6
かくして始まったリハビリという名の試験期間。
リルアは毎日必死で藻掻き続けるが、迫る期日を前にして結果は芳しくなく、気付けば五日を越えてしまっていた。
「くっそー、まるで進歩がないんだけど!!」
パチパチと、焚き火の弾ける音を背景に、リルアは聖樹の前で肉を齧り付きながら悪態をつく。
今食べているのはライが獲ってきたもの。口で溶けてしまうほど柔らかく、それでいてしっかりと肉厚で実に美味。まあどんな生き物の肉なのかはリルアは知らないのだが。
「ははっ、そう落ち込むなって。最初よりは進歩してるんだしさ」
「嘘つけっ! 今日だって変わらなかったじゃん!」
「そうでもないさ。最初の三日くらいは終わった後ぺちゃんこだったじゃんか」
ライは軽く笑いながら励ましてくるが、リルアは表情通り欠片も納得出来ていない。
確かに彼の言うとおり最初の三日は酷く、終わった後に食事をするのも億劫になるくらい疲れ切っていた。それを考えれば確かに成長ではあるのだろう。
だが、それで満足できるかと言われればそんな訳はない。どうにか最後まで保つようになったとはいえ、未だ一太刀の兆しすら見えず。気がつけば残り時間は半分となってしまっているのだから。
「ライはなんで息一つ乱れないの? いくらなんでもおかしいよぉ」
「だから言ってるだろ? 呼吸が大事、まずはそれからだってよ」
「そうだけどぉ……」
確かにそれはこの数日散々言われている。基礎能力、魔力の前にまずは呼吸を洗練させろと。
けれどそれだけでは曖昧すぎて、どうにも要領を得ない助言でしかない。
それでいて具体的な方法を何度聞こうとも、その先は自分で考えろと言って教えてくれないのだ。こんな調子じゃ進展しているとすら思えなかった。
「けどま、ほんとに筋はいいんだぜ? 俺的には十日でようやく慣れてこれからってところではいおしまい! って感じを想像してたしな。良い意味で予想外だよ」
「……何それ。性格悪っ」
「そう言うなって。自覚はあるからさ」
ライは楽しそうに笑みを深め、手作り感満載の木の容れ物に入った液体を喉に流し込む。
ほのかに鼻を擽る特有の臭いから推測するに、おそらくは酒かそれに類する何かだろう。
冒険者と言えば酒、酒と言えば冒険者とはよく言われるが、こんな自然に籠もってまで酔いを欲しがるのは、彼もまた荒くれ溢る冒険者共どもと同類ということか。
「そういえば、ライは等級ってどんくらいなの? こんな危険な山で暮らせてその強さなら、きっと金級くらいはあるんでしょ?」
「……勘違いしてっけど、俺に等級なんてねえぞ? そもそも冒険者登録してねえしな」
「え、冒険者じゃないの? じゃあここに越す前は何してたのさ?」
「……あー内緒。強いて言うなら奉仕活動。世のため人のために働いてたって感じ?」
ライはそこでこの話は終わりだと、言葉を濁すように飲み物へ口を付ける。
冒険者でないのならこの人は何をしていたのだろう。というかこの人何歳なんだろうか。
外見は若々しく中性的な美男子。見かけだけで判断すれば私より少し歳上か。もし初対面が街であったなら、とりあえず容姿は褒めていたと言っていいほどだ。
けれど悲しいことに世の中は広い。
外見が人とそれほど差がないくせに全然違ったり種族がいたり、各々の理由から人に化けている奴が少なくない。そのせいで容姿などあんまり当てにならないことが多かったりするのだ。
「ま、合格したらその辺も教えてやるよ。どだ? 更にやる気出るか?」
「出ないよ。山奥に住んでる男の素性を知ってどうなるってのさ」
「ハハッ、そりゃ違いねえわ!」
やかましいほど手を叩いて笑うライ。
完全に酔いで出来上がっている様に、こんなやつに勝てないのかとリルアは落ち込んでしまう。
「ま、そろそろヒントくらいはやるさ。そうさな、お前の頑張りに免じて二つ教えてやろう」
「また適当なやつ?」
「いんや、今度はちゃんとしたやつ。感謝しろ、特別だぜ?」
容れ物を近場の石に置いたライは、焚き火の側から焼けた肉を手に取る。
「いいか? まず呼吸についてだが、明日からは聖樹の葉を持たずにやれ。お前ならそれで多分掴める」
「……いや無理でしょ。流石にきついって」
「できるできる。んで二つ目。その木刀だが、魔力を通して使え。以上」
「はっ? 出来ないから苦労してるんじゃん」
説明を終えて肉を食べ始めるライを前に、リルアは疑問の声を漏らしてしまう。
最初の助言はまだわかる。いや、命綱を捨てて取り組めって言われてる時点でだいぶあれなのだが。
けれど、もう一つはまるで意味が分からない。
あの真っ黒な棒きれに魔力を通すのは不可能。だから身体強化やら気合いで振り回すしかないって結論に至ったのだ。今更その前提を覆されてもそう簡単には頷けない。
「最初に言ったろ? その木はほとんど魔力を通さないって。けれど言い換えれば、完璧に遮断しているわけじゃない。例えるなら、ピタリ賞じゃなきゃ通らない入り口がめっちゃ小さいって感じさ」
「……そう言われても実感湧かない。ちょっとやってみせてよ」
「それじゃ意味がない。確かに今ここで実演しちまえば、きっとお前は何となく理解しちまうだろうよ。けどな? どうせこれを身につけるってなら、何となくじゃねえ方がいい。安全性がまるで違うんだわ」
それは分かるようで分からない説明。
けれどライが意地悪で言っているわけではないと、それだけはリルアにも何となく伝わってくる。
確かに魔力は便利だが、その利便性と同時に身を滅ぼす爆弾にもなりかねないもの。自業自得とはいえ、その心得を疎かにして独学で適当に使用する新人冒険者は多く、仲介所も問題視するくらいではある。
だが、それはあくまで一般的常識に基づいた話。
あと五日で目的への道しるべが途絶えてしまいそうな自分。そんな切羽詰まった状況で危険性など気にする余裕もなく、例えどれだけ不安定であろうとも、今使える手札を増やせなければ意味がないのだ。
「ごちそうさま。ちょっと出てくるから」
「お、どっか行くのか? 気を取り直しての修行か?」
「うるさいぞ酔っ払い。見てろよ、明日はぎゃふんと言わせてやるからな!」
「おー頑張れ。暗いから迷子にはなるなよー」
飲んだくれの声を背に受けながら早足で細道を早足で進み、この数日でおなじみとなってしまった湖へと到着する。
空に佇む月の光を受けて輝く水面は美しく、昼間とは違う場所のようにすら思えてくる。これで泳げたのならもっと満喫出来るのだが。
湖を眺めながら懐に手を伸ばし、肌身は出さず身につけている聖樹の葉を取り出す。
現状激しい動きが出来ているのは、ほのかに輝くこの一枚のおかげ。けれどそんな命綱に等しいこの葉を捨てろと、あの男は実に軽く言ってきた。
ゆっくりと葉を捨てようとするが、手にはその意志に抵抗するよう力が籠もってしまう。
当たり前だ。この葉がないときの呼吸の辛さは体験済み。例え決意を固めようと、無意識がその判断を拒んでもおかしくはない。
……駄目だ、これじゃあ駄目。止まってなんていられる時間なんて、私には残っていない。
「……せいっ!」
ええい、ままよと。
全力で振りかぶり、葉を正面へ、広がる湖の方へと投げ捨てる。
刹那、周囲の空気が切り替わるように濁っていくような感覚に襲われ、目の前をひらひらと舞う一枚の葉に思わず手を伸ばしてしまいそうになるが、すぐにもう片方の腕で食い止める。
苦しい、気持ち悪い、呼吸一つが不快でたまらない。
まるで自分という壺に少しずつだが毒の泥が溜まっていくかのよう。溜まった泥がやがて壺自体を侵食し、やがて器を壊さんと牙を剥いてくるかのよう。
さて考えろ。どうすればいい。失えば分かるとあいつは言ったけど、まったくもって見出せない。
呼吸を楽にする方法。呼吸を洗練させるにはどうすればいいか。駄目だ分からない。
段々と濁る思考の最中、不意に思い出したのはここ数日の出来事。より正確には、剣を振り続けてもなお一息たりとも乱さず攻撃をいなし続けたライの様子だ。
そうだ、あの男の呼吸。どんな風に息を吸っていて息を吐いていたか。まずはそれを思い出せ。もう一つの課題と違って、こっちは目の前に見本があったのだから。
「……すうっ、……はあっ」
息を吸う、そして吐く。ただそれだけに意識の全てを割く。
いらない物を吸いこまず。体が必要だと求める要素のみを選定し、それのみで体内で循環させる。
──これだ。このやり方だ。この呼吸ならこの場所でも活動できる。
不快感はない。視界がぼやけることはない。聖樹の葉を持っていたときと同じ、或いはそれ以上に体が軽い。立っている場所は同じはずなのに、不思議と世界が違って感じられる。
これが呼吸を洗練させるってことなのか。まだ意識しないと出来ないが、何とか切っ掛けは確かに掴めた。
「後は武器。木刀に魔力を……」
この調子でいければと、木刀を掲げてゆっくりと集中する。
イメージは小さな穴に糸を通すような感じと言っていた。ならばまず、見つけるべきは穴の方。
ゆっくり、ゆっくりと。小さな穴、魔力を通す糸口を──。
「はあっ、はあっ……。駄目だ、木刀に集中すると呼吸が疎かになっちゃう」
不意に襲ってきたぐらつきを咄嗟に踏ん張りながら、呼吸への集中に意識を戻す。
今の自分じゃ両方は無理。
剣への魔力通しを練習したいなら、聖樹の葉を付けるか呼吸を完全に自分の物にしないと話にならない。
「ああくそっ、歯痒いなァ……」
上手くいかないことへの不満を漏らしながら、ふて腐れるように地面に背を付ける。
汚れることなどどうだっていい。ふと手足を広げて空を眺めたい、そんな気分になったのだ。
「……星が、月が綺麗だな」
昼間の太陽と同じく、手を伸ばしても届かない夜空の煌めき達。それはまるで、今の自分が目指す合格への遠さをそのまま形にしたかのよう。
……まだ数日しかここにいないのに、気付けばもう随分と見慣れてしまった。
それもそうか。思い返せばここ最近、一日の終わりはずっとくたびれて倒れていたのだから。
「頑張ろっ。あいつを見返して、絶対あの人に会うために」
何度も繰り返してきた決意を再度己に刻み込む。
呼吸も魔力もやれてようやくスタートライン。越えねばならない壁は高く分厚いが、それでも自分に出来る事は諦めずに足掻き続けることだけ。それは最初から変わらない。
期日まであと五日。それがリルアに残された、勇者に辿り着くために制限時間だ。