放課後の図書室
外の雨の音に、務はノートから顔を上げた。時刻は5時40分であった。放課後の閑散とした図書室にはここからは死角になっているカウンターに司書がいるのみで、利用者は二人しかいなかった。
「……沙織」
務はいつの間にかソファーに移動し、読書をしている小学校以来の友に声を掛けた。しかし、読書に集中している沙織の耳には終ぞ届かなかった。
ーー変わらないな。
務は昔から変わりのない沙織に何故か安堵した。沙織には読書に勤しむあまり、周囲の声が聞こえなくなるという悪癖があった。
(……折りたたみ折り畳み傘を持っていて、よかった)
雨を眺めて務はふと思った。そして、沙織のリュックを見やる。そこには折り畳み傘はなかった。務はまた傘に沙織を入れることになるのだなと思った。務の傘に沙織を入れてやるのはよくあることだ。ただ、最近、沙織との距離感で少し戸惑っていた。何の忌避感もなく、軽い調子で傘に入ってくる沙織はまるで友人としてしか務を見ていないようだ。いや、実際そうなのかもしれない。今まで何とも思わなかったのに、ここ最近、なぜか複雑な気持ちになる事が多々あった。
手間のかかる妹。
それが長年の付き合いの中で沙織に着いた印象だった。オシャレ好きの姉のいる務は、姉にこき使われるせいか、女性のファッションについて少し詳しいと自負している。そんな務から見て、沙織のオシャレの無頓着さはある意味新鮮だった。髪など小学生の頃は毎日、未だにたまに務が結っていたりする。
務は沙織の座っているソファーのそばに行く。ソファーの配置的に、沙織の後ろ側に立つ。
「沙織、そろそろ帰るぞ」
今度は耳元でそっと囁いてみる。
それでも反応しない。
務は沙織の隣に座ると、沙織の長くて美しい髪に手を伸ばす。そっと髪を梳く。それでも沙織は本から顔を上げない。それどころか、本が面白いのか、口元が緩んでいた。
何となく、沙織の無反応さが気にくわず、いつも以上に執拗に髪を弄ぶ。
長いこと梳いたり指先にくるくると巻きつけてみたりを繰り返していたが、あまりにも本から顔を上げないため、務は痺れを切らした。
(本当に、綺麗な髪だ……)
髪から一旦手を離し、改めて一房すくう。
『キスって、する場所によって意味も変わるんだって』
以前、沙織の言っていたことを思い出す。
(確か、髪は思慕、だったな)
務はすくった一房の髪に口付けた。
顔を上げると、顔を真っ赤にした沙織と目が合った。
「……沙織」
耳元で自分の名を囁かれ、沙織の意識は本から浮上した。そっと、ばれぬようにに腕時計を見る。
5時40分
(まだ、気づいていない振りをしてもう少しだけ読書をしよう)
そう思い、また本の世界に潜ろうとする。古馴染みの友の務が溜め息をつく。務は沙織の後ろから隣へと移動した。そして、髪を梳きだした。
(髪をいじるの、好きだよね)
なんとなく嬉しく思い、口元が緩む。
小学校の頃からずっと紙を言ってもらい、未だにたまに結ってもらっている。沙織よりも務の方が髪を結うのが上手なのだ。二人っきりになるとその習慣のせいか、髪を梳く癖が務についてしまったようだ。沙織は満更でもないし、今更でもあるから指摘しないが。
仲の良い兄弟。
今の二人の関係はそんな風であった。務が面倒見のいいお兄ちゃんだとすると、さしずめ沙織は世話の焼ける妹といったところか。
(務は私のことをどう思っているのだろう?)
ずっとこんな風に付き合ってきたから、妹と思っている可能性が高い。もうそんな年じゃない、と言いたいが、今まで全面的に色々と頼ってきたのでそんな大口を叩けない。
いや、それ以前に……
(私は務のことをどう思っているのだろう?)
頼れるお兄ちゃん?しかし兄であるならこうして今、髪を梳いたりくるくると指に巻きつけたりするのを許すだろうか。
(ーー分からない)
結局、兄妹姉妹のいない沙織には結論は出なかった。
紙を弄んでいた務の手が止まった。そろそろ帰る頃合いだと思い。顔を上げる。
「っーー!?」
務が沙織の紙に口付けを落とす。目を軽く伏せている務はまだ真っ赤な顔の沙織に気づいていない。
思慕
以前、務に口づけがする場所によって意味が変わると話したのを思い出した。髪へのくちづけの意味を知った上で務は口付けたのだろうか。
沙織は務の伏せた瞼から覗く、熱のこもった瞳を見て、息を飲んだ。
ようやく、沙織の様子に気付いた務はさっと頬を朱に染めた。
「ーーそ、そろそろ帰ろう」
しばらくしてようやく務は少しぎこちない動きで沙織に背を向けリュックを取りに行った。まるで顔を見られぬように。
「いつまで座っているんだ?早く準備をしろよ」
いまだに座っている沙織を急かす。
「……誰のせいでこうなっているの?」
務は目を逸らした。
「傘は持っているのか?」
外はまだ雨が降っていた。
「持ってないから入れて」
沙織がいつもの調子で言う。
「まったく、仕方ないな」
沙織がリュックを背負うと、二人は並んで歩いた。