第5章 メアリーの生い立ち ―後編― ※写真付
騎兵連隊に入隊後、いくつかの戦闘で際立った働きを見せたメアリーは、すべての上官から高く評価されるようになっていた。
しかし……。
ある戦闘において、メアリーと同じ部隊に配属された者の中にフレミング出身の青年がいた。
その青年は実に美しく、その美貌に、メアリーはひと目で恋に落ちた。その頃から、メアリーは目に見えて変わってしまった。任務を疎かにするようになったのだ。それは、これまでのメアリーからはとても考えられないことだった。
その青年……アルベルトと出会ってからというもの、これまで常に磨き上げられていたメアリーの武器と装備は、まったく顧みられることがなくなっていた。また、アルベルトが命令を受けて作戦に従事する時、メアリーもともに危険に身を投じた。
……任務でもないのに、である。
メアリーの行動を見た者たちは、メアリーの気が触れたのではないかと噂し合った。おそらくはアルベルトですらも、メアリーがなぜこうも変わってしまったのか、まったく理解ができなかったであろう。
それというのも、メアリーが男であることを、周囲の誰もが信じて疑うことがなかったからである。
ある日のこと。戦地において、メアリーはアルベルトと同じテントに寝ていた。
ランプの灯りも消えた暗がりの中、横になったばかりの戦友にメアリーが声をかける。
「アル……」
「なんだ、ウィル?」
身じろぎもせず、声だけでアルベルトが答えた。そこで、この機を逃してはならないと直感したメアリーは、思い切った行動に出たのだ。
「好きだ」
がさごそという音のあと、アルベルトが身を起こし、こちらを振り返ったのがわかった。そこで、メアリーも身を起こす。アルベルトの表情を伺おうと必死に目を凝らした。しかし、
「やめろ」
アルベルトが言った。その言葉に、メアリーは衝撃を受けた。拒絶されたと思ったからである。だが、次の瞬間、そうではないことがわかった。
「まるで、明日にでも死ぬみたいじゃないか」
アルベルトが続ける。
「ウィルらしくもない。今日だって、最前線に立ってみんなを引っ張ってきたんじゃないか。確かにここは戦地で、明日の命もわからない状況ではある。弱気になることもあるかもしれない。でも……やっぱり、らしくないよ」
「アル……」
「そんな、最後の別れに言うみたいなのは、やめてくれ」
そこで、メアリーは完全に身を起こすと、ずいっとアルベルトの方へと身を寄せた。その上で、
「アル、手を貸してくれ」
そう告げる。アルベルトは訝しみながらも、メアリーに右手を差し出した。そしてメアリーは、それを自らの胸元へと持っていく。びくっとアルベルトの右手がはねた。
「……な……まさか……そんな……っ」
動揺を顕わにするアルベルトに、メアリーはアルベルトの右手を握り締めたまま、再度告げる。
「アル。僕は、君が好きなんだ」
この夜を境に、二人の関係は大きく変わった。けれども、もともとアルベルトに恋慕を抱いていたメアリーの心境はたいして変わらない。変わったのはアルベルトである。
アルベルトはメアリーが女であると知り、自分だけの情婦を持ったように錯覚したのだ。
夜になりテントに入ると、毎夜のようにアルベルトはメアリーを誘惑した。だが、メアリーにはアルベルトの思惑がわかっていた。アルベルトは、己の欲望を満たすために、メアリーの心を利用しようとしていたのである。
それに気がついていたメアリーは、アルベルトからのあらゆる誘惑を拒んだ。
一方のアルベルトは、腑に落ちないものを感じていた。
アルベルトには、毎夜、メアリーが自分を拒む理由がわからなかった。自分に好意を抱いているはずのメアリーが、なぜこうも自分を拒み続けるのか……。
しかし、女としてメアリーを見るようになってから、その疑問も徐々に晴れていった。
戦闘においては誰よりも勇猛果敢であり、恋においては大胆かつ情熱的なメアリーだが、別の一面も持っていることにアルベルトは気がついたのだ。
そう。メアリーは、内気で、慎み深い女でもあったのだ。
それでいて、物腰も上品であり、男女ともに人を惹きつける魅力も兼ね備えていた。
それに気づいた途端、今度はアルベルトがメアリーに夢中になった。
ある時、アルベルトはメアリーに結婚を申し込んだ。メアリーはその言葉を待っていたとばかりに喜び、二人は婚約したのである。
戦争が終結し、任務を終えた二人は、金を出し合って花嫁衣裳を買うと正式に結婚した。
二人の兵士が結婚したという話は、世間の評判になった。
メアリーは、男と偽って入隊していたという後ろめたさもあったので、結婚式はささやかに執り行おうと思っていた。しかし、兵士と、男装の兵士との結婚というのが物珍しいのか、数人の将校らが結婚式の手伝いに現れたのだ。
上官の心配りを無下にすることはできない。二人は、それを甘んじて受け入れていると、どんどんと噂は広がり、結婚式は、思ったよりも盛大に行われることとなってしまった。
当日は、たくさんの兵士たちがつめかけた。
同じ連隊の兵士だった花嫁に、一人一人が何か小さな贈り物をしようということになったらしい。そうして、メアリーの前には俄かに兵士たちの列ができたのだった。
結婚式を終える頃には、二人はたいへんな人気者となっていた。
本来、性別を偽ることは罰則ものであるが、女でありながらも勇猛果敢に戦い続けてきたメアリーを咎める者は、一人としていなかった。また、連隊においては、結婚を理由にすぐに除隊できるものではない。しかしながら、街でも連隊の中でも、二人の人気は凄まじかった。そのため、即座に二人そろっての除隊が認められたのだ。これは、極めて異例なことであった。
オランダのブレダにあるブレダ城の近くに、二人は居酒屋を開いた。
名を、「スリー・ホースシューズ」という。
小さな店だったが、多くの将校が常連となり、開業からほどなく店は瞬く間に繁盛した。
……しかし、それも束の間のこと。
メアリーがあれほど深く愛した夫が、急死したのだ。
病であった。
メアリーは、胸も張り裂けんばかりに深く悲しんだ。だが、それでも、二人で開業した店はなんとか続けた。
しかし、ライスワイク講和条約(一六九七年にオランダのライスワイクで締結された国際条約。これにより、ファルツ戦争を終結させた。この条約で、それまでスペイン領だったネーデルランドをオランダ兵が守備することになった)が締結され、将校がブレダに立ち寄ることもなくなった。すると、店は途端に寂れたようになり、メアリーはやむなく店を畳むしかなくなってしまったのだった。
その後、「スリー・ホースシューズ」で稼いだ蓄えも尽き、メアリーは再び男装をしてオランダの歩兵連隊に入隊した。メアリーが配属されたのは、国境の街だった。
しかし、この頃は戦争もなく、メアリーの腕を発揮する場がなかった。それゆえ、昇進の見込みもまるでない。連隊に入隊したものの、メアリーはすぐに別の道で身を立てようと決意したのである。
そう思ったら、メアリーの行動は早かった。入隊して間もない歩兵連隊を除隊し、西インド諸島へ向かう船に乗ったのだ。
――そして、メアリーの運命の歯車が、再び回り出す……。
この船は、西インド諸島にて、突如近づいてきた小型スループ船により拿捕された。
その船こそが、ジョン・ラカムとアン・ボニーを乗せた海賊船である。
そして、イングランド人であった船長ラカムは、オランダ船に乗り合わせた唯一のイングランド人であるメアリーに興味を持ち、自らの船に引き入れたのだ。
船長ラカムとアン・ボニー。
彼らとの出会いは、吉か凶か。
これまで兵役に就き、国のために戦い続けてきたメアリーが海賊の道へ……。
この出会い、そしてこの選択こそが、メアリーのこれからの人生を大きく揺るがすものとなっていくのである。
幼少の頃から男装を強いられ、男として兵役に就き、恋をして女に戻り結婚するも夫の急死……。
再び、生きるために男として兵役に就くが長くは続かず、西インド諸島へと航路をとる。
そして、ラカム海賊団と出会ったメアリー・リード。
彼女の波乱に満ちた物語は、まだ続いていく――。