第7章 アンの生い立ちとラカムとの出会い ―前編―
アン・ボニーは、アイルランドのコーク州で生まれた。
アンの父は弁護士をしていて、世間的にも信用のある立場にあった。
裕福な環境に育ったことに違いはない。しかし、アンは嫡出の子ではなかった。
つまり、父と、その愛人との間に生まれた子であったのだ。
父の正妻は、産褥のために重い病にかかり、医師に勧められて、田舎にある父の母親の家に移り住むことになった。しかし父は、仕事の都合で都会に残ったのである。
正妻は、家事や家族のこと全般を、若い女中に任せていた。この女中はなかなかの美人で、同じ街の皮職人の青年から想いを寄せられていた。青年は、彼女が一人きりの時を狙っては家に上がり込み、よく彼女に言い寄っていたのだ。
ある日、彼女が家事に忙しくしている時、彼女が背を向けているのを良いことに、皮職人の青年は銀のスプーンを三本盗むと、自分のポケットに挿し込んだ。
彼女はすぐに、スプーンがなくなったことに気がついた。そこで、
「スプーンを盗んだでしょう?」
そう皮職人の青年につめ寄った。しかし青年は、
「盗ってなどいないさ」
と、なんとも頑固に言い張ったのだ。彼女は、青年の言動に激怒した。
「もういいわ。あなたがそのつもりなら、警察に訴えるわ。そうなったなら、あなたは裁判にかけられることになるわね」
それを聞き、青年は慌てた。警察に調べられたなら、盗みが露見することは明白だったからだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。警察だなんて、そんな大げさな……」
「どこが大げさなのよ。一本だってなくなったら大ごとなのに、銀のスプーンが三本もなくなったのよ」
「まあ、落ち着きなって。ふと見えなくなっただけかもしれないじゃないか。もしかして、どこかに転がっているんじゃないかい?」
「ついさっきまでは確かにあったのよ? そのスプーンが、三本も、一度にどこかへ行ってしまったというの?」
「ない話じゃないだろう? 警察沙汰なんかにして、もしもすぐに出てきたりしたなら、咎められるのは君の方だよ。ほら、引き出しの中やその辺りをもう一度探してみたらどうだい?」
青年がそう言うので、女中はもう一度、銀のスプーンをしまっている引き出しを探ってみた。そうして、彼女の注意がそれた隙に、青年は、台所に隣接する彼女の寝室へと入り込んだのだった。
青年は、盗んだスプーンをすべて、ベッドのシーツの下へと隠した。そして、裏口から逃げてしまった。青年は、彼女がベッドに入ればスプーンを見つけるだろうから、明日にでももう一度出向いて、ちょっと驚かそうと思ってやったことだと言えば笑い話で済むだろうと考えたのだ。
だが、ことはそう簡単には終わらなかった。
青年のこの軽はずみな行動が、新たな疑惑を浮上させ、ひと騒動を起こすきっかけとなったのである。
女中は、青年がスプーンを持って逃げたのだと思い、まっすぐに警察へと出向いた。
青年は、警察が自分を捜していることを聞いたが、明日になればすべて収まると思っていた。しかし、数日が経っても収まらない。そこで青年は、女中がスプーンを自分のものにして、自分を貶めようとしているのではないかと疑いはじめた。
そんな騒動の中、健康を回復した女主人が、夫の母親とともに帰って来たのだ。
家に帰り着いて最初に聞いたのが、スプーンがなくなり、皮職人の青年が逃走しているという知らせだった。
皮職人の青年は、女主人が帰宅したことを伝え聞くと、彼女のところへ出向いてすべてを話してしまおうと考えた。
警察に追われたままでは商売などできないし、彼は、女主人がとても気立ての良い人であることを知っていたからである。
女主人は、皮職人の青年の言うことを信じることができなかった。
しかし、念のため、女中部屋に行きベッドのシーツをめくると、なんとスプーンが三本出てきたのだ。彼女は驚きながらも、正直に話した青年の罪を不問とし、そのまま帰した。
その後、女主人は考えた。
彼女は、これまで女中が盗みなど働いたことなどないことを知っていた。その面で、彼女は女中を疑うつもりなどはない。ならば、なぜスプーンがシーツの中から出てきたのか……。
ひとつの考えが脳裏に浮かぶ。
――女中は、スプーンがなくなってから、このベッドを使用していないのでは……?
つまり女中は、しばらくの間、自分のベッドで寝ていないのではないか。
では、いったい、誰のベッドで……?
かっと、彼女の胸中は嫉妬に燃え上がった。
彼女が病で療養している中、夫と女中がただならぬ関係になってしまっていたのだ。
「メアリー」
女主人は、女中を呼びつけて言った。
「今夜、お義母様には私の部屋で休んで頂こうと思っています。そこで、私にあなたの部屋を貸してちょうだい」
「はい、かしこまりました。では、女中部屋の掃除もしておきますね」
「ええ。ベッドのシーツも取り替えておいてちょうだいね」
そう申しつけてすぐに、メアリーは動いた。
メアリーは女中部屋に行くと、手はじめにベッドのシーツを取り替えようと敷布をめくった。そこで、彼女はなくなった銀のスプーンを見つけたのだ。
メアリーは、しばらく唖然としたのち、顔を蒼褪めさせた。本来ならば、すぐにでも見つかったことを伝えに動くはずだ。だが、それができない理由が彼女にはあったのだろう。
――やはり、思った通りだわ。夫とメアリーはすでに……。
陰からその光景をそっとのぞいていた女主人の前で、メアリーは銀のスプーンを三本とも、自分のトランクへと入れた。
その夜のこと。
女主人が女中部屋で床に就いていると、足音を忍ばせながら部屋に入って来る者があることに気がついた。
――まさか、泥棒……?
そう思った女主人だったが、泥棒であった方が良かったかもしれないとすぐに思い直した。なぜなら、部屋に侵入してきた者が、「メアリー」の名を口にしていたからである。
そして、その声は……紛れもなく夫のものであった。
「メアリー、起きているかい?」
女主人は、寝たふりをしてなりゆきに任せることにした。
夫は、反応がないにも関わらず、ベッドに入ってくるなり女主人の乳房を揉み出した。女主人は、声が漏れてしまわないよう、必死に堪える。
久し振りに感じる夫の温もり。
だが、それが向けられた先が自分ではなく女中のメアリーだと思うと、怒りと悲しみに唇を噛みしめた。
そして、その晩……。
女主人は、ただただ夫になされるがままに耐え続けたのだった――。
次回、いよいよアン・ボニーが誕生します。