第2話 帰郷
午後の授業開始の鐘が鳴り、誰も居なくなった廊下には私の足音だけが響いている。私は寮の自室に向かいながら先ほど起こった出来事のことを考えていた。
私は婚約者であるバレイル様から突然呼び出された。中庭で待っていたバレイル様の表情と雰囲気からあまり良い話ではないのだろうとすぐに分かった。しかし婚約破棄を言い渡されると考えもしなかった。それもまさか陛下の許しも得ずに……。
エルドラン王国の第三王子であるバレイル様と婚約したのは学園に入る前、私が十歳になったばかりの頃だった。
ある日突然、国王陛下の遣いがやってきたのだ。王族が何を考えていたのかは分からなかったが、あちらから婚約を申し込んできた。
バレイル殿下と顔合わせをしたのは学園に入学してからだった。そういったことは貴族の子弟にはよくある話で気にはならなかったが、バレイル殿下本人は私との縁談が不満だったようで眉をひそめていたのをはっきりと覚えている。
顔合わせをしたと言っても本当に顔を合わせて短い言葉を交わしただけ、それから学園ですれ違うことがあっても会話らしい会話をしたことはない。
そういった経緯もあって私は個人的にバレイル殿下に好意を持っていた訳ではなかった。あくまでも王族との関係を良好にするための婚姻。正直なところ婚約破棄をされたところでどうということはない。ただ、フリーデン伯爵家のことを考えるとやはり早まった決断をしたかもしれない。
「はぁ、何故このようなことになってしまったのでしょうか……」
学生寮の自室に戻った私はベッドに身体を預けると自然とため息が漏れた。
婚約破棄を受け入れると言ってしまった以上、もうどうしようもない。今から先ほどの発言を撤回すると言っても無理な話。バレイル殿下は自分が決めたことを覆すような方ではないのだから。
うだうだと考えていても仕方がないと考えた私はベッドから起き上がり荷造りを始める。学園を去るならば早い方が良いと思ったからだ。
制服や教科書など学園で使ってきた品々を一つひとつ手に取ると様々な思い出が浮かんできた。
友人はそれほど多くはなかったが学園での生活は楽しかった。貴族や平民の垣根無く様々な方の考え方に触れることが出来たのは得難い経験となった。
これで私の学園生活も終わり、こんな終わりを迎えるとは思いもしなかった。そんなことを考えていると廊下から誰かの足音が聞こえて来ました。
今は授業が始まっている時間のはず、足音はどんどん大きくなって私の部屋に近付いて来る。一体誰だろうと思いながら片付けをしていると大きな音と共に私の部屋の扉が開かれた。
驚いて振り向くと金色に輝く髪がよく似合う美しい女性の姿があった。ただ怒っているようで美しい顔を歪めている。
「ミレイさん、何があったのか聞きました。なぜ何も言い返さずにあのような申し出を受け入れられたのですか!?」
彼女はスレイド伯爵家の令嬢エレナ・フォン・スレイド。貴族の子弟から敬遠されている私の数少ない友人の一人。どうやら先程の出来事を聞いて駆けつけて来てくれたようだ。この様子では先ほどの場に居ないでくれたのは不幸中の幸いだったかもしれない。
「……ノックも無しに部屋に入るのは失礼ですよ、エレナさん」
「そんなことはいいんです! なぜあんな世間知らずの言うことを!?」
普段何事にも動じず、貴族の令嬢とはこのようにあるべきだと思わせる貴族の鏡のようなエレナさんがこんなにも感情的に話しているところを初めて見た。そんなエレナさん姿に驚いてしまい私は的外れな返事をしてしまった。私の言葉を聞いたエレナさんはムッとした様子で言葉を荒げました。
喜ぶべきなのでしょうね。私の為に怒ってくれているのですから、ですが……
「言葉が過ぎますよ、エレナさん。誰に聞かれてるか分かりません」
今回の件にエレナさんを巻き込む訳にはいかない。彼女が罵倒した相手は王位継承権を持つこの国の王子、もしもバレイル殿下を悪く言っていることが誰かの耳に入ってしまえば彼女の身に何が起こるか分からない。王位継承を持つ王族とはそれだけ恐ろしい存在だ。
周囲に人の気配はないが、盗聴用の魔道具が存在すると聞いたこともある。貴族の世界は油断することが出来ませんから。
「ですが!? ……これからどうなさるつもりですか?」
「とりあえず故郷に帰ります。これからどうするかは父上と母上と話し合って決めるつもりです」
「ミレイさん……」
「エレナさん、これまでお世話になりました。貴方が居てくれたお陰でこの学園での生活は楽しく過ごす事ができました」
これまでの感謝の意を込めて別れの言葉を伝えるとエレナさんは悲しそうな表情を浮かべた。引き留めることは叶わないと理解してくれようだ。そんな表情を見て私は思わずエレナさんを抱き締めてしまった。綺麗な顔が台無しですよ。私は大丈夫。
故郷への帰り支度を終え、学園の事務室へと向かい事務員に学園を去る旨を伝えた。突然のことに驚いていたが一身上の都合によりと詳しい話はしないでおいた。
婚約破棄されて学園からも追い出されましたと伝えるのは色々と問題があるだろう。馬車の手配をしてもらい学園の外へと続く門に向かうと、そこには学園で親しくしていた方達の姿があった。どうやらお別れの挨拶に来てくれたらしい。
「皆さん、わざわざお見送りに来ていただいてありがとうございます」
「本当に行くのかよ?」
「ええ、お世話になりました」
「ミレイくんお元気で、君のような生徒を持つことが出来て幸せでしたよ」
「先生からは沢山のことを学ばさせていただきました。出来れば……いえ、これまで本当にありがとうございました」
これまで親しくしてくれたことの感謝の意を伝える。友人たちや親交のあった先生は別れを惜しんでくれる。
名残惜しいがいつまでも彼等を引き留めるわけにはいかない。「またどこかでお会いしましょう」と告げて馬車へと乗り込む。涙は出なかった。これが最後というわけではないのだから。
◇
私の故郷であるフリーデン伯爵領はリーエル学園のある王都セルトラムより北西部、隣国であり、長年戦争を繰り返してきた宿敵であるヴェルド帝国との国境沿いにある。
精鋭揃いの帝国兵の苛烈な攻撃から長年エルドラン王国を守ってきた。幾たびも攻めて来る帝国兵に国境を越えさせた事はない。
もちろん我が一族が単独でこの国境を守ってきた訳ではないが、帝国との戦において重要な役割をこなしてきたことに間違いない。それは私の誇りでもある。
フリーデン伯爵家は一部の者たちに『エルドランの盾』と呼ばれているらしい。私としては盾と言われることについて違和感があるが、王国の盾と呼ばれるのは誉れなのだろう。
少しづつ離れていく王都を眺め、馬車に揺られながら私はこれからのことについて思案する。
バレイル様との婚約破棄に学園からの退学、私一人だけで決断してはいけなかったかもしれない。しかしバレイル様のあの様子からみて他に選択肢はなかったと改めて考えても思う。
娘がこんなことになっているとは知らずに、日々王国と領民を守るために働いているお父様とお母様にどう説明すればいいのだろうか。
学園を後にして半月あまり、幾つかの街を経由してやっと見覚えのある景色が広がってきた。何度も越えてきた小高い丘、遥か遠くに見える雄大な山々、ようやく故郷であるフリーデン伯爵領に帰って来ることが出来たようだ。
故郷の景色にほっとしますが、それでも気持ちが晴れることはない。
ぼんやりと景色を眺めている内に生まれ育った街・アラドヴァルが見えてきました。帝国との国境に近いこの街は王都に負けないほど高く頑丈な城壁に囲まれています。
「——次、申し訳ありませんが確認のため、お名前とご用件をお願いします」
考えごとをしていると門番と思われる方の声が聞こえてきた。「分かりました」と返事をして馬車の外へ出る。
「どの様な要……け……ん……ミ、ミレイ様!?」
貴族に対しての礼儀として目を伏せていた門番が視線を上げると、直ぐに私が誰か気付いたようで目を丸くして驚きの声を上げた。
「はい、お仕事お疲れ様です」
「も、申し訳ありません。失礼いたしました!」
突然門番が平謝りを始めたので謝り出したので周囲の人々が何があったのかと騒然とした。しかし私の姿を見て貴族だと気付いたようでその騒ぎは直ぐに収まった。貴族が騒ぎを起こすのは日常茶飯事、平民が関われば厄介ごとに巻き込まれるのは目に見えている。
「いいのです。先触れも出さずに急に帰って来たのですから、入ってもよろしいですか?」
「はい! どうぞお通りください!!」
思慮の浅い行動をとってしまったと後悔の念が過ぎる。報せを出していればあれほど驚かせてしまうことはなかっただろう。
街中をゆっくりと進んでいく馬車の窓からぼんやりと辺りを眺める。中央通りには多くの露店が並んでおりそこで商人たちが威勢良く声を上げている。小さな女の子が母親に何かを強請っている姿が目に入り、そのなんとも微笑ましい光景に思わず笑みが溢れてしまう。
人々の変わりない様子に安心して街の中央にあるフリーデン伯爵邸へと馬車は進んでいく。
屋敷に到着すると門を守る兵士たちは私の姿を確認することもなく直ぐに門が開いた。どうやら連絡が来ていたらしい。
「お帰りなさいませお嬢様」
屋敷に到着すると我が家の執事長が待っており馬車の扉を開いてくれた。久しぶりに会う執事長に「ありがとう」と伝えて馬車から降りて、ここまで連れて来てくれた御者さんにお礼と別れの言葉を伝える。
「「「お帰りなさいませお嬢様!」」」
執事長が屋敷の扉を開けるとそこには我が家に仕える者達が綺麗に整列しており私を出迎えてくれた。そこには満面の笑みを浮かべたお母様の姿もある。
「ミレイ元気だった? また綺麗になっちゃって! どうしたの突然? お母さんに会いたくなっちゃった?」
お母様の名前はエルザ・フォン・フリーデン。四十八歳という年齢ですが一緒にいると姉妹に見間違えられる程若々しく、美しい漆黒の髪がよく似合う垂れ目でほんわかした感じのする女性だ。
あまりに変わらないのでエルフの血が入っているのではないかという噂もあるほど、流石にそれはないと思うがお母様ならあり得そうな気もする。
「お母様、お元気そうでなによりです。お父様はおられますか?」
「執務室にいるはずよ。そうよねセバス?」
「はい、旦那様は執務室におられます。ところでお嬢様は何やら浮かない表情をされている様子。突然のご帰宅といい、何かございましたか?」
普段通りにしているつもりだったのだが私のことを生まれた時から知る執事長には分かってしまったらしい。
「確かに浮かない顔をしているわね。何かあったの?」
「……お父様と一緒に聞いて貰いたいんですがよろしいですか?」
「もちろんよ。じゃあ行きましょう」
執務室の扉をノックして許しを貰うとお母様が先に中に入った。私は大きく息をついてからその後に続く。そこには高く積み上げられた書類を前に座るお父様の姿があった。顔を上げて私を見ると昔から変わらない優しい笑みを浮かべていた。
「お父様、ご無沙汰しております。突然帰って来て申し訳ありません」
お父様の名前はレオン・フォン・フリーデン。フリーデン伯爵家の当主だ。
五十歳という年齢なのだが、若々しく金色に輝く髪と力のある鋭い目が特徴的である。
貴族でありながら武人としてのチカラはフリーデン領内で随一、領主としての手腕も評判が良く領民からの信頼も厚い。
「帰って来たことは嬉しいが、突然どうしたんだ?」
「何か話があるそうよ」
目を瞑り気持ちを落ち着かせ、覚悟を決めて何故帰ってきたのかを二人にこれまでの経緯を説明する。
静かに私の話を聞いていたお父様の表情は次第に曇り、そして信じられないようなことを聞いたという表情になった。お母様はただ黙って心配げな視線を私に向けている。
「……もう一度言ってくれるか?」
「申し訳ありません、フリーデンの名誉に傷をつけてしまって」
「いや…… それはいい、名誉なんて……それよりもバレイル殿下がなんだって?」
動揺したお父様を見たのは初めてかもしれない。申し訳ない気持ちでいっぱいになるが今更隠すことなんて出来ないためもう一度しっかりと説明する。
「お前の様な悪女との婚約は破棄すると、学園も辞めろと言われてしまいまして……退学届けを出して帰ってきてしまいました」
聞き間違いだと思ったのだろう。もう一度同じ説明をするとお父様は固まってしまった。お父様のこのような姿は見たことがない。自分が大変なことをしてしまったのだと後悔の念が湧いてくる。
「……殿下が、お前を……悪女と……婚約破棄? 学園を辞めろ?」
返事を待っているとお父様が聞こえないぐらいの小さな声で何かを呟き始めた。ただお父様は椅子に腰掛け両手を組んで下を向いているためその表情を伺い知ることは出来ない。
「……私の……娘が……悪女……婚約破棄……学園を辞めろだ……殺す……戦争だ……」
お父様は突然立ち上がると物凄い勢いで部屋から出て行った。怒られてしまうと思い身構えていた私はその場に立ち尽くしてしまった。間も無くして屋敷の外からお父様の怒鳴り声が聞こえてきた。
「——戦争だ! 準備しろ!! 王都を落とすぞ!!」
屋敷中にお父様の声が響き、慌ただしく人が動き回る音がした。そして戦争状態を意味する鐘の音が街中に鳴り響いた。
突然の出来事に私は固まってしまった。しかしその間にも事態は刻一刻と進んでいるようで慌ただしく屋敷の者達が走り回る音が聞こえくる。その音でやっと我に返った。私はすぐ隣にいるお母様にお父様を止めて欲しいと懇願した。
「大丈夫よミレイ……」
お母様の優しげな言葉に安心する。お母様が大丈夫と言うのなら問題はない。きっとお父様もすぐに落ち着きを取り戻してくれるはずだ。そう思っていたのもつかの間
「レオンならちゃんと王都を落としてくるわ」
……お母様もダメだった。
お父様を止めてくれると考えていた私は愕然としてしまいもう一度固まってしまった。しかしすぐに外から聞こえてくるお父様の声に我に返り、お母様による説得は諦めて急いでお父様の元に走る。
屋敷を出ると外では兵士達が装備を整えて並び、その前に立つお父様が何か演説をしている最中だった。
「——第三王子であるバレイルと我が娘のミレイが婚約していたのは知っていよう。だが、突然娘が帰ってきて泣きながらこう言ってきた。殿下からお前の様な悪女との婚約は破棄すると、目障りだから学園も辞めろと言われてしまったと! 私は許せない! 向こうからの婚約の申し出にも関わらず一方的に破棄し我が娘を侮辱した! 王都を落とすぞ!」
「「「ゔおぉぉぉおぉぉぉおぉぉぉ!」」」
話を少し盛ったお父様の話を聞いた兵士の皆さんが怒りを露わにしている。お父様や兵士の皆さんの身体から闘気や魔力が漏れ出しその一帯の空間が揺らいで見える。
その異様な気配を感じたのか、まるで天変地異の前触れのように辺りの鳥は一斉に飛び立ち、馬は落ち着きを無くし、犬や猫がしきりに鳴く声が至るところから聞こえてくる。
「……何、これ?」
お読みいただきありがとうございますm(_ _)m