57.ストーカー、覚悟を決める。
(ラズさん……)
ラザラスが、泣いている――久方ぶりに『会えた』親友、ジュリアスに近付くことができぬままに。それを痛々しく思いながらも、声を掛ける気にはなれない。理由を、何となく察しているからだ。今、自分がやるべき行動は、声掛けではない。
彼を支えるために必要なもの、それは情報収集だろう。ロゼッタはアンジェリアに抱きしめられているジュリアスの姿を改めて確認し、胸を痛める。
「……」
光の無い瞳、血色の悪い肌、パサつき、艶の無い髪。ジュリアスがラザラスよりもいくつか年下であることは知っているが、この状態のジュリアスは少々老けて見える。
もちろん、顔のパーツをよく見れば幼い顔立ちをした美青年であることは分かるのだが、正直なところ、今のジュリアスはラザラスの部屋に飾られている写真の人物と同一人物だとは到底思えない。2年間植物状態だったことを考慮したとしても、酷い変わり様である。
「……。ありがとう。アンジェ」
「ジュリー……?」
ジュリアスの変わり様は、恐らく精神的なものが大きく関与している。彼の立場になったとして、平常心を保つことができる自信はロゼッタにだって無い。
きっと、どんな屈強な精神を持つ人間でも、彼の身に降りかかった不幸を体験すれば、少なからず気を病んでしまうだろう。
「オレのこと、ずっと待っててくれたんだよね? 分かるよ、それくらい」
それでも、ジュリアスは微笑んで見せた。彼が泣き喚いたり、弱音を吐いたりすることは無かった。発言からして、二年が経過していることも理解しているのだろう。
変わらず彼に抱きついたまま涙を流すアンジェリアの頭を弱々しく撫で、彼はラザラスへと視線を向ける。
「ラズも、ありがとう……また会えて、嬉しい。……髪、切ったんだね。さっぱりして良いね、格好良いよ」
不思議な会話だが、これも無理はない。ジュリアスが事件に巻き込まれた時、ラザラスは自宅に引きこもってしまっていたのだから。
その引きこもり期間がどれほど続いたのかは知らないが、ジュリアスからしてみれば、ラザラスは彼が昏睡状態になる前から会いたかった相手である。当然ながら、その会話は多少違和感のあるものにはなってしまう。
「ジュリー、その……」
「謝るのは、やめてくれ。アンタのせいじゃない、分かってる……だから、こっちに来てよ」
そう言って彼は微笑んでみせるが、発した言葉の裏に「自分はもう動けないから、自分からはそっちに行けないから」という本音が見え隠れしていた。
客観的な立場だからこそ、ロゼッタは、ジュリアスが本音を理性で抑え込んだことに気付いてしまった。ラザラスがそれに気付いたかどうかは分からない。
「……分かった」
ラザラスは躊躇いがちにジュリアスに近付き、伸ばされた手を取る。様々な思いが交差し、葛藤している様子であった。
しかし、ジュリアスの手の温もりに、彼が生きている証に触れ、抑え込んでいたものが溢れてしまったのだろう。ラザラスは顔を歪めて俯き、床に涙を溢した。
「……」
(あ……)
その瞬間、ジュリアスの顔が歪む。感情をどうにか抑え込んで、耐えていることが伺える。それは、2人に会えて嬉しいだとか、動けないのが辛いだとか、そのような生易しいものではない――むしろ、彼の表情からは『虚無』が感じ取れた。
底が見えない、計り知れないほどの深い絶望。
もう、何もかもどうでも良いと言わんばかりの諦め。
見ていて寒気がする程の、こちらが飲まれてしまいそうなほどの、暗く重い感情。
それを、ジュリアスは2人に見せまいと頑張っている。
「……想像以上、だね」
ポツリと、オスカーが困ったように呟いた言葉が、ジュリアスの耳に届いた。
「! あ、オスカー、さん……? すみません、わざわざ来て下さったんですね」
「んー……指摘されたくないよね? 言わないどくね」
ジュリアスは咄嗟に顔を『作ってみせた』が、当然ながらオスカーにそれは通用しない。ジュリアスは苦笑し、俯いてしまった。
「いや、ジュリー君さ、無理して明るく振る舞う必要は無いと思うよ。少なくともそこのふたりは、キミが変に遠慮する方が嫌なんじゃないかい?」
「そう……ですね」
遠回しに甘えろ、感情を表に出せ、とオスカーはジュリアスに伝え、微かに眉をひそめる。というのも、ジュリアスは笑顔を作るだけで、感情を表に出す気配を全く見せなかったからだ。
現在絶賛感情剥き出し中なラザラスやアンジェリアと比較して、ジュリアスは本当に大人だと――否、強引に大人にならざるを得なかった人なのだろうと、ロゼッタは思った。だからこそ、甘えることができないのだろうとも。
(……ラズさんから離れて、見守ってた方が良いような気がしてきた)
ラザラスと離れるのは嫌だ。しかし、彼がどれだけジュリアスのことを大切に思っているかを、ロゼッタは痛いほどに理解している。そして今のジュリアスは、とてもではないが一人にできる状態ではない。
(竜人は魔力量が多いって聞いてたけど、多分わたしより多いんだよね、ジュリーさん……制御できてないっぽいけど、勝てるかな……)
どういうわけなのか、全くと言っても良い程に制御されておらず、垂れ流し状態なジュリアスの魔力。それは、ロゼッタでも分かるほどに“規格外”であった。
仮にジュリアスが魔力を暴走させたら、ラザラスやアンジェリアどころか、ロゼッタであっても負けるかもしれない。ここに来て始めて、ロゼッタは危機感を覚えた。
「……」
ここに来て全員が発する言葉に困り、沈黙が続く。
非常に気まずい状態だが、「もう帰る」という言葉は出ない。忙しいであろう、オスカーですらその言葉を発することは無かった。
重苦しいほどに静かな空間に、トントンと軽いノックの音が響いた。
「すみません。ジュリアスさん、検査をさせて下さい……あ、すみませんお取込み中でしたか?」
入ってきたのは年若い看護師だった。彼女を困らせないよう、ラザラスとアンジェリアはさっとジュリアスから離れる。
彼らの顔には涙が残っていたが、そこに触れてはいけないと判断したのだろう。「ありがとうございます」と頭を下げ、看護師はおもむろに検査の準備を始めた。
検査に関してはロゼッタにもよく分からないが、様子を見る限り、ジュリアスに目立った異常は無いのだろう。ただひとつ気になるのは、ジュリアス本人の様子が明らかにおかしいことだろう。顔面を蒼白にし、カタカタと身体を震わせている。無理もないが、身体に触れられること対し、恐怖を感じているようだ。
「ジュリー、大丈夫か?」
「うん……」
だが、検査を受けないわけにはいかないと理解しているのか、ラザラス達や看護師がいくら大丈夫かと聞いても、肯定の返事をするだけであった。
そんなジュリアスに変化が訪れたのは、看護師がケースから注射器を取り出した、その瞬間であった。
「あ……」
「最後に、採血をさせて下さい。これで終わりですから、大丈夫ですよ」
びくりとジュリアスの肩が揺れる。看護師に繰り返し「大丈夫ですよ」と言葉を掛けられるも、きっとその言葉は彼には届いていない。きつく目を閉じ、注射器を見ないように、顔を背け、何とか、何とかこの状況を耐えきろうとしている。
(うん、分かる。注射器、怖いよね)
2年前、ジュリアスに投与された、致死量の薬品。
ロゼッタの時もそうだったのだが、その投与には注射器が使われた。今回は病院での治療行為な上、投与どころか血を抜くために注射器を使うわけだが、見た目が同じで、針を刺すという動作は変わらないのだから、恐怖心は決して薄まらない。恐らくジュリアスほどではないが、ロゼッタも注射器への恐怖は多少理解できる。
(ていうか、この看護師さんがなぁ……)
声掛けこそするものの、看護師の動作があまりにも機械的過ぎる。毎日のように検査をしているのだから、機械的になること自体は仕方がない。
しかしそれはこれといって個別対応をしなくて良いような相手にするものであって、今彼女の目の前にいるジュリアスは間違いなく個別対応が必要な部類の人間だ。
彼が毒薬を投与されて意識不明の重体になった上、意識を取り戻した直後に酷く錯乱したという経緯を知っていれば対応が、少なくとも採血の方法や声掛けの内容に関しては多少変わるのではないだろうか……?
(あっ、もしかして新入りさん!? ということは、ジュリーさんのこと、よく分かってないんじゃ……!?)
そうこうしているうちに、過呼吸を起こしそうなレベルでジュリアスの呼吸が荒くなってしまった。
これには流石に「おかしい」と気付いたのか、看護師は注射器を手に持ったまま、ポンポンとジュリアスの肩を叩く。
「あの! 本当に大丈夫ですか?」
それが、良くなかった。
ジュリアスは元々、コミュニケーション能力の高い青年だ。会話中によそ見をすること自体、受け入れがたいものがあったのだろう。咄嗟に返事をしようとしてしまったようで、彼は注射器を見ないように、視界に入れないようにと閉じていた目を、思わず開いてしまった。背けていた顔を、看護師の方へと向けてしまった――結果、彼は眼前にいる人物が、“注射器を手にしている”ということを、嫌でも意識してしまうこととなった。
「ひ……っ!!」
青の瞳が、恐怖に染まる。両足を失い、思うように動かない身体で、彼は必死に逃げ出そうともがく。ガクガクと震える両腕で、この場から離れようと、目の前の人物から逃れようと、シーツにしわをよせるようにして暴れ出す。
「ッ、やだ、いやだっ、やめて! こわいよ、やだ、いやっ! や……っ、いやだ、やあぁあ……ッ!!」
「ジュリアスさん!?」
「ジュリー!!」
このままではベッドから落ちてしまうと考えたらしい看護師は、咄嗟にジュリアスに手を伸ばす。しかし、それはどう考えてもジュリアスをさらに追い込んでしまう行為だ!
「待って下さい!!」
即座にそれに気付き、ラザラスは叫んだ。だが、彼の静止の声は間に合わず、彼女の手は既にジュリアスの腕を掴んでいた。ジュリアスの恐怖に染まった瞳から、涙が零れ落ちる――その刹那、この場にいる全員を凄まじい程の魔力の波動が襲った。
部屋の中だというのに突風が吹き荒れ、看護師が持ってきた医療器具や、お見舞いの品、部屋の備品などが床に叩きつけられるように転がっていく。魔力の波動はどんどん強くなっていき、部屋の窓ガラスを粉々に砕いてしまった。
「きゃあああぁっ!!」
「ッ、マズい!!」
一番近くにいた上に、驚いてバランスを崩してしまったのだろう。吹き飛ばされた看護師を受け止め、ラザラスは壁に背と頭を強く打ち付けた。
「がは……っ」
(ラズさん!!)
瞬間的に息が止まり、苦痛に顔を歪める。脳震盪を起こしたようで、立っていることができずに彼はその場に膝を付いた。ロゼッタは飛び出したい衝動に駆られたが、この状況で外に出たところで、自分が役に立てるとは到底思えない!
「ジュリー君、落ち着け! 大丈夫だ、大丈夫だからな!?」
オスカーは同じく吹き飛ばされ、打ち所が悪かったのか意識を失ったアンジェリアを受け止め、ジュリアスに声を掛ける。この時点で、ジュリアスはある程度正気を取り戻していた。そしてそれは、彼に残酷な事実を突き付けた。
「な、なん、で、なに、これ、おかしい、どうして……どうして!?」
自分が、この惨事を引き起こしたことは理解している。
しかし、溢れる魔力の波動が止められない、自分ではどうすることもできない、とジュリアスは頭を振るう。
病院は大騒ぎになっていた。恐怖心からか各地で悲鳴が上がり、誰かが駆けつけてくるのが分かる。
挙句、ジュリアスは視界の片隅で親友のラザラスが頭から血を流し、アンジェリアが意識を失っていることに気付いてしまった。
「はは……」
彼は、この場に不釣り合いな笑みを浮かべた。
不釣り合いな程に、綺麗な笑み――その瞳からは、新たに一筋の涙が零れ落ちた。
「くそ……っ、抑え込めない……!!」
制御ができていないどころか、どんどん悪化していく。奥歯を噛みしめ、オスカーはジュリアスに手を伸ばしている。どうやら彼は付与魔法の使い手らしく、ジュリアスの魔力を抑え込もうとしているらしい。だが、全く歯が立っていない!
「ジュリー君! 気を確かに持ってくれ!! そのままじゃ魔力の流し過ぎで死んでしまう!! そんなの、誰も救われないだろう!?」
(!? 魔力って、流し過ぎたら死んじゃうの……!?)
いくら規格外の魔力を持っていようが、放出している魔力の量が異常だ。このままでは、数分もしないうちに枯渇してしまうだろう。
加えて、ジュリアスが放出した魔力が行き場を無くして病院内を駆け巡っていることが分かる。このままでは、何かしら悪い影響を及ぼすに違いない……少なくとも、爆発“くらい”はするだろう。
仮にジュリアスの命が助かったとしても、病院を爆発させたという事実がジュリアスを完全に壊すことは、明らかだった。何とかしなければならない。
そしてこの場で「何とかできる」可能性を持つのは、ロゼッタただ一人だ。
(オスカーさんの付与魔法を補佐するだけじゃなくて……出ちゃった魔力をどうにかしなきゃ……逆に、取り込んだらどうなるんだろう?)
ジュリアス自身はオスカーの付与魔法を補佐する形で抑え込むとして、問題は放出された魔力の方だ。
既にある程度魔力操作を物にしているロゼッタなら、取り込むこと自体は可能だ。問題はあまりにも量が多すぎることと、属性である。
闇属性ならまだ良かったのだが、ジュリアスが放出しているのは光属性。ロゼッタ自身に光属性の素養が無いわけではないが、ジュリアスの魔力を受け止めきるだけの力は無い。少なからず拒絶反応が出るだろう……まあ、死にはしないだろうとロゼッタは覚悟を決めた。
ジュリアスの瞳が「殺してくれ」、「死なせて」と語り掛けている。
こうなると魔力の暴走状態も、大体は本人の意に反するものなのだろうが、多少は意識してやっているような気がしてきた。
魔力の過剰放出による死は動けない彼ができる、最後の自死手段だ。
死にたくなるのも、絶望してしまうのも、分からなくはない……それでも、
「それでもわたしは、あなたを死なせるわけにはいかないんです」
突然聞こえたロゼッタの声と、強化された付与魔法。
「え……っ、誰か知らないが、助かる……!」
流石のオスカーも多少困惑したようだが、すぐに体勢を整え、ジュリアスを抑え込みに掛かった。その間、同時進行でロゼッタは周囲の魔力を自身の身体に取り込み始める。
「――ッ!!」
身体に激痛が走る。
腹の奥から、何か鉄錆臭いものが込み上げてくる。
多少取り込んだだけでこれである。本格的に危険なのではないか、ひょっとしたら死ぬのではないかとも思いながら、ロゼッタは耐えた。
(ラズさん、優しいから……こんな姿、見せたくなよね)
悲鳴も上げず、相変わらず影に隠れたまま、平然を装う。
確かに辛いが、これまでの人生と比べれば、こんなものどうってことはない!
「ろ、ロゼ……? ロゼ、なのか?」
少し意識が朦朧としている様子だったが、ラザラスが異変に気付いた。
普段のロゼッタなら、名を呼ばれれば秒で返事をする。それが義務だからだ。
しかし、そんな余裕は今のロゼッタには無い。
視界が霞む。ロゼッタこそ、意識が朦朧としてきている。段々と、痛みも感じなくなってきていた。
「ロゼ! 君なんだろう!? 返事をしてくれ、ロゼ!!」
ラザラスの声が聞こえる――その声が、ロゼッタの覚悟をより強固なものとした。
〇
数秒程度の出来事だったのか、数時間単位で戦っていたのか、もうよく分からなかった。
だが、魔力を暴走させていたジュリアスも、病院内を駆け巡っていた魔力も、何とか解決することができた。
(ラズさん……大丈夫だよ。ちゃんと、守り切ったから)
影の外では、反動で眠り込んだジュリアスを医師たちが囲んでいる。本人の容体はさておき、もはや部屋が使い物にならない。
病室移動と検査のために、ラザラス達は部屋を追い出される形となったのだが、状況が状況である。再度目を覚ましたジュリアスの元にすぐ駆け付けられるようにと別室を用意したもらった他、色々と配慮してもらえた。
なお、看護師に関してはやはり病院側の不手際だったようである。どうやら引継ぎが上手くいっていなかったらしい。これに関してはオスカーが代表して院長から謝罪を受けていた。
「……ロゼ、返事をしてくれないか?」
先程からラザラスが繰り返しロゼッタの名を呼んでいる。アンジェリアはともかく、オスカーや医師たちは不思議そうに眉をひそめてラザラスを見ている。傍から見ればロゼッタの存在は認識できないものであるから、仕方がない。
(お返事、しなきゃ……)
休ませてもらおうかと思ったが、これではラザラスの気が休まらない。
自分の身体がボロボロなのは分かっているが、テレパシーくらいなら大丈夫だろう。
(ッ、だ、だめ……っ!!)
テレパシーを使おうとしたその瞬間、視界が反転する。
強制的にラザラスの影から弾き出され、ロゼッタは真白の床を転がった。
「う……ぐっ、げほっ、ごほっ、うぅ……」
込み上げてくる嘔吐感に堪え切れずに嘔吐けば、ビチャビチャと赤褐色の液体が口から溢れ出てきた。身体が痛い。気分が悪い。身動きが取れない。
「……ロゼ!? ロゼ!!」
ラザラスの声が、どこか遠くで聞こえる。抱えてくれているのは分かるのだが、上手く認識できない。視界が歪んで、前がよく見えない――こんな姿、見せたくなかったのに。
「き……君は一体何をやった!? どうして、こんな無茶をしたんだ!?」
ラザラスが声を荒げている。どうして、怒るのだろう。頑張ったのだから、褒めて欲しい。よくやった、偉いぞと頭を撫でて欲しい。
そんな具合に、ロゼッタが怒られたことを不満に思っていると、ぽたぽたと頬に水滴が落ちてきた。
そこで、ロゼッタは気付く……もしかして、自分のために、ラザラスは泣いて、怒ってくれているのだろうか、と。
(頑張って、良かった)
自惚れかもしれないが、嬉しかった。
「ロゼ……っ」
そうしているうちに、意識が遠のいていく。
それに抗うことはできず、ロゼッタの記憶はそこでプツリと途切れてしまった。
久々の更新だというのにあまりにも暗い話だったので、長引いても良いからせめて救いのあるところで終わらせたい……と思ってここまで書きましたが、結局暗くて頭を抱えております。暗い。重い。




