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リルアの準備は五分程度で終わり、ライを呼びに行くまでそれほど時間は掛からなかった。
「準備出来たよー。おーい」
何度か扉を指で叩き、小気味好い音を鳴らしてライを呼ぶリルア。
少し経つと、中から「ちょっと待ってろ」と声が聞こえたので、時間を潰すために近くの椅子に腰掛ける。
……そういえば、この部屋には何があるのだろうか。
いくつか部屋のあり、謎に満ちたこの家。その中で最も秘密に包まれた家主の部屋だ。
謎に包まれた彼について知れる個人情報の塊のような場所。もしここに踏み込めば彼が欲しい物、或いは交渉に使えそうな材料が見つかるかもしれない。
何より冒険者として性分故、単純に未開の場所に興味が尽きない。
療養中に借りた本もそうだが、ここには珍しい物や古い物がそこら中に転がっている。もしどこぞで売れば千金に化けそうな掘り出し物もきっと多いだろう。
正直帰り際に何かもらえないかなとか思ってしまうくらい。……もちろん、一番欲しいのは物なんかじゃなくあの人についての情報なのだが。
「おまたせ。待った?」
周りの物に視線を飛ばしていると部屋の扉が開き、ゆっくりとライが姿を現す。
防具はなく、背中にはそこそこ大きな鞄を背負い、腰には二本の黒い棒を提げているライ。危険地に踏み込むにはあまりに軽装で、いっそ趣味で山歩きでもするかと疑ってしまう格好だ。
「……その格好で行くの? めっちゃ不安なんだけど」
「本腰入れて探索するわけじゃねえしな。……あ、剣は置いてけよ。邪魔だから」
「──はっ?」
予想だにしないライ言葉に、思わず大きな声を上げてしまうリルア。
剣がいらない? 何を言ってるんだこの人、これから行くのは私が死にかけた外だぞ?
無謀すぎる言葉を呑みこめるほど、リルアは楽観的になれやしない。
冒険者にとって自らの得物は命綱と同然のもの。それを置いていけと言われて、はいそうですかと頷けるわけがない。
少し悩んだ後、結局愛剣を手放すことは出来ず。リルアは早足でライの背に追いついた。
「なんだ、持ってきたのか。別にいいって言ったのによ」
「置いてくのは流石に無理。私、これでも死にかけたんだからさ」
「……ま、それもいいさ。持ち物ってのは人に言われて決めることじゃあねえもんな」
ライは一瞬小さく笑みを作りながら納得を見せながら歩き、少し先の扉の目で立ち止まる。
少しだけ様相の違う、大仰な金庫の扉のような存在感を放つ扉。
横幅を確認できるわけではないが、それでも他とは明らかに違う厚みを持っていると感じる一枚。
まるで何かを閉じ込めているかのよう。……或いは、こちらが閉じ込められているのか。
「あ、一つ注意。多分辛くなるから気ぃ抜くなよ?」
「はい?」
開きつつある扉を前に、ライは唐突に要領を得ない忠告が飛んでくる。
一体何が辛くなるというのか。理解の追いつかないリルアを置き去りに、扉は彼女の思考を待つことなく開いていく。
思わず剣の柄に手を翳して身構えながら、徐々に広がる外に注意を注ぐリルア。
だが、扉が開くにつれて警戒は薄れてしまう。扉が全て開き終わり、目の前に映ったのは脅威とはほど遠い景色であったのだから。
「うわ、凄い……」
開けた先にある絶景に、リルアはたった一言しか呟けない。
数多の緑が床となり、澄み渡る青が広がる空。奥には目視できる大きな滝があり、それら全てを繋ぐように巨大な虹の橋が架けられている。
まるで絵画を切り取ったかのような風景。子供が夢で描いた絵空の楽園の如き様。
芸術なんてそこまで興味を持たないリルアでさえ、思わず感嘆を漏らさずにはいられないほど。それほどまでに美しく、心を弾ませる大自然がそこにはあった。
「やっぱ晴れてると好い景色だな。これでも昨日は豪雨だったんだぜ?」
「……まじです? 雨音なんて聞こえなかったんですけど」
「そりゃそうさ。俺の家は気配を消す隠蔽の扉、そして外界の一切を遮断する結界で守られた特別製。よっぽどのことがない限り爆音すら届きやしねえさ」
扉を軽く小突きながら説明するライに、リルアはまたしても驚愕してしまう。
扉についても気になるが、それ以上に驚くべきは後者の結界を張っているという事実についてだ。
結界術。それは魔法の中でも質を求められる高等技術の一つ。
例え魔法の基礎が熟せずとも、結界が編めるのであれば食うには困らないであろう。そう言われるほど特異且つ希少な技術とされるもの。少なくとも、リルアは使い手に出会うのは初めてであった。
私が歯の立たない怪物を容易く両断した強さ。
こんな危険な山で快適に過ごせるほどの結界魔法を行使出来る腕。
知れば知るほどライという人間は一体何者なのか、その素性がわからなくなってくる。
厄災の際に逃げてきたと言っていたが、彼ほどの実力ならば逃げずとも戦うことは出来たはずだ。
もしや罪人? それとも本当に世捨て人?
候補はいくらでも湧いてくる。だがいずれにしても、やはりまだ謎が多すぎてリルアには答えを出せなかった。
「さ、散歩の時間だ。あ、外に出るとき気を引き締めろよ」
「は、はあ……?」
そんなリルアの内心など知るよしもなく、軽口を叩いて外へと進んでいくライ。
こちらが必死に悩んでいるというのに、あっちは随分とまあお気楽なものだ。
ライの背に向けて多少の愚痴を心に貯めながら、リルアも足を動かし部屋と外の境から体を潜らせる。
──直後、感じる空気が急激に変わる。より濃く、不快なほどに濁りを含む。
「な、なにこれ……、呼吸が……」
「辛いだろ? この山の空気は濃い魔力が混じってるからな」
体を突き抜ける形容しがたい不快感に、リルアは思わず手が口を押さえてしまう。
先ほどまでとは明らかに異なる空の味。いくら呼吸しても楽にはならず、むしろ息苦しさは増す一方。
だがライは苦しむ少女に何ら驚くことはなく、むしろ予想通りといった風に話し始める。
「過剰な魔力の摂取が毒なのは知ってるだろ? 標高につれて濃くなる魔力濃度は適応してない生き物の体を蝕み、やがては死に至らしめる。ま、ここは中腹だからまだ息苦しい程度で済んでるけどな」
平然と説明してくるライに、リルアは納得と疑問の両方を抱いてしまう。
確かに過剰な魔力が人体に有害なのは事実。似たような症状で死に至る魔力病という病があるくらいで、冒険者をやっていなくとも魔法に触れないものですら知っていることだ。
けれど、じゃあどうしてこの人は平然と居続けられるのだろう。もしやそう見えただけで、実は只人族ではなかったりするのか。
「何故俺が余裕そうかって? そりゃ適応したってのもあるが、それ以上に呼吸の仕方かな」
「こ、呼吸……?」
「吸って吐く。ただそれだけの動作でさえ、この山で生きるなら洗練させなくちゃならないのさ。さ、時間がもったいないしそろそろ進むぞー」
「は? どういう意味、ってか、ちょっと待ってよ……」
ライはこちらの疑問へ聞かずとも答え、そう締めくくって歩みを再開する。
意味の分からないと問いただそうするが、ライはわざわざ止まってくれやしない。
こんな山奥で何故時間が足りないのか。それともこんな山奥で待ち合わせでもしているのか。
生憎欠片も検討は付かないが、それでも今は付いていくしかない。そう考えたリルアは、口から出てこようとした質問をぐっと呑み込み、懸命に呼吸を繰り返しながら彼の背を追いかけていく。
「ん、中々ガッツはあるな。ちょっと侮ってたわ」
「……心底辛いけどね。けほっ、何かコツとかないの?」
「そうさなぁ。闇雲に吸わず、吸うべきもので命を回すって感覚かな」
空に浮かぶ雲みたいにふわふわと、いまいち要領を得ない助言にリルアは頭を抱える。
確かに言わんとしてることは理解出来なくもない。だがどうすればそれが可能なのか、生憎だがこの助言からはそれが一欠片も掴めない。知りたいのはやり方であって感覚ではないのだ。
せめてきっかけさえあればどうにかなりそうなのだが。
……頼れるのが自分だけなら、やはりそこから模索するしかないか。
「まずそこにあるでっかいのが聖樹アガリア。あれの側には魔物や獣が寄ることは珍しく、この山じゃ数少ない人間にとっての安全地帯でな? 俺がそこの洞窟を家にしようと決めた理由の一つでもある」
「へー、アガリア……アガリアァ!?」
多少他と距離感のある一際大きい緑の木と、後ろの洞窟を交互に指差すライ。
軽々しく耳まで届いたその名は、リルアが一瞬でも呼吸の辛さを忘れてしまうほどのものだった。
聖樹アガリア。それはお伽噺にすら出てくる、限りなく希少な聖なる樹の名前だ。
確かその木の宿す聖なる魔力はいかなる怪物をも寄せ付けずとされ、街の中央に置けばその木が枯れるまでの数百年は平和が約束されるとまで言われる種だったはず。
実際どこぞの宗教団体が神木として崇めていたのを覚えている。もしこの樹に値を付けようとすれば、下手すれば競い合うのが国同士なんてことになるだろう、それほどの宝だ。
そんな貴重な木をまさか大自然の中でお目にかかれるとは。
もしかしたらいいことがあるかもしれないとリルアが思っていると、ライは樹に近づき、落ちた葉を数枚拾い上げる。
「ほら、これ持ってろ。限度はあるが、聖気が魔力を打ち消してくれるぜ」
「……ほんとだ。呼吸が楽になった」
渡された葉を手に取った途端、リルアの吸い込む空気が切り替わったかのように変化する。
口から全身を駆け巡り、五臓六腑に染み渡る清浄な空気。
同じ場所であるはずなのに、まるで水底から地上に上がったかのよう。いかに伝説の聖樹とはいえ、葉の一枚でこれほど急激に変わるものなのかと、リルアは安心と驚愕で胸を満たした。
「じゃあいくぞー。まず周囲一帯が音喰いの森。音を魔力へ変換して養分に変える黙樹など、数多の樹が叫び声や獣の行進すら奪う無音地帯。カルボ山中腹における最大にして最高難関と言っていい区域だ。お前が迷い込んでズタボロにされた場所だな」
何故か空いている、まるで森と森の境のような道を歩きながら説明するライ。
記憶にある音のない黒い森。自分はここで完膚なきまでに痛めつけられたのだと、リルアは苦い顔をして数日前の地獄を思い出す。
けれども今は少しだけ様子が違う気がする。説明のような無音ではなく、僅かにだが振動音が零れてきてしまっている。
「ま、ここらで力尽きてラッキーだったな。奇跡でも起きて上に進んでりゃ、体が適応出来ずに間違いなく死んでたぜ」
「……そりゃ怖い。ところで、無音が売りの割には騒がしいけど?」
「あー、多分主決めでもやってんだろ。万環魔……あー森の主、お前を食べようとしたでっかい奴を俺が殺しちまったからな」
今までとは違い、少しだけ面倒臭そうな口調に変わるライ。
この世のものとは思えない悍ましさ、そして私など犬歯にも掛けないであろう強さを持った怪物。
あれが森の主。あれこそがこの山の本当の恐怖の形、その具現か。
だとすれば、きっと私は幸運なのだろう。三日も彷徨ってあいつ以外に勝ち目のない化け物に遭遇しなかったのだから。
もし見つけてもらうのが数秒でも遅れていたら、自分は確実に死んでいた。
自分が如何に幸運だったのかを改めて実感し、リルアは思わず身の毛をよだたせてしまう。
「ま、森に入らなきゃ問題はないさ。運が悪きゃ出くわすかもしれないけど」
「……不安になるなぁ」
「さ、そろそろ着くぜ。あ、耳に気をつけろ。魔力で防音は出来るか?」
「そりゃ私も冒険者だし出来るけど……」
「へー優秀じゃん。よし、ならしとけ。木々の道を抜けた途端、まじで一気にうるさくなるからな」
しばらく歩いた後、先に広がる水面が見えてきた辺りでライはそろそろだと口を開く。
森の中から零れるものとは違う、常に何かがぶつかり弾けるような微音。
その正体は何となく察しが付く。恐らくだが家から出てすぐに見えた大きな滝、そして私が力尽きたあの場所であろう。
意外さの籠もった褒め言葉はさておいて、リルアは魔力を回して両耳を保護していく。
保護魔法は意外と魔力を食うのであまり使いたくはないが、さっきみたいな油断をする気もない。
どうせ自分の想像など飛び越えてくるのだし、言われるままに対策をしておくのが吉。だからこそ、今度は素直に忠告を受け止めることにしたのだ。
「さてお待ちかね、ここが今日の目的地。その名も魔水墓湖。かつてこの世を跋扈した五体の竜の一体、腐仙竜が眠るとされる、カルボ山最大の穴とはここのことさ」
木々が織りなす通り道を抜け途端、一気に膨れあがる音量と衝撃。
予測はしていた。だが予想以上の爆音を前に、リルアは思わず耳を押さえてしまう。
常に爆発でも起きているのかと錯覚しそうな轟音。もしも保護魔法を使っていなければ、会話は愚かライの言葉すら聞き取れなかっただろう。
だがそれと同時に、或いはそれ以上に伝わってくる迫力。それは奥に構える水しぶきですら人を傷つけそうな巨大な滝からではなく、広大で清涼な水面から。
わかる、わかってしまう。ここで本当に警戒すべきは上ではなく下だということが。
この下には眠るのは世の脅威の凝縮。あの森の主なる怪物ですらちっぽけな埃へと成り代わってしまう何かが水底に沈んでいるのだと、本能が瞬時に理解し警告を鳴らし続ける。
「水に入るのはもちろん飲んだりするなよ? 空気の比にならねえ純度の魔力が溶けてる水だし、葉に頼ってるお前じゃ一口でお陀仏だぜ」
「……え、怖っ。毒の塊じゃん。一気に感動引いたんだけど」
「普通の奴にはな。けど魔法師や錬金術師、研究に勤しむ輩にとっては宝の山なんだ。実際お前も、この上質な魔力水から作った治療薬使ったからこそ治りが早いんだぜ」
価値の分からない少女へ呆れるように、ライはやれやれと首を振る。
生憎基礎的な回復薬の錬成すら苦手なリルアには、いかに凄いと説明されてもその水の価値にピンとは来ない。ただ汲んで売ればそれなりの値になるだろうという目先の欲だけだ。
「うん、じゃあ準備しろ。時間ってのは限られてるからな」
「……は? ただの散歩じゃ?」
「それでいいなら俺にとってもその方が楽ではあるが。……ま、俺は優しいんだ」
背負っていた荷物を降ろし、その場で体を解し始めるライ。
急にそう言われて戸惑うリルア。剣は持っているとはいえ、気分的にはただの散歩だったので何かをしようという心構えをしきれていなかった。
「さ、始めよう。リハビリついでの試験をな」