宛先
「今日のテーマはラブレターです。恋人、家族、友人、誰に宛てても構いませんが、本気で書くこと。条件はそれだけです」
私が本気で手紙を書きたい相手は、今も1人しか浮かばない。
「紫穂は誰に書く?やっぱ彼氏?」
隣の席から小声でつつくのは、真壁亜美。教育学部に入ってからの友達で、人気者のスポーツ女子。手紙を書きたい相手が見つからないらしい。
「最終的に間山先生に見られるんでしょ?幸村には書かないよ」
そっか、とさらに頭を抱える亜美。秋の風が、木の葉を巻き上げて教室のカーテンをはためかせた。うわ、と慌てて窓を閉めようと席を立つと、外にいた幸村と目が合った。
こ、く、ご?と口だけ動かすのは幸村智也。春から付き合っている、1つ年上の彼氏。この時間、空きコマだったんだ。ちょうど幸村の名前を出したばかりで気まずくなり、頷いて手だけ小さく振り、席に戻った。ひとつ、ため息をつく。書きたい相手は浮かんでいるけれど、シャーペンの芯はひたすら白い紙に円を描いただけだった。
間山教授の授業は楽しい。高校までは勉強なんて全く好きではなかったが、好きな分野、特に文学関係の授業は楽しみで仕方なかった。大学という空間は、高校までのそれと違って、昭和の喫茶店のような、小さな図書館の庭のような、どこかノスタルジーを感じさせる。特に間山教授の授業はその筆頭だった。
「今日の授業はここまで。ラブレターは次回までの課題とします。加賀見さん、すみませんが、5コマ目の資料を取りに来てもらえますか」
「あ、はい」
亜美も私も、眠りに落ちる寸前だった。間山教授からはα波が出てるんじゃないか。4コマ目をとってる亜美と別れて、間山教授の研究室をノックした。
「加賀見です。失礼します」
ドアを開けると、ふわっと珈琲の香りがした。積み上げられた本の間から、間山教授が顔を出す。
「貴重な空きコマに申し訳ないね。珈琲、どうぞ」
真ん中のテーブルの上に、ブラックコーヒーが置かれた。正直、珈琲は好きじゃない。が、既に置かれてしまったそれを上手に断る術を持ち合わせておらず、いただきますと一言添えて飲み始めた。
「加賀見さんは、誰にラブレター書いてるの?」
いきなりの質問に、珈琲を吹き出しそうになる。向かいのソファーで、ゆっくりと珈琲を飲みながら、教授は続けた。
「いやね、ラブレターって言った時、君が教室で最初に書く相手を思い浮かべたような気がしてね。違ったかな」
相変わらずの鋭い観察眼。中年のおじさんにわざわざ話したいことではないが、この全てを見透かすような目には抗えない気がした。
「…そうですね、相手は浮かびました」
「でも、何を書けばいいか迷っていた?」
そう。今さらあの人に何を言いたいかなんて、わからなかった。でも、あの人以外に書く手紙なんて、本気で書いたと言えるのか。そんなことを行ったり来たりして、時間が過ぎたのだ。
珈琲カップを持ち、小さく頷くと、教授はふっと笑った。
「さっきも言ったけど、これから、子どもたちに本気で手紙を書きなさいと言うことがあるだろう。その時に、本気で言葉を紡いだことのない教師ではいけない。あの時ペンを止めた君が、1番本気だったように思う。1週間しかないけれど、期待しているよ。」
資料頼むね、と添えて、教授は机に戻った。私は苦い珈琲を飲み終え、研究室を後にした。