英雄にはほど遠くとも、もう一度
シリアス中編ネタをひとまず短編にまとめたので、色々説明不足です。雰囲気で受け取ってください。
作中に自死のシーンがありますが、推奨する意図はございません。
――ぼんやりとした視界に真っ先に飛び込んだのは、虚ろな目をした女性だった。
丁寧に結い上げられた黒髪は絹のように艶やかで、白い肌に映える。
半分だけしか開いていない目には長いまつ毛が影を落とし、やや気だるげなその様子すらも実に婀娜っぽい。
何より、顔立ちそのものが非常に整っている。
生気を感じないせいか、精巧なビスクドールと言われても納得しただろう。
「あ、あの、ダニエラ様? 何かお気に召さない点がございましたか?」
震える声に呼ばれて、ふっと現実感が戻ってくる。
イウェーヤ公爵家の長女ダニエラ。……ああ、それは自分の名前だったはずだ。
「……なんでもないわ、大丈夫」
簡潔に答えると、質問者はホッと息を吐いてダニエラから一歩離れた。
改めて、しっかりと目を開く。
なるほど、先ほどから見えていた美少女は、姿見に映る自分だったらしい。
さらに、身につけている衣服は、繊細な刺繍を施された純白のドレス。……もしかしなくても、ウェディングドレスではなかろうか?
(結婚式? わたくしの? よく、わからないわ)
頭がボーッとして、こめかみがツキツキと痛む。
けれど、ダニエラの意思などお構いなく、周囲の人々はここから出て歩くように促すから従うしかない。
(足が、視界が、ふらふらする)
何故自分はドレスをまとってここにいるのだろう?
結婚をすると言われても、一体誰と?
「――来たか、悪女が」
頭の少し上から、低い声が聞こえる。
たった一言なのに、怨嗟の感情が溢れるほどに込められていた。
(……誰?)
目線を上げれば、氷の彫像のような男性がダニエラを睨みつけている。
サラサラと流れる白銀の髪に、切れ長の薄青の瞳。そして、まとう衣装が純白のスーツ……状況から考えれば、彼が新郎なのだろう。
「王命ゆえに従うが、私はお前を愛する気も妻として扱うつもりもない。決して忘れるな」
血を吐くような声で告げられて、思わず息を呑む。
彼はこちらを一瞥すると、手を貸すでもなくさっさと去っていった。
名も思い出せないが、彼はよほどダニエラを嫌っている様子だ。
(そう、言われてもね……ああ、頭が痛いわ。体が怠くて重い。わたくしはどうしたらいいのかしら)
――結局、何もわからないダニエラを置き去りにして、結婚式らしきものは済んだ。
らしき、と表現したのは、それがダニエラの知るものと大幅に違ったから。
場所は教会のようだが、参列者はなし。誓いの言葉もキスもなし。
ただ、聖壇に立つ司祭を証人として、紙にサインをしただけだ。
数秒の作業を済ませると、推定新郎は早々に帰ってしまった。
(こんな短時間で済むのなら、美しいドレスなど着せないでほしかったわ。せっかく着飾ったのに、何のために……)
淑女の装いは、着るのも脱ぐのも一苦労だというのに。
とにもかくにも、なんとか盛装を解いたダニエラは、今は侍女らしき女性と二人で馬車に揺られている。
本当に何だったのだろうか、あの茶番劇は。
「……あの、ダニエラ様? お体は大丈夫ですか? 今日はその、ずっと心ここにあらずといったご様子でしたが……」
向かいの彼女に声をかけられて、何度か目を瞬く。
少なくとも彼女は、自分を案じてくれているらしい。
「心配してくれてありがとう。……頭がぼうっとしていてね。あなたの名前も、今日共にサインを記した彼のことも。自分のことすら、実はわからないのよ」
「わ、わたしのこともですか!? マリエです。ダニエラ様の専属侍女の」
震える声で名乗られて、なんとか注視する。
下がった眉、わずかに涙に濡れた瞳。すがるような表情を浮かべているが、伝わってくるのは困惑と心配ばかりだ。
……不思議と彼女のことは、信じてもいい気がした。
「ありがとうマリエ。申し訳ないのだけど、わたくしと今日のことについて〝忌憚のない〟説明をしてもらってもいいかしら? 何を言っても絶対に止めないし、罰しないと約束するわ」
「……かしこまりました」
一瞬肩を震わせたマリエは、すぐに強く頷きを返す。
――まず、ダニエラ・イウェーヤは、社交界一の悪女として有名らしい。
外見こそ非常に美しいが、性格は傲慢で自己中心的。
家格の高さを笠に着て、気に入らない者は容赦なく排除する恐ろしい毒花として、名を馳せていたそうだ。
そして新郎は、最近家督を継いだばかりの若き伯爵で、名をブレイン。
怜悧冷徹な美貌の貴公子として有名なのだが、イウェーヤ公爵家とは政敵であったとのこと。
(代替わりに乗じて、政略結婚をしたということ?)
「……実はその、先代伯爵閣下はほんの数か月前に事故で他界されておりまして。その事故が、イウェーヤ公爵家の手によるものという噂もあったのです」
「そうだったのね」
つまり、新郎からすれば父の仇かもしれぬ女と結婚させられたわけだ。
ダニエラに恨みの目を向けるのも道理と言えよう。
「そ、それから、これもただの噂なのですが……伯爵閣下には、心に決めた方がいらっしゃったのだと」
「まあ、それは申し訳ないことをしてしまったわね」
「ダニエラ様のせいではありません! この結婚を命じられたのは、旦那様ですから……」
そうこう話している間に、馬車がゆっくりと止まった。
窓から外を窺えば、真新しい貴族邸宅と、その前に立つ使用人たちの姿が見える。
(でもこれは……)
残念ながら、歓迎の空気は微塵も感じられない。
どちらかといえば、護送された罪人を待ち構える兵士のそれだ。
あまりに剣呑な雰囲気に、マリエも怯えてしまっている。
(――そう。だったら、〝もう動いたほうが〟よさそうね)
ダニエラは小さく息を吐いてから、自身の隣に置いていたものを手に取る。
それは、どこにでもある小型のトランクだ。しかし、何故かそれが〝大切なもの〟だと理解していた。
結婚相手の名前すら忘れているのに、これだけは託すべき相手に渡るまで手放してはいけない、と。本能的に知っていたのである。
「マリエ、よく聞いて。このトランクを、必ず伯爵閣下に渡してくれる?」
「ダニエラ様……?」
「わたくしには……そう、やるべきことがあるの。たぶんね。だから、あなたに託させて」
「そんな、どうして? ダニエラ様はどこへ?」
わからない。それでも、と。
まっすぐに目を見ながら伝えると、トランクを両手で受け取った侍女は、強く頷いて馬車を降りた。
一向に降りてこないダニエラに、周囲から困惑の声も上がってくる。
「……御者の方、申し訳ないのだけど、もう少し付き合っていただいていいかしら。行先は……そうね。えっと、そう……教会よ」
「お待ちください、奥様!」
なんとか目的地を伝えたダニエラに、今度は横から制止の声が響く。
開けっ放しだった扉の外から、小麦色の髪をなびかせる若い衛士が手を伸ばしていた。
「間もなく日も落ちます。供もつけずにどちらへ?」
「教会よ。……大丈夫。あなたたちの主人の不利益になるようなことはしないわ」
「でしたら、自分がお供いたします!」
彼はそう言うやいなや、強引に客車に乗り込んで扉を閉めた。
護衛役といったら並走するものしか知らなかったダニエラとしては、彼の行動に驚くばかりだ。
(……しかも、相乗りすると狭いわ)
彼は侍女よりもずいぶん体が大きいし、足も長い。
紺を基調とした制服の上からでも、鍛えられた体躯がわかるほどだ。
「……しまった! 護衛役が同乗するのは、問題だったでしょうか!?」
「そうね、男女で二人きりになってしまうのは、多少問題があるかもしれないわ」
「ああ、申し訳ございません! 自分、つい最近こちらで勤め始めたばかりで、貴族の方の常識に疎くて……!」
バッと頭を下げる彼に、目を瞬く。
……大きな犬を見ている気分になってきた。
「構いませんよ。旦那様も、そのような些細なことを気にする方ではないでしょう」
「ありがとうございます! あ、自分はセスと申します、奥様」
名乗った衛士……セスはホッとした様子で姿勢を正す。
邸前で待っていた使用人たちとは違い、彼からは友好的な印象を覚えた。
「貴族の常識に疎いのなら、あなたはわたくしのことを知らないのね」
「一応同僚から、噂程度のことは聞きましたが、詳しくはありません。あなたは今日から奥様です。自分たちが仕えるべきお方です。知りもせずに失礼な態度をとるのは、どうかと思いまして」
こちらをまっすぐに見つめて訴えるセスに、くすぐったいような感情を抱く。
温かくて優しい目つきは、ダニエラには長く縁のなかったものだ。
「ふふ、ありがとう」
「どういたしまして!」
ささやかな雑談をしつつ、二人を乗せた馬車は来た道を戻り続けて――やがて式を挙げた教会に到着した。
セスが最初に危惧した通り、あたりはすっかり日が落ちて真っ暗だ。
清貧をよしとする教会には、当然外を照らす灯りなど用意されていない。
「暗いですね。奥様、足元にお気をつけて」
「ええ、ありがとう」
ぎこちないながらも丁寧に手を引かれて、ダニエラはゆっくりと歩く。
新郎にも手を取ってもらえなかったのに。
「これはイウェーヤ公……いえ失礼しました、伯爵夫人」
やがて扉を開くと、小さな手燭を携えた司祭が出迎えてくれた。
急ぎ足で教会内の燭台にいくつか灯してくれるが、それでも心許ない明るさだ。
「お忘れ物ですかな? それとも、何か問題でも?」
「そうね。時間をとってもらって大変申し訳ないのだけど――今日の婚姻誓約書を無効にしていただけないかしら」
「えっ!?」
司祭と同時にセスも声を上げる。
名ばかりの挙式をしてから、一日どころか数時間だ。
さすがにこの速度で縁を切る夫婦は前代未聞だろう。
「お、恐れながら伯爵夫人。婚姻誓約書はすでに受理されております。特別な理由もなく離縁をするとなると、最低でも三年お待ちいただくことに……」
「……そうよね」
おろおろしながら答える司祭に、ダニエラも苦笑を返す。
貴族の婚姻といえば、家のための政略が主流。そのため、契約ごとにほいほい切り替えられないよう、王国法で最低三年の期間が定められていた。
記憶と認識が曖昧なダニエラも、これはちゃんと覚えている。そして、
「ちなみに司祭様、即時離縁……あるいは無効化ができる〝特別な理由〟は、何があるかしら?」
「そうですね、一番確実なものですと『死別』ですな。夫婦の一方が亡くなってしまった場合は、期間の縛りが解除されます」
(やっぱりそうよね)
寡夫あるいは寡婦となった若者を、三年も死者に縛ってはもったいない。
予想通りの返答が得られたダニエラは、セスに向き直って、満面の笑みを浮かべた。
「セス、あなたの剣を貸してくれるかしら?」
それはもう、とびきりの、大輪の花が開くような笑顔で。
「…………何を、なさるおつもりですか?」
「大丈夫。あなたにも司祭様にも、決して刃は向けないわ」
無礼討ちでもされるのでは、と身構えた司祭が「へっ!?」と間抜けな声をこぼす。
社交界きっての悪女ならばやりかねないと思ったのだろうが――そうではないのだ。
「斬るべきものがあるのなら、自分が対処します。危ないことはおっしゃらないでください」
「それでは駄目なのよ。あなたに斬らせたいわけではないのだから」
薄暗い教会内で、じっと見つめ合う。
職務に忠実で、実直な衛士。ああ、なんと好ましい男性だろうか。
……きっと、悪女と呼ばれるダニエラとは正反対だ。
「もう一度聞きます。何をなさるおつもりで?」
「お願いよ。ほんの少しだけでいいの」
「奥様、用途を」
「……お願い」
言い合うこと数度。
決して譲らぬダニエラに――観念したらしきセスは、懐から小さな短剣を取り出した。
ダニエラの手のひらに収まるほどの、護身用としても小さすぎる剣だ。
「まあ、ずいぶん可愛いものを持っているのね。ありがとう、セス」
「刃物には違いありませんので、扱いには気をつけ……」
「では、旦那様に『どうかお幸せに』と伝えてくれる?」
セスが注意を言い切る前に――ダニエラはその細い刃で、首を掻き切った。
「――……え」
硬直した二人の姿が、ゆっくりゆっくりと流れて消えていく。
もともとぼやけていた視界は、やがて完全な闇になった。
「お、奥様!? 奥様、しっかりしてください!!」
己の血で溺れて、息ができない。苦しい。……でも。
(これで、わたくしの役目は終わり)
* * *
(ああ、やっと意識がはっきりしたわ)
命の灯が絶えた後、ようやくダニエラは全てを思い出した。
自分が何者だったのか。何をしようとしていたのか。
――イウェーヤ公爵家は、ダニエラの父は、国を裏切った〝謀反人〟であると。
王家に連なる血筋として、ダニエラの家は代々外交の中核を担ってきた。
語学には特に力を入れていたし、屋敷の使用人や親類に隣国をルーツに持つ者が多いのも、そのためだと信じていたが……真相は違ったのだ。
ダニエラの父は侵略を企む隣国を助けて、王位簒奪を狙う謀反人……最悪の犯罪者だった。
もしこれが、悪政を打ち倒す革命であるならば、納得もできる。
しかしながら、我が国は周辺国家が羨むほどに平和で、王家も民に愛されていた。父はただの私欲で、謀反を起こそうとしていたのだ。
(あの人を、決して許してはいけない)
真実に気づいたダニエラは、あえて我侭で愚かな悪女としてふるまい、噂を流すことにした。
父に『監視する価値もない』と思わせるために。
その裏で少しずつ証拠を集めて、父の一派を残らず捕縛できるよう準備をしていた。
社交界で傲慢な態度をとったのも、なるべく関係ない家や人を巻き込まないためだ。亡き母譲りの容姿はどうしても人目を惹いてしまい、近寄る者は悪意で退けるしかなかったのである。
そうして準備をする中で見つけたブレインの父である先代伯爵は、行動力のある期待の星だった。
ダニエラが集めた証拠も、彼に託せばきっと父を追い詰めてくれる。
そう信じていた矢先――彼は事故によって帰らぬ人となってしまった。
(現伯爵閣下の考えは正しいわ。お父君を奪った犯人は、本当にイウェーヤ公爵その人なのだから)
悲劇は続き、息子のブレインが爵位を継ぐと同時に、父は彼との婚姻を強引に進めた。
いい加減不要になった不肖の娘ダニエラを、ブレインもろとも始末するために。
(実の娘に毒を盛るとは思わなかったけれど)
結婚式の日、ダニエラの頭がぼんやりしていたのは、彼に一服盛られたせいだ。
さすがにすぐ死ぬような強烈な毒ではなかったものの、イウェーヤ公爵が『自分の邪魔をするなら、娘すらどうでもいい』と思っていたことの証左である。
(それでも、なんとかトランクは託せてよかった……)
あれの中身は、これまでダニエラが集めてきた証拠だ。
どれだけ記憶が曖昧でも、あれを手放さなかったのは執念と言える。
〝公爵令嬢は自分の侍女やメイドにも酷い態度をとっている〟と噂を流していたので、ダニエラを嫌うブレインは、きっと被害者たるマリエの訴えを聞いてくれただろう。そう信じたい。
『あとは若き伯爵が巨悪を追い詰めて、めでたしめでたし、かい?』
ふいに響いた声に、ダニエラは目を瞬く。
……死者のダニエラに、目が残っているのかどうかはわからないが。
(ど、どなたですか?)
『そうだね。君たちの言葉でいうなら、神様だと思ってくれればいいよ』
(かみ、さま?)
抽象的な答えに、ますます混乱する。
だが、男性とも女性とも言いがたい落ち着いた声は、人知を超えた者と呼ぶのにぴったりでもあった。
『まさか君が、あんな行動をするとは思わなかったけどね。……まあ、とりあえず、君の願いは叶ったよ。侍女に預けた証拠は確かに伯爵に渡り、国を守る同胞たちと力を合わせて、巨悪イウェーヤ公爵は討たれた』
(そうなんですね! よかった……本当に、よかった!)
ダニエラの中を喜びの感情が満たしていく。
悪女のふりをし続けた人生で、ようやく訪れた最高の勝利だ。
もはや、悔いはない。
『よかった、ね』
だが、神様とやらはこの結末が不服なようだ。
声だけの存在にもかかわらず、明らかな苛立ちが感じられる。
(何かご不満でも?)
『不満だとも! 本来なら君は、夫である若き伯爵と協力して国を救う、英雄だったんだ。なのに何故、自ら命を手放すような真似をした?』
(それは……)
自死のほうを責められるとは思わず、口ごもってしまう。
……有体に言えば、近い将来自分が死ぬとわかっていたからだ。
外患誘致罪は極刑と決まっており、ダニエラも連座で処されるのは間違いなかった。
だから、処刑される前に自ら命を絶ったのだ。
ダニエラが余計なことをせずに死んだ結果、マリエに託した証拠の信憑性も上がっただろうし、全ての動きが早まったはず。
ならば、あそこで自死することは、国のためにも最善だった。
――と格好つけて言い切れたら、真の英雄だったのだけれど。
(……たぶん、心が折れてしまったんでしょうね)
本当の理由は、きっとこちらだ。
最悪な父のもとに生まれたせいで、ダニエラの人生はずっと戦いだった。
常に強い言葉を遣い、友人もろくに作れないような偽りの生活。
傍においていたマリエも、他に後ろ盾のない平民出だったため『これなら裏切らないだろう』と仲間にしただけだ。彼女にも心は許せていない。
最期には処刑しかないとわかっていて走り続けるのは、内心辛かった。
そんな中で結婚式を挙げることになったものの、誰にも祝福されず、夫には愛さないと宣言されて……ほんのわずかに残っていた少女の憧れが、木っ端微塵に砕けてしまった。もう無理だ、と。
(あそこから彼と信頼関係を結ぶなんて。ましてや、愛情を育むなんて無理だと、諦めてしまいました。頑張れなくてごめんなさい、神様)
『いや……すまない、君を責めるのは筋違いだったな。あの証拠を集めただけでも、君は充分に頑張っていた。これ以上を望むのは酷だ』
ただ、と。神の声がわずかに言い淀む。
『……最期の最後で、君は無関係な人間に傷を負わせてしまった。これだけは、間違いなく君の罪だ。だから、ダニエラ。償っておいで』
(え?)
何を、と問いただす前に、視界が真っ白な光に覆われていく。
はっきりと耳に届いていたはずの音が、徐々にぼんやりと消えていき――
「……あ、れ? えっ?」
光が落ち着いたと思った瞬間、ダニエラは〝目が覚めた〟
少し肌寒い空気。かすかに耳に届く水音。髪が滑り落ちる感触も、全て……ダニエラの人としての感覚だ。
「……生きてる? そんな、どうして」
慌てて体を起こせば、青い空と緑の芝生が飛び込んでくる。すぐ近くには、人工の小さな池もあるようだ。
手指が五本ずつあることを確認してから、そっと首に這わせる。
そこにはベタつく血液も裂けた皮膚もなく、つるりとした肌の感触と脈動だけが伝わってきた。
「動いてる……わたくし、生きてるわ……」
実感したら、涙が溢れた。
死を覚悟していた。悔いなどもうないはずだった。
それでも、今こうして生きていると思うと、どうしようもなく嬉しい。
(わたくしだって本当は怖かった……死にたくなんかなかった!!)
叶わないとわかっていたから諦めただけで、本当は自分のための幸せを望みたかった。ずっと、ずっと。
堪えていた涙が、後から後からこぼれ落ちていく。
泣いても、喚いても、今のダニエラを咎める者は誰もいない。
「……ほんとは、ずっと……!」
「――……奥様?」
ふいに低い声に呼ばれて、顔を上げる。
途端に飛び込んできたのは、風になびく小麦色の髪と見開かれた瞳。
ダニエラが最期に見た若い衛士が、呆然とした様子で佇んでいた。
「ああ、ごめんなさい……ぐすっ、みっともないところを見せて……あなたは、セスでよかったかしら?」
「は、はい、自分はセスです……本当に、奥様なのですね……?」
突如、かくんと彼の体が傾いで、地面に膝をつく。
「セス!? 大丈夫!?」
ダニエラが急いで駆け寄ってしゃがむと、伸ばした手が彼の両手にしっかりと掴まれた。
ひどく冷たかったが、込められた力の強さは痛いほどだ。
「セス?」
「生きてた……よかった、奥様……ご無事で、本当に……」
どばっと。面白いほど大量の涙が、彼の両目から溢れ出た。
つい先ほどまでダニエラだって泣いていたのに、男泣きを眼前にしたら何も言えなくなってしまう。
「え、えっと……色々と、ごめんなさい?」
「いいえ! いいえ!! 奥様が生きていてくださったこと。これ以上に喜ばしいことはありません!!」
「そう、なの?」
嗚咽をこぼす彼に手を掴まれたまま、ダニエラは見守ることしかできない。
振り解こうにも力は強く、また小刻みに震えているため、強引に離れるのも気が引けた。
――そうして、彼が泣き止むまで待つことしばらく。
ようやくダニエラは、ここがどこで、どういう状況なのかを聞くことができた。
「ここは、奥様が嫁いでいらした伯爵領であり……あれから二年経っています」
「二年も!?」
自称神様とやらが〝公爵は討たれた〟と言っていたので時間経過はわかっていたものの、まさか年単位とは思わなかった。
「謀反人であるイウェーヤ公爵本人は、託された証拠をもとにすぐ捕縛と処刑がかなったのですが、公爵領に隣国の侵略軍が潜伏しておりまして……全部片付くまでには時間がかかりました」
「そうだったのね。あなたも戦場に出たのかしら?」
「ええ、少しですが。その……自分は刃物が駄目になってしまいまして。お役に立てたかどうかは」
(刃物……あああ!!)
悲しげに目を伏せたセスを見て、衝撃が走る。
神様が言っていたダニエラが最期に傷つけた相手とは、自死の瞬間を見せてしまったセスのことだったのだ。
「わ、わたくしのせいなのね……あなたの持ち物で、あんなことをしたから……」
「いえ、奥様は悪くありません! あの刃物を渡してしまったのは、自分の罪です。是が非でもあなたを止めて、守るべきだったのに」
「セスは悪くないわ! しつこく食い下がったのはわたくしだもの。まだ若いあなたに、酷い心の傷を負わせてしまって……本当に何とお詫びをしたらいいのかしら」
「若いって、もともと奥様よりも年上ですよ、自分は」
小さく笑った彼に、少しだけ罪悪感が和らいだものの……確かにこれはダニエラの『罪』だ。
彼の人生の選択幅を、ダニエラの勝手な行為で狭めてしまったのだから。
「あなたは、その、今お仕事は?」
「今は衛士を辞めて、こちらの教会でお世話になっています。ここでは、刃物を持たなくてもいいので」
言われて改めて見れば、彼は神父のカソックを動きやすくしたような黒い衣装を身にまとっている。
そういえば、教会に警備や護衛で雇われている者は、〝刃物を持ってはいけない〟という制約があったはずだ。
剣を筆頭に、刃物は命を奪う象徴となるから。武器が必要な時は、警棒などを持つとか何とか。
「王都のお貴族様宅に勤めるよりは、こっちのほうが性に合っていたみたいです」
「セスが心穏やかにすごせているならいいのだけど」
だが確かに、ここは心地よいところだ。空気も澄んでいるし、心なしか清らかになれる気がする。
療養地というなら最適だろう。セスにも……ダニエラにも。
「自分よりも奥様ですよ。ご存命だったのですから、すぐに閣下にご報告いたしましょう!」
「あ、それは大丈夫。もともと、あの謀反人がまとめて処分するために決めた縁談だもの。わたくしが死んだ時点で、婚姻も無効化されているでしょうし」
「それは、そうでしょうが……でも、奥様は被害を最小限に抑えた、一番の功労者です」
「実父を止められなかった時点で、わたくしも同罪よ。……でも、そのわたくしはもう死んだの。今ここにいるのは、ただのダニエラだもの」
ふっと、あえて強気の顔を作れば、セスは一度目を瞬いた後、柔らかく笑った。
「では、ダニエラ様。死の淵からお戻りになった、あなたの目的をお聞きしても?」
「それがね、神様に償ってこいと送り返されてしまったのよ。わたくしが傷つけた、あなたに」
「俺に? あっ、失礼しました」
セスはまた目玉が落ちそうなほどに見開いて、まじまじとこちらを確認してくる。
……最期に見た彼は活力に溢れていたのに、心なしか頬がこけて、痩せたように見えた。
「悪女として社交界に君臨した……らしいわたくしに、何かできることはあるかしら?」
「教会なので、悪女の需要はないですね。ただのダニエラ様なら、きっと皆歓迎してくれると思います」
「そうだと嬉しいわね」
苦笑を浮かべたダニエラにセスも笑みを返すと、握ったままだった手をようやく離した。
……次いで、跪く形に姿勢を正したセスが、丁寧に手を差し出してくる。
「償いなど不要ですが、自分もあなたを歓迎します。初めましてをやり直させてください」
「……そうね。前のわたくしは、あなたの前でいきなり自死した奥様だものね」
ダニエラも姿勢を正すと、差し出された手をしっかりと取る。
「初めまして、セス。死に損なったただのダニエラよ」
「初めまして、ダニエラ様。自分……いえ、俺はここの教会に勤めるセスです。あなたのことを、教えてください」
「喜んで!」
二人で笑い合って、同時に立ち上がる。
なんと爽やかで心地よい再出発だろうか。
「まあ、それはそれとして、聞きたいことも色々あるのだけどね。わたくしの侍女のこととか」
「マリエ嬢でしたら、今も王都の邸宅にいると思いますよ。俺にわかることでしたら、いくらでもお答えしましょう。これまでのこと。これからのことを」
手を繋いだまま、青空の下を歩いていく。
高い家格も財産も、きっと何もかも失くしてしまったけれど、ダニエラはここで生きている。
――始めよう。今度こそ、途中で退場したりしない、自分の幸せのための人生を。
別に想い人とかいなかったブレインは、今も独身です。
色々後悔しているので、知らせたら普通に会いに来ます。