第4章 メアリーの生い立ち ―前編― ※写真付
メアリー・リードは、十七世紀後半にイングランドで生まれた。
メアリーに父はいない。ひとつ上に種違いの兄はいたが、メアリーが生まれるよりも前に、幼くして病で亡くなってしまったのだ。
母は、近隣では評判のよい娘で、若くして船乗りと結婚した。夫は、当時身重であった母を残して船出し、そして……二度と帰って来ることはなかったという。
しばらくはロンドンにある夫の親類の家に身を寄せていたのだが、若かった母は、再び父無し子を身籠った。
腹の子が大きくなると、母は、田舎にいる友人と暮らすと言って、一歳にも満たない息子を連れてその家を出たのである。
夫の親類の家を出て、間もなく息子が死んだ。その後、隠れ家で女児を出産。それが、メアリー・リードであった。
三、四年暮らすうちに蓄えを使い果たしてしまった母は、ロンドンへ戻ろうと思い立つ。ロンドンでは、夫の母がまずまずの暮らし振りをしていることを知っていたからだ。また、夫の母はメアリーの存在を知らない。そこで、メアリーを死んだ子のように見せかければ、養育費を出して貰えるのではないかと考えたのだ。
母は、四歳にもならないメアリーに、男の子の格好をさせた。そして、男の子のように振る舞うことを指示したのである。
母に連れられてロンドンに戻ると、母の夫の母親が、男の子の姿をしたメアリーを引き取ろうと申し出た。しかし母は、息子と離れることなど考えられないと胸も潰れんばかりに振る舞い、体よく夫の母をメアリーの祖母に据えることに成功したのだった。
メアリーの男装は見事なもので、祖母も含め、メアリーが女の子であることに気づく者は誰もいなかった。
ある日、メアリーは思いあまって母に尋ねた。
「どうして男の子のふりをしないといけないの?」
そこで、母はそろそろ話してもよい頃合いかと思い、メアリーに出生の秘密を打ち明けたのだ。
メアリーには、ひとつ上にウィリアムという名の兄がいたこと。
母は、夫以外の子……つまり、メアリーを身籠ってしまったがために夫の家にはいられなくなり、ロンドンを離れたこと。
その旅の途中、幼かった兄が亡くなってしまったこと。
その後、メアリーが生まれたが、間もなく貯えがなくなり、生活をするために再び夫の母を頼らねばならなくなったこと。
そのためには、メアリーが夫の実の子である必要がある……。そこで、メアリーに男の子の格好をさせ、ウィリアムと名乗らせていたこと。
それらを、母は、ただ淡々と語って聞かせたのである。
それらの事実は、幼いメアリーにとってはどれも衝撃的なものだった。
メアリーは、それまで自分に兄がいたことなど知らなかったし、自分に与えられた第二の名前が兄のものだったなど思いも寄らなかった。しかも、自分を身籠ったために母がロンドンを去り、その道中で兄が死んだのだという。それならば、自分の存在そのものが兄を殺したようなものではないか。
母が何を思って、メアリーにその事実を打ち明けたのかはわからない。だが、それを語る母はあくまでも淡々としていた。
同じ女として、母の行動がメアリーには理解できなかった。
そう……女として。
メアリーは、やはり女の子であったのだ。
この時、メアリーは九歳にして、近所に住んでいる男の子に恋心を抱いていたのである。
しかし、ウィリアムとして告白などできるはずもない。女として好意を寄せていると伝えるためには、メアリーに戻らなければならないのだ。
女の子の格好をしたいという話に持っていこうとしたのだが、とても言い出せる雰囲気ではなくなってしまった。また、メアリーにとっても、この時の母の話は、好きな男の子のことを一時的にでも忘れてしまえるほどに衝撃的なものであった。
出生の秘密を知ったメアリーだが、ずっと男の子のふりをして生きていくことを嫌がった。けれども、真面目なメアリーは、母に逆らうことを善しともしなかった。そこで、女の子に戻りたいと思っていることを、幾度か母に伝えた。しかし、母はそれを、やんわりと、時にはきっぱりと跳ねのけた。
母は、生活のため、メアリーに女であることを隠すよう、きつく言いつけたのである。
そんなある日、ひとつの転機が訪れた。
祖母が他界したのだ。
祖母が亡くなったことは悲しかったが、これからは男の子のふりをしなくてもよいことにメアリーは喜んだ。母も、祖母が亡くなってからは、女であることを隠すようにとは言わなかった。
メアリーは、鏡を見ながら女の子のしぐさを真似てみた。あれやこれやと鏡の前でポーズを決める。
言葉遣いも、女の子のように語尾を上げてみたりした。だが、そのどれもが嘘っぽい。近所の女の子がやればとても可愛らしいのに、メアリーがやると男の子が女の子のふりをしているように見えて仕方がないのだ。
物心がついた頃から男の子の格好をさせられていたメアリーは、どんなふうに振る舞えば女の子らしくなるのかがまるでわからなかったのだった。
そして、祖母が亡くなって間もなく、生活は困窮した。
生活をしていくため、次に母が考えたのは、メアリーを奉公に出すことである。
メアリーは十三歳になっていた。
あるフランス婦人が若い召使いを探していると知り、母はメアリーをウィリアムとして差し向けたのだ。
「新しい使用人というのは、お前だね?」
屋敷に着くなり、ウエストの締まったきらびやかなドレスを着こなした婦人が、メアリーを出迎えた。婦人の年齢は、二十代もなかば頃だろうか。
婦人は、メアリーを舐め回すように見たあと、執事にあとのことを任せて優雅に立ち去って行った。
ものの五分と顔を合わせていなかったと思うが、この時、メアリーは婦人に対して良い印象は持たなかった。
蛇を思わせる粘着質な視線も、狐のように細い目も、つんとした態度も、そのすべてが苦手だと感じていた。
適齢期だというのにいまだ独身でいるのは、この高飛車できつい見た目と性格のせいかもしれない。
メアリーに与えられた仕事は、おもに屋敷の清掃だった。
メアリーは、その仕事を忠実にこなした。
奉公に出て十日あまりが経ったある日、突然、メアリーは婦人に呼び出された。
ためらいながらも婦人の部屋に入る。
そこは、まばゆいばかりの調度品に彩られた、落ち着きのない部屋だった。
メアリーが部屋に入るなり、婦人がその手を引き、豪華な造りのベッドへと向かう。
なんと婦人は、まだ十三歳のメアリーを誘惑しようとしたのだ。
メアリーには婦人の思惑がわからなかった。
だが、よくはわからないまでも、嫌悪感を抱いた。なぜなら、この時の婦人のしぐさや行動を見るに、母の姿が重なって見えて仕方なかったからである。
考えるよりも先に体が動いた。
熱を持った視線を向けて迫る婦人を、メアリーは力いっぱいに突き放す。そして、そのまま屋敷を出ると、全速力で母のもとへと逃げ帰ったのだった。
それから、母とメアリーは細々と暮らしていた。しかし、生まれもった大胆かつ逞しい性格のためか、メアリーは十四歳の時に軍艦に乗務する。その後、退艦するとフランダースへ行き、志願兵として歩兵連隊に加わった。
メアリーは、あらゆる戦闘で勇敢に戦った。しかし、正規兵にはなれなかった。
それは、なにもメアリーが女だという理由からではない。むしろ、メアリーが女であることに気づく者は一人もいなかっただろう。ただ、この当時、正規兵の地位とは売買されるものであったのだ。
メアリーは、そんな歩兵連隊に籍を置き続けることに嫌気がさし、辞めた。その後、騎兵連隊へと移ったメアリーだったが、そこで、ある運命的な出会いが彼女を待ち受けていたのである。