喪失感
あれからイレーネを呼びに行って、マクスのことを探したのですが、やはりマクスはかき消えたようにいなくなったまま、麻子の所へは帰ってきませんでした。
イレーネと一緒に重たいソリをひいて、パルマおばさんの家に戻った時には、二人ともへとへとになっていました。
雪まみれになって憔悴しきっていた麻子に、パルマおばさんは温かいカモミールティーを淹れてくれました。甘いリンゴの香りがしてくると、蜜入りのリンゴを美味しそうにかじっていたマクスのことが思い起こされます。
あのリンゴはラクセル産のリンゴに……似てたんだよね。
トーチラス国にも、青森のようにリンゴの産地があるそうです。マクスが「お前にもラクセルの本場のリンゴを食べさせたいな」と言っていた自慢気な顔が頭をよぎりました。
今もシフォンケーキにかけるリンゴジャムを煮詰めながら、麻子はマクスのことを考えています。
こうやって物だとか、匂いだとかに触れるたびに、マクスが頭の中を占めるというのは重症です。
マクス・ロス……これってまさか、恋だとかいうものじゃないでしょうね?
ふふっ、そぉんなバカな!
あんなに大食らいで、不潔で、偉そうで、手がかかって、怖そうな人のどこに恋する部分があるでしょう? 麻子の好きなタイプとは、正反対の人物がマクスと言ってもいいです。
麻子が好きなのはお隣の健人さんのような人です。
いつもニコニコしていて、お母さんにも優しくて、小学校の登校班の時には頼もしい班長ぶりを見せてくれました。実を言うと、健人さんたちが外国に行くまでずっと、麻子は片思いをしていたのです。
健人さんたちがカナダのお父さんの所へ行くと聞いた時には泣きましたが、お隣の家に入って部屋に空気を通すことを、おばさんに頼まれた時には嬉しかったです。
線が細くひょろりと背が高くて、こしのないサラサラの栗色の髪をしていた色白の健人さん。ハンサムで皆の憧れの的でした。
片やマクスはがっしりとした大柄で、髪なんてお風呂上りでもゴワゴワしていましたし、肌も浅黒く日焼けしていて、手なんかもごつくて剣だこができていました。顔は……言わないでいてあげましょう。目つきが悪いんですよね。
ジャニ系 対 野獣系
ぷっ、比べるのも気の毒です。
自分がマクスに恋してるなんて、勘違いも甚だしい。たぶんずっと世話をしてあげていたから、子どもを心配する母親の気分になっているんですよね。
はぁ~
いったいマクスはどこへ行ったのでしょう?
まさか敵に捕らわれたんじゃないでしょうね……?
火にかけていたジャムがチリチリと音をたて始めたので、麻子はハッとして鍋を火からおろしました。
できたてのシフォンケーキとリンゴジャムを西隣の家に持っていくと、孝代おばあさんがいそいそと出てきました。
「まあまあ、麻子ちゃん。入って! 朝からいい匂いがしてたから、期待して待ってたのよ」
ぺろりと舌を出して、そんなあけすけな物言いをされると、麻子はいつも負けたなと思うのです。
この孝代さんは、落ち着いた真面目なおじいさんと夫婦とは思えないほど、茶目っ気のある元気な人です。地域のサークル活動にも積極的で、今日は老人会でボランティア、明日は友達とお茶会といつもあちこち飛び回っています。
先日の日曜日にあった「新春手芸フェスティバル」にも、孝代さんの紹介で参加することになりました。麻子たちが手芸店を始めたのも、この孝代さんの知り合いがきっかけです。
麻子は父親が亡くなってから、自分の夢だと思っていた英語教師になることに意欲を持てなくなってしまいました。アルバイトに行っていた手芸店でダラダラと仕事を続けながら、今後の生活費のこともあるし大学を退学しようかと考えていたのです。
そんな時に孝代さんが「お父さんの生命保険を使ってでも、大学だけは出ときなさい」と言ってくれました。大学を卒業して結局、手芸用品を販売している会社の正社員になった麻子でしたが、あの時、孝代さんの言うことを聞いていて良かったと思いました。正社員になれたのも大学出の履歴書が効きましたし、手芸店を開いた時にも、取引相手に信用してもらえました。
そんなことで麻子は孝代おばあさんに頭が上がらないのです。
「この間のフェスティバルでも売り上げが良かったって聞いたわよ。溝内さんも、喜んでた」
溝内さんというのは、孝代さんの知り合いです。息子さんの雅史さんが大手の服飾メーカーに勤めていて、その関係で麻子の店の商品も取り扱ってもらっています。
「溝内さんには本当にお世話になっています。当日も親子でうちのブースまで来てくださったんですよ。よろしくお伝えくださいね」
孝代さんはそれを聞いてニヤリと笑ったように思えました。
「そのことだけど、麻子ちゃん。麻子ちゃんも、もういい歳でしょ? 最近は女の人でも三十ぐらいになってお嫁に行く人が多いけど、麻子ちゃんはご両親がいないから、若いうちに結婚した方がいいんじゃないかと思ってるの。頼りになる人がいると、安心よ」
「……はぁ、でも店も始めたばかりですし、まだそんなことを考えたこともないんです」
「麻子ちゃんの気持ちはわかるわ。柳さんとこの健ちゃんが帰って来るのを待ってるのよね」
ちょ、ちょ、ちょっと待って! なんでこの人は健人さんのことを知ってるんでしょう?!
麻子はものも言えなくなって、真っ赤になったままうつむいてしまいました。
「溝内さんの息子さんの雅史さんがね、麻子ちゃんなら結婚してもいいって言ってくれてるの。麻子ちゃんに両親がいないということも承知してくれてるし、お仕事も服飾関係で話も合うだろうし、どうかしら? こういうものはご縁だからねぇ。いつ帰って来るかわからない初恋の人を待つよりも、目の前の現実の人のことを考えてみない?」
……………………
まさか自分にお見合いの話があるなんて、思ってもみませんでした。
どうしよう?
それは…………いいお話です。雅史さんは尊敬していますし、人柄もよく知っています。
けれど、結婚? ピンときません。
その時、麻子の脳裏には幼馴染みの憧れの健人さんではなく、鋭い目をしたマクスがこちらを睨んでいる顔が映っていました。
マクス……なんで思い出すのは、こんな怖い顔なんだろう?
どこにいるのかなぁ、雪の中で寒くないのかしら。ちゃんとご飯が食べられているのかな。
心にぽっかりと空いた喪失感と、マクスの無事を祈ることで忙しくて、孝代さんが言ったお話をなかなか考えることができない麻子でした。




