死を分かつ裂け目だ」


 親は、玄関脇の壁際にある小さな穴を示した。そこからは、遠く外気の光が差し込んでいた。濁った生活臭の中に混ざる清明な風。子は、生まれて初めて見る外界の光に、ほんの少し目を細めた。


 「この道は、最後の逃げ道だ。毒が部屋を満たすとき、ここを忘れるな」


 ——伝承の終わり。語るべきすべてを、親は語り終えた。


 されど、まだ終わりではなかった。時間は、抗えぬ災厄を導いていた。カツン、コツンと硬質な音が迫る。それは、踵と床とが交わる不吉なる接触の音。美佐子の帰還である。


 戸が開かれ、白光が差す。外界の光の中、美佐子の影が、まるで冥府の門番のごとく現れた。眉を吊り上げ、スリッパを手に、殺意を纏って立つ彼女。その目が、蠢く二つの小さき命を見つけた瞬間、室内の空気が軋んだ。


 「また出やがったな。糞ゴキブリ!」


 その怒声は、まるで断罪の鐘の如く、部屋の隅々まで響いた。


 親蠊は即座に子の前へ出た。だが、既に毒は身体を蝕んでおり、筋肉は軋み、反応は鈍い。子は硬直し、動けずにいた。


 「逃げるんだ……! 立ち止まるな!」


 その叫びは、もはや命を削る衝動であった。長き触角を子に伸ばし、その黒き背を叩く。ようやく目覚めた子は、悲鳴のような足音と共に、フローリングを駆け出した。


 親もまた、その後を追った。


 ——だが、遅かった。


 風の如き一撃。スリッパが、まるで審判の鉄槌のごとく振り下ろされた。

 そして、床に叩きつけられた肉の潰れる音。


 「グシャ」


 親は、その音が何を意味するかを即座に悟った。


 子の姿がない。床には、赤茶けた液体を纏った一匹の亡骸。半身の小ささが、それが愛しき我が子であることを確定させた。


 親蠊は動けなかった。呻きもせず、ただその場に立ち尽くしていた。


床に残された、潰れた影。それが、もはや語ることも叶わぬ子の遺骸であることを、親蠊は、血の色をした液体の広がりによって理解した。


 視覚ではない。音でもない。

 あるいは、蠢く命の気配が、断たれたという、空気の変容そのものが、彼に事実を突きつけたのかもしれなかった。


 「……なぜ、ここまで惨い。」


 問いは声にならず、空虚な自問のうちに消えていく。彼の種は、何をしたというのか。人を襲ったか。奪ったか。ただ僅かなる糧を、命を繋ぐために、静かに求めただけではなかったか。


 無辜の命。寄る辺なき子。まだ翅も未熟で、世の恐怖さえ知らぬ小さな影。その躯が、今や重い沈黙となって、親の眼前に横たわっていた。


 親は、動かぬ子の傍らに立ち尽くした。

 それは葬送でもあり、儀式でもあった。沈黙のうちに、命の誓いを紡ぐ。

 彼の内に湧き上がる感情は、もはや悲しみではなかった。冷ややかで、焼けつくように熱い、そして何よりも鋭利な感情。

 復讐。


 「赦さぬぞ、美佐子」


 名を呼ぶたびに、触角が痙攣した。

 彼の体内を蝕んでいた毒は、なおも臓腑を焼いていたが、不思議と足は動いた。熱は冷え、意識は冴え、皮膚の一枚一枚が鋼のような覚悟で引き締まるのを感じていた。


 そして——翌夕。


 彼はなお、生きていた。

 死の使者が迎えに来ぬのは、或いは屍の魂が、彼の背に乗っていたからか。部屋の片隅に累々と積まれた亡き同胞たちの記憶が、ひそやかに囁きかける。


 「行け。我らの恨みを果たせ」


 その声に応え、親蠊は動いた。

 美佐子は、化粧を整え、派手な衣装に身を包み、再び己の虚飾を磨き上げていた。ドレッサーの前で唇をなぞり、ブランドの鞄に手をかけたその瞬間、親は滑り込むようにして、鞄の底へと身を潜めた。


 毒は既に全身を巡っていた。だが、まだ意識は明瞭である。復讐の火が、それを支えている。


 車内で、彼女が何度か鞄に手を差し入れたが、彼は微動だにせず、闇に潜むことに徹した。

 やがて、美佐子は御曹司との待ち合わせ場所であるイタリアンレストランへと足を運ぶ。


 ——そして、晩餐が始まった。


 白布の卓。燭台のゆらめき。赤ワインの香気。

 すべてが人間たちの祝祭を演出する舞台装置だった。だがその中心に、毒を背負った小さな影が潜んでいることを、誰も知る由はなかった。


 御曹司がワイングラスに目をやった瞬間。

 親は跳んだ。


 バサリ、と小さな音。

 宙を舞う黒き影は、正確に美佐子の顔面へと着地し、その皮膚を這う。


 「ウギャーッ! ゴキブリーッ!」


 店内が静寂を破られた。

 悲鳴は、ナイフよりも鋭く、空気を切り裂き、周囲の客の視線を一点に集めた。御曹司は驚愕し、美佐子の顔から何かが這い落ちるのを見つめる。


 その“何か”は、跳躍の余力を最後に使い果たし、美佐子の鞄へと戻り、そのまま静かに動きを止めた。


 死。

 だが、その死に顔は、不思議なほどに微笑んでいた。

 穏やかで、満ち足りたような、あたかも長き旅路の終着を見届けた者のような、安らかな表情だった。


 やがて、美佐子の縁談は破談となった。

 「騒ぎすぎ」「品がない」「虫が出るような女の部屋では、共に暮らせぬ」と。


 復讐は成った。


 静かに閉じられた鞄の奥深く、小さな亡骸は、もう語ることはなかったが——

 その死は、ひとつの物語を終わらせ、別の物語の序章となる気配を残していた。


〈了〉

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