一番ダメなこと
フィオは慌ててフレッドの背中をさする。
ひどく息苦しそうで、起きたときよりも顔色が悪かった。首筋には玉のような汗が伝う。
「どうしたの、フレッドくん。大丈夫?」
「なん、でもない……いつもの発作だ……薬さえ飲めば……」
フレッドは震える手で懐を探る。小さな革袋を取り出すのだが……彼はなぜか、それを開こうとはしなかった。ただじっと、暗い瞳で見つめている。
フィオはその姿に言い知れぬ不安を覚えた。オロオロしていると、フレッドは深くうなだれてぽつりと言う。
「……薬なんて飲まなくていいか」
「へ?」
フレッドはやけっぱちのように革袋を投げ捨てた。足元に転がったそれをそっと拾い、フィオはたじろぎつつも彼へと尋ねる。
「どうして? お薬を飲まなきゃダメなんでしょ?」
「……クズ賢者はごまかしていたけど、悪党どもの狙いは僕だ」
フレッドは苦しそうに顔を歪めて言う。
体調が悪いのもその一因だろうが、表情にはひどい絶望感がにじんでいた。
「僕の父上は領主なんだ」
「りょーしゅ……りょーしゅってなあに?」
「この地方の偉い人だ。政界や、ワグテイル魔法学校に顔が効く。悪人どもは僕を人質にして、父上を利用するつもりだったんだろう」
フレッドは青白い顔で、息も絶え絶えに言葉をつむぐ。フィオには難しい言葉がいくつも出てきたが、口を挟まなかった。
何より彼の口から嫌味のひとつも飛び出さないなんて、よっぽどの事態なのだと分かった。
それでも理解できないことが残る。
「おとーさんがえらい人なのと、薬を飲まないの……どう関係があるの?」
「僕が生きて捕まったら、父上に迷惑をかけるだけだ。それだけは絶対に避けたい」
フレッドはかぶりを振って言う。
その真剣な顔に、フィオはこっそりと思う。
(フレッドくんはおとーさんのことが大好きなんだなあ……フィオといっしょだ)
大嫌いだったはずの少年に、このとき初めて親近感を覚えた。
しかし次の瞬間、彼は驚くべき言葉を口にした。
「そうなるくらいならいっそ……潔く死んだ方がマシだ」
「は?」
フィオはきょとんと目を瞬かせる。
彼の台詞が理解できなくて、じっくりゆっくり頭の中で噛み砕く。それでなんとか言いたいことは分かったが、やっぱり理解することだけはできなくて――。
「はああああ!?」
気付いたときには、フィオは思いっきり叫んでいた。お腹の中でスープがグラグラと沸騰したような心地がした。一度叫んだだけでは収まりきらず、フレッドに顔を近付けて怒鳴りつける。
「バカなことを言うんじゃありません!」
「な、なんだよおまえ……おまえには関係ないだろ」
「関係なくなんかない! ともかくこの薬? これをちゃんと飲みなさい! ほら! はやく!」
革袋を開き、フレッドに錠剤を無理やり握らせる。彼はうろたえていたものの、フィオの剣幕に気圧されてか渋々その薬を飲んでくれた。
しばらく待てば荒かった呼吸も落ち着いて、顔にも赤みが戻ってくる。
それにホッと胸を撫で下ろし、フィオは彼の顔を覗き込んだ。
「死んだらおとーさんに会えなくなるんだよ。フレッドくんはそれでもいいの?」
「っ……!」
フレッドの表情が強張った。
他人の口から聞かされて、その言葉の重みをあらためて実感したらしい。それでも彼は辛そうにかぶりを振る。
「でも、父上に迷惑はかけたくない。父上は立派なひとだけど、敵も多いんだ。そいつらに付け入られたら、父上だけじゃなく領民のみんなも被害をこうむるかもしれない」
ぽつぽつと、まるで自分に言い聞かせるように言葉を続ける。
「だったら僕が死んだ方が――」
「死んじゃダメに決まってるでしょ! 一番ダメだよ!!」
それをフィオはぴしゃっと叱りつけた。
彼の肩に手を置いて、ありったけの想いを叫ぶ。
「生きていれば、どんなことでもなんとかなるんだよ! フィオはそう信じてるんだから!」
そう。
生きてさえいれば、どんなに辛くて悲しい日々にも終わりが来る。そのことをフィオは身をもって学んでいた。
フィオの勢いに、フレッドはぽかんと言葉を失う。しかしすぐ弱々しくも自虐めいた笑みを浮かべてみせた。
「なんとかなるって……僕たちはあの化け鯨に食われたんだぞ」
そう言って彼はあたりを見回した。
相変わらず、ピンクでぶよぶよした壁はびくびくと脈打っている。出入り口はどこにも見当たらなかった。
「化け鯨はこの海でも最強の魔物だ。おまえの父親なんて勝てるわけがない。もうおしまいだろ」
「おしまい? なんで? フィオたちまだまだ元気でしょ」
フィオはきっぱりと告げる。
ここが大きな魔物のお腹の中のだというのはわかったが、今のところは痛くも痒くもない。絶望するにはまだまだ早い段階だった。
どんっと胸を叩いて自信たっぷりに宣言する。
「くじらも、ほかの悪い人たちも、フィオのパパがやっつけてくれるよ。なんならフィオも手伝うし、フレッドくんはどーんと任せといてよね!」
「おまえ……」
フレッドは信じられないものでも見るように目を丸くした。フィオがやけにきっぱり断言したものだから、言葉に詰まっているようだった。
先ほどみたいなことを言い出さなくなっただけマシである。
(パパには大人しくしておけって言ってたけど、こんなの黙ってられないよね! フィオもできることをしなくっちゃ!)
フィオはメラメラとやる気を燃やす。
こうなれば勝負はお預けである。今は一刻も早く化け鯨の中から出ることだけを考えて――と、そこまで考えて、はたと思い至ることがあった。
「ところでフレッドくん。いっこだけ聞いてもいい?」
「な、なんだよ」
「くじらってなあに?」
「……おまえ、鯨も知らないくせに僕を助けるとか言ってたのか?」
フレッドは呆れたように笑ってみせた。
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