5
ライからもたらされた言葉に、リルアはぽかんと困惑を顔で表してしまう。
試練。何かを測るために課す課題のこと。
言葉の意味は理解出来る。だが、何故今それが自分に向けられているか。それがいまいちピンと来ない。
何もしない、あくまで散歩ではなかったのか。
大体自分のなにを見るのか。そもそもこんなところでなにをするというのだ。
泳げない湖の畔で出来ることなど、それこそ絵を描いたり走り回ったりすることだけだろうに。
「ほら、これ使え」
「えっ、なんですこれ?」
「参加賞だ。お前にやるよ」
考えれば考えるほど、どつぼにはまってしまうリルアの思考。
そんな彼女の悩みなど気に留める様子もなく、ライは何かを差し出してくる。
気軽に差し出された黒一色の棒きれ。
触れるだけで手が汚れてしまいそうな漆黒。それはまるで星なき夜を圧縮したかのよう。
もし木刀と言われなければ、その物体を木だとは思えなかったであろう一本。その存在がリルアの思考に更なる疑問を生じさせた。
「別に剣なら自分のありますけど……って重っ!? 何これ!?」
「そこの森に生える重墨木から作った木刀さ。多分この森の限定品だぜ?」
正直いらないと思いながらも、折角貰えるのならと片手で受け取り──直後、ずしんと手に掛かる重量に落としそうになってしまう。
ずしりと。急激な負荷がリルアの腕へ襲いかかる。
腰に付けた我が愛剣と大差ない、或いはそれ以上の重量感。例えるならば鉄の塊、或いは巨大な岩でも持たされたかのよう。
重みでふらつきかけながらも何とか踏ん張りながら、もう片方の手も使ってなんとか押さえる。
どれほど重くともたかだか木刀一本。
絶対に落とすまいと意地を張りながら、剣に魔力を流して負担を減らそうと試みるが。
「な、通らないッ!?」
予想しなかった自体に焦りの声を上げてしまうリルア。
通そうとした魔力は木刀に弾かれ、重みは何ら変わることはない。
魔力も通らず、ただただ重いだけの木刀。
別に振ること自体は可能だが、こんなのもらったって戦闘じゃ使い物になりやしない。
「面白いことに、この木は自身に必要な要素以外をほとんど通さなくてな? 当然魔力も例には漏れず、故に半端ないんちきは効かねえんだわ」
まるで悪戯でも成功したかのように、ライは顔をにやつかせる。
「ま、やることは単純だ。木刀で俺に一撃入れてみろ。俺を頷かせることが出来たら合格ってわけだ」
ライは五歩ほど退き、軽々と片手で持った木刀の先端をこちらに向けてくる。
彼の持つ木刀とリルアが苦労している木刀は双子のように瓜二つのもの。
けれども彼は、苦労するリルアとは異なりそれを容易く持ち上げる。
普通の木刀のように軽々しく。子供の遊戯のように楽しげに。
「ほれ、いつでもいいぜ。稽古だと思ってぶつかってきな」
「……そう言われても、いきなりすぎてあんまり乗り切れないんだけど」
「んーまあ確かに。ならこうしよう、お前がもし達成できたら勇者の場所を教えよう──」
ライの言葉は最後まで続くことはなく。
代わりに響いたのは、日本の木刀がぶつかる鈍く太い響きだった。
「ぐっ!?」
「おっと、いいねぇ冒険者。すっかりやる気満々じゃん」
勇者の場所を教える。
それがリルアの耳に伝わった瞬間、彼女は一気に距離を詰め、強く握った黒い木の刀を振り降ろす。
相手が自分より強いであろうことは明白。
狙うは頭蓋。迷いなく、躊躇いなく、与えられた先手の有利を行使するのみ。剣に魔力が通らないのであれば、それ以上に自身の動力へを費やせばいい。
けれども刃は男に届かず。
渾身の一振りはいとも容易く、片手のまま呆気なく受け止められる。
「若さの割に筋がいい。お前さん、等級どんくらいよ?」
「銅っ、だよッ!!」
「へー優秀。そいつぁ将来有望だねぇ」
余裕綽々なライに弾き飛ばされるも、その勢いのまま後方に飛び退くリルア。
防がれるかもとは思っていた。
それでも不意を突いたつもりだったし、少しくらいは通用すると踏んでいた。
甘い。まったくもって甘すぎた。
今の一撃でようやく。初めて目の前の男の実力の片鱗を掴めた。そんな気がした。
──この人は怪物。自分が出会ったどんな冒険者より強い人。
「あ、あああァ!!」
「結構結構。威勢がいいのは若さの魅力。なら一つ、ハンデ代わりに勇者について話してやろう」
どう足掻いても届かないと、怖じ気を掻き消すための咆哮を上げながら突っ込むリルア。。
がむしゃらに、まるで飢えた獣のように飛び込み剣を振るい続ける。
「厄災を退けた、怪物を討伐した、停滞していた技術を先に進めた、不治の病の治療法を発見した。そんな風に何か偉業を成し遂げた者に授けられる最高位の栄誉。その特権勲章こそが勇者なんだが──おっと」
けれども黒い軌跡はライの体に一つすら届くことなく。
小さな頷きを見せられながら手に持つ木刀で捌かれてしまう。
息もつかせぬ猛攻を前に、ライは最低限の動きで軽やかに避けながら話を続けていく。
避けられ、時に受け、弾かれ、転ばされ、後ろに仰け反るの繰り返し。
どれも紙一重で対応されるだけ。流暢に話す余裕すら断ち切ることは叶わない。
「危ない危ない。荒く真っ直ぐ力強く。獣みてえな剣だなこりゃ」
「くそ、当たれよッ!!」
「ははっ。そりゃ努力次第だぜ」
指で「来い」と誘うライ。
一瞬、頭に血が上り突撃しかけるが、何とか冷静さを取り戻して思考する。
落ち着け。正面からじゃまず不可能。
今の自分じゃどう足掻こうとも剣先すら届かない。このまま繰り返そうと、結果は明白だろう。
……一発じゃ駄目だ。必要なのは手数。より多面的に、威力よりも速度。
どんな掠り傷でもいい。ここで勝てるなら偶然だって構わない。
残された力を振り絞り、とっておきで決める以外に勝ち目はない。
「そらどうした? 休憩してると日が暮れちゃうぞ?」
「ぶっ飛ばすッ!!」
「おー怖っ」
思考は瞬き三つ分ほど。意を決したリルアは一息挟み、体内にて魔力を急速循環させる。
これがとっておき。私が今やれる中で、最も速度を出せる戦闘方法。
後先など考えず。目の前の敵を倒すため。全神経を費やす諸刃の刃でしか、今の私に勝ち目はない。
覚悟を決めろ。ここで勝てばあの人に、勇者様に近づける。
死ぬまで止まらぬ覚悟で挑め。躊躇う理由など、私にあるわけがないんだからッ──!!
「限界突破ッ──!!!」
刹那、リルアは地面に罅が入れるほど踏みしめ、勢いよく飛び出す。
常人が目視の叶わないほどの速度。地を蹴り、空を蹴り、リルアは不規則に駆け回る。
「限界まで強化しながら空弾き。荒削り極まりないが、つくづく有望じゃねえの」
周囲を加速しながら跳ね、自らを振り切ろうとする少女。
そんな嵐のような獣を前に、ライは賞賛の言葉を送り笑みを浮かべる。
空弾き。
足に魔力を乗せ、空すら壁にし跳ね回るそれは、羽を持たぬ人間が戦闘区域を広げる手段の一つ。もしも制御を誤れば、使用者に死をもたらす高等技術だ。
当然だが、リルアも使える時間は限られている。
ただ空を走るならともかく、加速しながら制御出来るのは限りなく短い合間だけ。それ以上は自身の命に保証なぞ出来やしない。
だがそれでも。その危険性と引き替えに、リルアの速度は飛躍する。
「さて話を戻そう。勇者とは称号、それが世界の常識だ。けれどそれとは違う勇者って連中が存在する」
四方から立て続けに襲う剣撃と風の刃。
ライは軽く口笛を吹くも、依然余裕を崩さず一本の木刀で弾き、そして逸らしながら話を再開する。
「姿形や生態は只人と変わりなく、されど根本から異なる超常種。まるで世界が意志を持って創造し、抗えぬ厄災を討ち滅ぼす使命を背負った均衡と抑止。この世に六本の存在するとされた聖剣を担う資格を有した存在。それこそがもう一つの勇者だ」
どれほど加速しようとも無駄。魔法を織り交ぜて仕掛けても無意味。
耳に入ることのない話の間にも、決死の攻撃はただの無価値と為していく。
急速に尽きる体力と魔力。刹那の最高速など通り越し、徐々に速度は落ちるのみ。
だがそれでも、リルアは意地だけで動き続ける。
例えその先に可能性がないことを理解していようとも。認めることなど出来ないと言うように。
「あいつは討伐後に去ったのはそういうことだろう。自らの使命であった厄災を退けた後、後の世に自分という強すぎる爆弾を残さないために」
「はあっ、はあっ、はあっ……」
「お前が望むのはそんな勇者の願いを踏みにじることだ。それを理解して、それでも尚再会を望むのか?」
よろけながらも振られた最後の一撃。だがそれも呆気なく弾かれ、リルアはついに地面へ倒れる。
荒れる呼吸。力は入らず、体は痛みで悲鳴を上げている。
ライはそんな彼女を見下ろしながら問いで説明を締めくくるが、生憎伏しているリルアに答える余力は微塵もなかった。
「なんで、いつもならもっと保つ、のに……」
「聖樹の葉にも限度があるからな。高度で薄まった空気に魔力が混じった環境の中、備えなしの人間に十全な動きなど出来るわけがないってわけだ」
「なにそれ、先に言えし……」
精一杯の虚勢で悪態をつくが、体は言うことを聞いてくれやせず。
息は愚か額に汗すら流さず立つライとは対照的に、最早仰向けに転がることすら叶わないほど出し切ってしまっている。
「体は昨日で完治済み。退院は十日後だ。今の話を踏まえ、それでも勇者に会いたいなら覚悟を見せてみろ。期限を過ぎれば強引に下山させるし、今後一切勇者についての質問は受け付けねえ」
「そ、そんな……」
「じゃ、俺先に帰るから。落ち着いたら行きの道から外れず帰ってこいよー」
ライはひらひらと手を振りながら、倒れるリルアを放置して来た道を帰っていく。
負けた。まるで歯が立たなかった。私の全力は、碌に聞けもしない説明すら阻めなかった。
悔しい。苦しい。体は動かないのに、噛み締める力で歯を砕いてしまいそう。
これが敗北の味。思えばこれほど濃い敗北を、死ぬほど嫌いな苦さを味わうのは随分と久しぶりだ。
「絶対、あいつに勝ってやる……」
常識外れの強さで目的を阻み、我が物顔で憧れの勇者を語る不届きなあの男。
絶対に倒してやる。あの余裕綽々な顔を驚愕で染め、言葉通り目にもの見せてやる。……いや、私の誇りにかけてそれを果たさねばならない。
リルアはゆっくりと体を転がし仰向けになり、空に浮く太陽を眺めながら、固い決意を口に出す。
この瞬間だけは、勇者のことなど頭の片隅にもなく。
敗北の悔しさと、越えるべき壁への決意だけがリルアを満たしていた。