鬼神ヨシノ
ソメイ荘は主人の魔法によって隔離された、亜空間の中にある。
広大な山々に囲まれた広い本邸と、客室でもある離れがその周囲にいくつも存在していた。
離れごとに食事が出され、温泉もそれぞれ備え付けられているので、滅多なことでは他の客と顔を合わせることはない。文字通り俗世から離れ、悠々と羽を伸ばすことができるのだ。
しかしここを訪れる客たちは、みながみな療養を目的としているわけではない。
ごく一部、限られた者は――ここの主人に用があるのだ。
「ほ、本当にこんなところで待っているだけでいいのか……?」
ソメイ荘の離れのひとつ。
敷地の中でも最も奥まったところにあるひとつにて、ヒューゲルはそわそわと人を待っていた。
宿のスタッフに案内されてかれこれ一時間ほどが経過する。一向に外に人の気配が現れる気配はなく、ヒューゲルはすっかり落ち着きをなくしていた。
ローテーブルに置かれた茶もすっかり冷めてしまっている。
それをひと思いにぐいっと飲み干して……重いため息を吐き出す。
「こうしている間にも、やつの野望は進んでいる……私はいったいどうすればいいのだ……!」
副官のドランクは辞表を出して雲隠れしたし、ヒューゲルにはもう頼れる相手はここの主人しかいなかった。
頭を抱えていた――そのときだ。
「なんや、お困りのようやねえ」
「っ……!?」
鈴を転がすような楽しげな声が目の前で響く。
驚いて顔を上げると同時、部屋中に薄紅色の花びらが突風とともに舞い散った。
目のくらむような花びらの嵐が収まった後、ローテーブルを挟んだ向かい側。ヒューゲルの正面には派手な出立の人物が音もなく現れていた。その人物は目を細め、艶然した笑みを浮かべてみせる。
「ふふふ……あんたが、うちのお客さんかえ?」
「そ……そう、だ」
ヒューゲルはごくりと喉を鳴らし、相手の姿をまじまじと見つめた。
黒い髪を長く伸ばした、十代半ばにしか見えない少女だ。
整った顔立ちに赤い縁取りを施して、額からは鬼神族の証である小さな角が生えていた。
その身に纏うのは派手で重そうなカラフルな衣装――東洋文化に詳しい者が見れば、キモノと呼ばれるものだと分かっただろう――だ。それを重ね着して、肩や胸元を大胆に露出している。
そしてその服の上に、赤い紐で繋いだ鈴を、いくつもいくつも飾っていた。
ヒューゲルが噂に聞いた通りの容姿である。
(これがヨシノ……人を好んで食らうという鬼神か!)
今ではこんな温泉宿の主人をしているが、かつてはこの地を根城にし、散々人里を荒らし回った鬼とされている。
その身に纏うおびただしいほどの鈴には一つ一つ人の名前が刻まれており、これまで食らった人間の数を表しているともっぱらの噂だ。
実際、こうして対峙しているだけでヒューゲルは彼女に圧倒されていた。
それなりに剣の腕に覚えがあるものの、ヨシノが本気になれば斬り合うこともできずに首が落ちる予感がする。
「それで? うちに成敗してもらいたい悪人っていうのはどんなやつなん?」
ヒューゲルが二の句も継げずにいることなどおかまいなしで、ヨシノはころころと笑う。
「ここに来るようなお人やから、うちの好みは知っとるやろけど……うちはなあ、悪人の魂しか口にせえへんの。生半可な悪人やったら……うちの舌は満足せえへんからね」
ヨシノは、悪人の魂を好んで食らうという。
ゆえにその噂を聞いた者たちが、彼女に仇討ちを頼むのだ。彼女が魂を食らった悪人は、まともな意思疎通もかなわないような廃人になってしまうという。しかし――。
「半端もんを始末させようってハラなら、うちは依頼人の方を食らう。それも覚悟の上やろなあ?」
「もちろんだとも……!」
ヨシノはかなりの気まぐれでも知られていた。
大金を積まれて敵対ギャングの壊滅を頼まれた際には依頼人もろとも二大組織を根絶やしにし、そうかと思えば子供をさらわれた夫婦のために大国を相手取り獅子奮迅の戦いを繰り広げたこともある。
関われば標的もろとも始末される可能性を秘めていた。
ヒューゲルにはもう後がない。ならばもう、すがる相手は神でも鬼でも何でもよかった。
あらん限りの思いを込めて、その名を叫ぶ。
「貴殿に始末を頼みたいのは……クズ賢者、カイン・デュランダルだ!」
「ふうん、巷で噂のあやつかえ」
ヨシノの眉がほんの少しだけ動く。どうやら興味は持ってもらえたようだ。
「でも、具体的にどんな悪人なん? 変な噂ばーっかり流れてくるもんやから、実態がなんやよぉ分からんのよねえ」
「安心してくれ、やつは本物の悪人だ。これまで分かっているだけでも……」
奴隷の売買、何の罪もない市民への暴行、はてには魔王の娘を手懐けて世界征服を企んでいること……などなど。
ヒューゲルは自分が知っているだけのカインの悪事(だと思い込んでいること)をつまびらかに語ってみせた。
すると――。
「……ふうん」
「ひっ……!」
ヨシノが目をすっと細める。
その瞬間、ただでさえ冷えつつあった部屋の空気が完全に凍りついた。苛烈極まりない殺気を前にして、ヒューゲルはもはや息すらできない。
ヨシノは凍りつくヒューゲルに、淡々と問うた。
「そのクズ賢者さんは何かえ、つまるところ……子供を食い物にする悪人ってことでよろしおすか?」
「そ、その通――ひいいっ!?」
ヒューゲルは悲鳴を上げてしまう。
突然、目の前に白刃が突きつけられたのだ。一瞬でヨシノが取り出したのは、長い鉄製の柄を持つ得物――ナギナタと呼ばれる長距離武器だ。ヨシノは立ち上がると、それを軽々と振り回す。
そうして毒々しいほど赤い舌で唇を舐めて、心底楽しそうに嗤ってみせた。
「ええやろ。その極悪人、このヨシノが喰ろうてやるわ。その話が本当なら、ねェ……」
ストックが尽きたので、また書き溜めて戻って参ります。六月半ば再開予定。
のんびりお待ちいただけますと幸いです。先の展開はだいぶ読めると思いますが!
そして評価点ももうすぐ一万点突破しそうです!日頃のご愛顧に感謝!





