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小夜千鳥

作者: 鰭


夕方、各妓楼の若い衆に混じり 井戸で水を汲んでいると甲高い悲鳴が聞こえた。


これは小夜の声だ、また稽古が嫌になったのか泣いているのだろうと思っていると、丁度遠くから走ってくる少女が見える。



濡羽色(ぬればいろ)の髪を揺らして駆けてくる彼女を見て、上がる口角を抑えきれない。

けれど気づいていない振りをして、汲み揚げた水の入った桶を 井戸の縁に置いた。不自然でないようにできるだけ下を向いて。


周りの男達も またか と呆れる。しかし美しい娘から 決して目を離すことはできないのだ。






胸が高鳴って喜色が頰に滲む。やはり 耐えきれなくて、下がる長い前髪の隙間から 彼女を垣間見た。




可哀想に。意地悪な姉さんに叩かれでもしたのだろうか。



今朝方 綺麗に()いた髪は、火照った頬に貼り付き乱れている。懸命に走るものだから、着物からほっそりとした白い脚が 見え隠れして。


美しい夜空のような瞳から、ぽろぽろと涙が溢れる。真っ赤に目を腫らして。喘ぐように口を開いて。



「ちどり…っ。」



己に飛び込んで来るのだ。愛しい愛しい私の妹。

汲んであった桶を後目に 彼はそっと小さな頭を撫でた。



「あぁ どうかしたの小夜。」



豊かな髪と華奢な身体を包むように腕を回して、可愛らしい娘を自分の胸に抱く。

暖かな呼気が彼女から届いて 薄い布越しに涙が肌を濡らした。愛しい愛しい。なんて可憐な少女。



嬉しくて上がる口角を隠すように、彼女の顔を自らの肩に(うず)めさせ 薄い背中を撫でる。椿油の香りが立ち、それを吸い込むように深く呼吸をした。




トクトクと速い鼓動が聞こえる。震える喉を懸命に抑えようと、必死に息をして。



泣きながら、口を開くのに都合が良いよう小さく身動(みじろ)ぎをした後 彼女はくぐもった声を出した。



「ちどり…っ、ちどり…っ嫌なの。もうやりたくない。やりたくなっ…い。何度やっ…たってっできないものっ。ほんとにっ、ちっともできないの…っ。」



嗚咽混じりにそう言って、男の脇から肩へ縋るように絡めた腕を一層 堅くする。



「何ができないっていうの。またあやめ姉さんを怒らしたんだろう…。朝は、踊りをやるんだって嬉しそうにしてたぢゃあないか。」



少し意地悪く、揶揄うように囁いた。桜色の可愛い小さな耳を齧るように唇を近づけて、熱くなる自分の吐息が 彼女に届くように。柔らかなそれに あわよくば触れたら。


「だって、きょうはっ…できる気が…っしたんだもの。どうしてっそんなけちなこというのっ。ちどり…っ。」



勢い良く顔を上げてこちらを()め付ける瞳が、潤んで、煌めいている。切れ長な目から伸びる濡れた長い睫毛が震えていて愛らしい。


その陰になった 雪のような肌に、吸い付きたくなるくらい 真赤で小さな唇。まるでさくらんぼうのように ぷっくりとして、すぐにでも食べて仕舞いたい。すっと通った鼻の先も ほんのり桃色になっているから、ちうと吸って仕舞えばもっと綺麗な紅に染まろうか。



ああでもやはり その目が奇麗だ。黒目勝ちで潤んでいて、よくよく己の姿が映る。可愛い可愛い小夜の目。




きっと、こちらが笑んでいることに気づいたのだろう少女は、(むく)れて 柳眉を逆立てた。



「ねぇっ。さよがいってるのはっ、真剣なのよ。ほんとに困ってるんだもの…。あやめねぇさんは、さよが悪いっていうの。日毎にれんしゅうしてるんだから、もうちっとくらい上手くなっても良いもんだってっ。さよの態度がなってないんだって…っ、散々にぶつの、ねぇ…。ちどり…。」


ひどいひどいと喚くのは何時もの事だ。しかし今日は常より哀れに見えたのか 周りの若い衆も口を開こうとするのが見えて咄嗟に大きな声が出る。



「わかったっ。小夜わかったから一緒に付いてってあやめ姉さんにお願いしてやる。お前が真剣だってのはきちっとわかってるよ。誰よりわかってんだ。だから、さぁ帰ろう。」



そう言って、成る丈ゆっくり背中をひと撫でしてから さっと体を離し細い腕を取る。

井戸の縁に置いてあった桶を 素早く持って腹に押しつけるように抱えると、揺れた水が跳ねて少し着物を濡らした。


涙を拭いながら引きずられるように彼女が付いてくるのを横目に、周りに会釈しながら足早に歩く。




「ほんとに、ほんにわかったの…。ほんに…。」


「あぁ、本当だよ。姉さんには、ちゃあんと言ってやる。でも、小夜もしっかりやんなくちゃ駄目だ。姉さんは自分の時間を割いて、お前に稽古つけてくださってんだから。」



「うん…わかった。ちどり。でもねっ、さよは今でも いっしょけんめいにやってるの。無精しているわけぢゃあないの。」


「ああ わかってっともっ。手前(てめぇ)の可愛い妹がこんなに泣きながら訴えてんだ。お前が一所懸命なのは十二分にわかってるよ。」





大方、美しい小夜が厚遇なのを妬んでいるんだろうが、姉さんらの(しご)きは 殊更厳しい。


最近は、出雲の(それがし)が舞ったという踊りを 皆でやろうとしているらしいが、覚えが悪い小夜は、ちっともできない。



目を疑う程 美しいこの少女は、その代償か、もう数えで十四にもなるというのに 幼児のように振る舞うのだ。きっと、頭のつくりが良くない。


遊女言葉だって 全くと言っていい程喋れないし、書も歌も頭を使うようなのは あまり良くない。変わって お茶や、芸事の方は幾分かましだが それでも楼では中の上。





だが その麗しさ。





将来は太夫になろうと期待されるほど 愛らしいその容姿。

高位になるに必要な物事を、楼主が手ずから授ける少女は それだけで妬み嫉みの対象になる。


その上 虐めたら兄に泣きついて、憐れっぽく訴えて。


血縁から離れて来た遊女達には、まるでそれが甘えのように映るのだろう。

泣けば泣くほど 当たりが強くなっていくのがわからない この娘は、いつもいつも 飛び込んでくるのだ。




愛い愛い、小夜は。




兄が何とかしてくれると思っているのだ。



あぁ なんだってしてやる。


お前の為なら、この命だって惜しくないんだよ。


「小夜。」





私の腕に抱かれて憐れに泣く、愛する娘。




小さく呟いた名は、微かに忍び寄る夜の風にふわりと酔って。

喉の奥には苦味だけが残る。






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