第3章 恋から友情へ
「なあ、ウィル。話があるんだ」
ウィリアム・リードが海賊船に乗るようになってからひと月が過ぎたある日のこと、ボンにそう声をかけられた。
「なんだい?」
「あ……うん、あのさ……」
普段のボンからは考えられないような煮え切らない様子に、ウィリアムは怪訝な表情を浮かべた。
「なんだよ?」
ウィリアムは、何事もはっきりとしないことが好きではない。少しばかり苛立ちながら尋ねると、その雰囲気を感じ取ったのか、
「ウィル、ちょっと来てくれ!」
先刻とは打って変わりはっきりと言い放つと、ボンはその勢いのままに、ウィリアムの手をつかむやいなや駆け出したのだった。
ウィリアムが連れて来られたのは、ある船室の一室だ。ベッドやハンモックがかけられている。船員たちの寝室である。
そのベッドのひとつに、唐突にも押し倒されたウィリアムは、目を瞬かせて自分の上に跨がるボンを見据えた。
「ウィル、あんたが好きだ!」
次の瞬間、降ってきた言葉に、ウィリアムは完全に言葉を失った。ただ唖然としていると、
「ウィル」
熱を帯びた声が耳元で聞こえる。気がつくと、ボンの唇が首筋に触れようとしていた。
それに気づいたウィリアムは、咄嗟に身を捩り、ボンを思い切り突き放す。
「ぐっ……」
短い悲鳴を上げたボンは、背後の柱に背を打ち付け、俄に蹲った。
「……悪いが、俺にその趣味はない」
努めて冷静に言うウィリアムを前に、ボンは打った背を押さえながら笑う。
「ああ、そうか。……この姿じゃあ、断られるのも仕方ないか」
そう呟くと、ボンは再びウィリアムにつめ寄ったのだ。今度こそ焦ったウィリアムが、
「だから、俺にそんな趣味はないと……」
と言いながら、またもボンを押し返そうとしたところで、
「ウィル、これを見て」
ボンにそう言われて動きを止めた。そして、次の瞬間、押し倒されたこと以上の衝撃がウィリアムを襲う。
ボンは、なんの躊躇いもなく胸を開けさせた。それを目の当たりにしたウィリアムは絶句し、まじまじとそれを見遣る。
「ね? これなら、なんの問題もないでしょ?」
こともなげに言うボンの胸元には、確かな膨らみがあった。
驚きに動きを止めたウィリアムに、ボンは再び迫る。そこでウィリアムは、先程よりは優しく、しかしながらきっぱりと拒絶の意思を示すようにボンを押し退けたのである。
「やっぱり、君を受け入れることはできない」
それを聞くと、ボンは大きな瞳をさらに見開いた。
端正な顔立ちのボンのことだ。もしかしたら、これまでに振られた経験などはなかったのかもしれない。今は男の格好をしてはいるが、薄く化粧でもして少しばかり着飾ったなら、きっとすれ違う誰もが振り向くほどの美女となれるだろう。その素質を持っているのは確かだ。
しかし、それでも、ウィリアムにはボンを受け入れられない理由があった。
ウィリアムは、押し倒された身を起こすと、今度は反対にボンへとつめ寄る。そして、ボンの目の前に、自らの胸をさらけ出したのだ。
俄に声を呑むボン。ウィリアムが告げた。
「僕も、女なんだ」
ボンは、呆気にとられたように口を開けたまま固まっていた。その後、酷くがっかりしたように肩を落としていたが、しばらくすると、その肩を震わせて笑い出したのだ。
「まさか、私と同じ考えのヤツがいるなんてね!」
声を上げて笑い続けるボンを見て、ウィリアムも笑いが込み上げてくる。
「本当だね。僕も驚いているよ」
ひとしきり笑ったあとで、
「名前は?」
ボンがそう尋ねた。
「私は、アン・ボニー」
ボンが改めて名乗る。ウィリアムもそれに続いた。
「僕は、メアリー。メアリー・リード」
「メアリー!」
ボンこと、アンが声を張り上げる。驚いていると、
「私の母様と同じ名前ね」
そう言ってまたも笑うので、メアリーもつられて笑った。
「ねえ。メアリーは、何で男の格好をしているの?」
目を輝かせて尋ねるアンに、開けた胸元を正しつつメアリーは答える。
「別に……敢えて男の格好をしているわけじゃないよ。僕は、もともとこうなんだ」
「どういうこと?」
「事情があってね。男として育てられたんだよ」
「事情?」
「うん」
「ふうん」
「ボン……じゃない。アンこそ、どうして男のふりまでして海賊船に乗っているんだい?」
「惚れた男と一緒にいるためよ」
「惚れた男? まさか、それがこの船に?」
アンはうなずいた。
「それにしても、何だって海賊船なんだ」
「メアリーは海賊が嫌いなの?」
「嫌いだよ。それに、女の身で、いつまでも海賊たちを騙し通せるわけがない。海賊船なんか降りて、その男と別な地で暮らした方がいいんじゃないのか?」
「それは、陸で暮らせということ?」
「ああ。でも、海の上でしか暮らせないというなら、交易商船や漁船でもいい。惚れた男と一緒にいたいというだけなら、他にも道はあるだろう。よりにもよって、海賊船なんかに……」
「……」
「もしかして、その人も僕と同じように海賊になることを強要されているのかい?」
「ううん。そういうわけじゃないの」
「なら……」
「メアリーは、この船が嫌いなのかしら?」
「……僕は、海賊になることを望んではいない。機会があれば、いつでも降りるつもりだよ」
「そう……」
「でも……この船はいい船だと思う。ラカム船長も、とても海賊船の船長とは思えない」
「ふふ。甘い、のよね」
「みんな慕っているように見える。いい船長だ」
「ええ。ジョンとの日々はいつでも刺激的でね。だから、別れられないのよ」
そこまで聞き、メアリーは唐突に理解した。
「まさか、アンの惚れた男って、ラカム船長か……?」
アンがはにかむように笑う。
「ね? だから、私はこの船を降りることができないの」
「そうか。それなら……確かに、そういう道を選ぶこともあるのかもしれない」
「あ~あ、メアリーが男じゃなかったのは残念だったわ」
「そうだ、アン。君は、何だって僕に声をかけたんだい。君には船長がいるんだろう?」
「ジョンのことは好きよ。でも、ウィルのことも本当に好きだったんだもの」
「まさか、他にもそういうことをしているのかい」
「ないわ。今はね」
「……」
「本当よ。ウィル……いえ、メアリーに断られた今は、私にはジョンだけよ」
「もう、そういうのはやめた方がいい。ラカム船長を悲しませることになる」
「そうかしら?」
「そうだよ」
「でも、ジョンとだって、もともとは不倫だったのよ? ジョンは、私の浮気癖を誰よりも知っているもの」
そう言って笑うアンを前に、メアリーはそっと溜め息を漏らした。
「でも、メアリーが女で良かったわ」
アンが告げる。
「ウィルが男じゃなかったのはショックだったけれど、メアリーが女とわかったことは、とても嬉しいわね」
「なんだい、それは」
「私、男は好きだけれど、男と親友ってわけにはいかないでしょう?」
「うん、まあ……」
「だから、メアリーが女で良かったって心から思うわ」
「そうか」
「メアリー。私たち、これから親友になれるかしら?」
「……たぶん、ね。アンとなら、なれるんじゃないかな」
アンの恋心からはじまった想いは、互いの真の姿を知ることで友情へとその姿を変えた。
そして、メアリー・リードとアン・ボニーの数奇な物語は、ここからはじまるのである。
恋から友情へ……。
彼女たちの物語は、ここからはじまっていく。