1
ここはカペトロ村。
エーデラークの西部にある辺境の村。その酒場にて、一人の旅人が店主に食事をしながら質問していた。
「それで本当にいるんすか? 情報料要求しといてガセだったらぶっ殺しますよ?」
「中々きついな坊主。……まあ心配すんな。情報ってのは信頼、積まれた金に嘘はつかねえよ」
壮年の店主は苦笑いをしながら空になった皿を回収していく。
それを満足そうに眺めているのは茶色の長髪を後ろで纏め、夕日を閉じ込めたような橙の瞳をした若い少年の風貌をした旅人であった。
旅人は店主が厨房に戻ったのを確認してから、少年は三回ほどお腹をさすった後に席を立ち、床に置いていた荷物と剣を元ある位置に置き直す。
「にしても坊主、ほんとに行くのかい? あの山は並の冒険者がパーティ組んだって泣いて帰ってくる場所だ。次にあいつが降りてくるまで待った方が──」
「大丈夫、ぼくは結構やれるので。ごちそうさま、帰ってきたらまた来るかもです」
旅人は懐から取り出した小袋から金を取り出し、金額丁度分を店主に渡してから店を出ていく。
歩きながら感じるのは、辺境ながら穏やかで悪くない村の雰囲気。
故郷とはまた違った緩やかな風だと浸りながら、それでも目の前に広がる山から目を離さない。
「……待っている時間はないんだ。一刻も早く、あの人への手がかりを掴まなきゃ」
腰にある愛剣の柄を触りながら、茶髪の少年は再度気を引き締めて歩を進めていく。
旅人の名はリルア。そして彼が今から向かおうとしている場所はカルボ山。
かつて全てを溶かす腐仙竜が存在したとされるその山は、エーデラークに数ある大山の中でも屈指の過酷さを誇る魔境であった。
月日が経つのは早いもので、リルアが山を登り始めて三日が経過した。
最初こそ順調に登山していたリルアだったが、段々と進みにつれ、少しずつ牙を剥き始めた山の環境に手を焼かされていた。
「くっそ! 死ねっ!」
迫る巨体の突進を避けながら、自らが嫌う方言混じりの罵声とともに剣を振り下ろし、四足の獣の胴体を両断する。
呻きを上げる間もなく屍と化す獣。だがリルアは一息つく間もなくすぐさま飛び上がり、木の枝を掴んでそのまま上へと着地する。
「──ちくしょう。どうなってやがんだよ、この山は!?」
荒れた息を整えながら、真下で獣の死体を轢き飛ばしながら直進していく虫共を眺める。
さっき殺した自分よりも猪と同じくらい、或いはそれよりも少し大きい虫。そんなのが音もなく、放牧された家畜のように徒党を組んで行進していくのだから、どうにか避ける以外に対応法がないのだ。
巨虫の群が完全に去ったのを確認してから、リルアは剣についた血を拭き取り鞘へと収める。
この三日間。正確に言えば二日目だが、入ってからずっとこんなのの繰り返し。
睡眠時間などほんの僅か。化け物だけじゃなく独自の環境で構成されたこの山は、リルアの体力と気力をどうしようもないほど奪い続けていた。
「もうやだ……。なんなのこの山……」
想像など遙か突き抜けた山の過酷さへ、果たしてリルアの弱音は何度目だろうか。
リルアには自信があった。ここがいかに険しくとも、自分であれば必ず乗り越えられるという自負があった。
だが、実際はこの様。備蓄していた水も食料も先補ほど尽き、それでも終わりの見えない地獄を彷徨い続けている。
情報収集が足りなかった。
一人で来たのが間違いであった。
……認めたくはないが、そもそも実力が伴っていなかった。
頭を駆け巡るのは数多の後悔と久しく味わうことのなかった死への恐怖。
自らの浅慮にて招かれた絶望の連続。それらはリルアから生きる意志すら奪おうと手を差し出している。
──死ぬ、死んでしまう。一秒でも早く手を打たなければ、ぼくの命は蝋燭の火よりも呆気なく消え失せてしまうだろう。
折れ欠けてた心に強引に鞭打ちながら、意を決して木から飛び降るリルア。
ゆっくりと慎重に、亀が如き速度で足音一つ立てず歩みを再開しながら、稼働している五感のほとんどを周囲の索敵に費やす。
次襲われれば勝つのは不可能、逃走だって成功する確率が低い。
もし何かに見つかればその時は一巻の終わり。だから見つからないよう祈りながら、残り少ない体力を振り絞って探索を続けるしかない。
いくら経てども平常に戻らぬ呼吸の速度。
この可視化された鼓動が小さくなるときこそ自らの終わりだと、そう理解しながら歩き続けた。
「……あ、みず、水の音?」
ふと、少しずつ薄れる意識の中、リルアの耳が捉えた違和感を声に出す。
耳に伝わる音の変化は砂粒ほど小さく僅かなもの。
空気も温度も変わりないと触覚は告げている。──だがそれでも、ほんの僅かな情報がそれを命を潤す恵みであると、そう結論づける。
随分と希望めいた考えであると、死にかけたリルアもわかってはいる。
生と死の狭間こそ感覚の最も冴える時。けれど今更願望が叶うなど、残酷なまでに己を苦しめた魔境の中ではあまりに都合がいい妄想に等しいと、それくらいは理解できているのだ。
だがそれでも、リルアはその不確かな結論に縋るしかない。
それが如何に細い糸であろうと、今の自分に出来るのは必死こいてたぐり寄せることだけなのだから。
「はっ、はあっ」
整えることすら叶わない荒れた息。じんじんと響く足の痛みを堪えながら、武器である愛剣を杖に一歩一歩踏みしめる。
深緑の森から少しずつ変わっていく景色の色。
だが最早、リルアにはそれを認識する余裕はなく、ただただ正面へと歩き続けるしか出来ない。
獣に襲われるか、力尽きて足を止めるか。──或いは妄想は真実であるのか。
音が消える。景色が歪み、無限に続く緑も僅かに漏れる空も色を失い始めてくる。
それでもリルアは足を動かした。諦めることなど知らないと、幼子が意地を張るかのように。
──そしてついに、自然は人へと答えを出す。
「あ、すごいや……」
リルアは目の前に広がる絶景に、今までにない感嘆の声を零す。
言葉にすらならないのは生まれてから数ある程度。この光景は間違いなくそれに匹敵──いや、あのとき見た勇者の光すら凌駕しているかもしれない。
だってそうだろう?
こんなにも巨大な滝が、これほどまでに美しい水のたまり場が、そこには確かに存在していたのだから──!!
「みず……水飲みたい……」
こんなにも己が乾いていなければ、きっとどんな感情よりも先に涙が溢れていただろう。
リルアは絶景に目を奪われながら、残された体力でゆっくりと近づいていく。
ひしひしと五感へと伝わってくる潤い。それは目の前の自然の恵みが手招くかのよう。
干涸らびた地面に水を撒くかのように、乾ききった体の内が今か今かと水分を求めるリルアの様は、例えを挙げるなら密に群がる虫であろうか。
それほどまでに焦がれるのは、水分がなければ生きていけない人であるなら当然のこと。
だからこそ、心奪われたリルアは気づけない。
宝石を液体へ変えたみたいな煌めきな水のたまり場に惹かれるのは、何も己のみでないことに。
無音でリルアの背後に迫る黒い影。
それは六足にて支えられる巨大な獣。鼻は豚、目は蛇、口と体は蜘蛛、そして二股に分かれる尾は無数の足を持つ大百足。
それはまさに、魑魅魍魎を詰め込んだびっくり箱。獣であるか虫であるかなど、それこそ一冒険者には分からぬおぞましき怪物。
──リルアは知らぬ事ではあるが、その怪物の名は万環魔。
先ほどまでリルアの歩いていた音喰いの森に君臨する、絶対なる主であった。
「もうすぐ……もう少し……」
ひたひた、ひたひたと。
僅かに漏れる不気味で湿った足音が鳴らしながら、巨大なる異形は小さな人へ距離を縮めていく。
三日月のに開いた口から濁った涎を垂らす怪物。
人の歩幅で後二十歩というところまで接近されてから、ようやくリルアも何かの存在に気付くがもう遅い。
リルアは背後を埋め尽くす重厚な気配に振り向くことすら叶わず、手から剣を落とし足の力が抜け落ちてしまう。
体が、脳が、魂が。
外から内まで己の全てが確信する。後数秒も経たないうちに自分は死ぬという、たった一つの簡潔にして単純明快な答えを。
リルアの悲鳴が上がるよりも早く、巨体に見合わぬ速度で怪物の口が動く。
走馬燈も諦観も間に合わず、死へ向かう儚き冒険者に出来るのは目を閉じようとすることだけ。
怪物は目の前の獲物を喰らうために、我が森に侵入した愚か者に裁きを下すために。今にリルアの全身を砕こうとして──。
「──ふうっ」
次の瞬間。
リルアの、喰われるはずであった人の耳に響いたのは、巨大な木でもへし折れたかのような鈍く荒い粉砕音であった。
どしんと響く大きな振動は、思考の追いつかないリルアの体をほんの僅かに浮かせてくる。
何が、自分の後ろで何が起きているのか。
リルアは何も分からぬまま、それでも背後から感じていた濃厚な死の気配が消えたことに心からの安堵を抱く。
そして同時に、失いかけた疑問と恐怖は再燃し膨れあがる。
感じた気配に間違いはない。ならば今、それを滅したのであろう存在が、果たして味方であると言い切れるのだろうか。
「主が出てくるほどの獲物……いや、相当に荒らしただけか。許せ、俺の目の前であったのが運の尽きだ」
何かを言っている。聞き間違いでなければ、後ろの存在は言葉を発している。
ならば少なくとも獣ではないはず。もしかしたら人、或いはそれに通ずる知能ある種族──。
「そら、大丈夫かよちびっ子? 怪我はなかったか?」
リルアの背に掛けられる言葉。他には誰もおらず、自分以外に会話の相手は存在しないはず。
逃走も戦闘も不可能、ならば振り向くしかない。
今にも遠くへ飛び去りそうな意識のまま覚悟を決め、ゆっくりと、亀の歩幅のような速度で背後に体を回していく。
薄れゆく意識の中、リルアは振り返った先を目に映し、呆然と驚愕に浸ってしまう。
自分などより遙かに大きな怪物が二つに分れ屍と化している。
そしてそれをやったであろうその人物は、一本の剣を握りながら表情で涼やかに立っていたのだから。
ブックマークや評価、感想等いただけると嬉しいです。