3話『現実』
――二〇二五年五月一八日/東京都豊島区西池袋@自宅マンション(神場涼)・昼――
軽い浮遊感を覚えると同時に現実に戻る。
毎度毎度のことだが、この感覚には慣れない。エレベーターが動く時と似ており、体調がすこぶる悪ければ嘔吐感すら覚えるほどなのだ。
「ふぅ……」
VRゲームログイン用のヘッドギアを外して、一つ小さなため息をついた。
……戻ってきたな。現実に……。
目の前では、パソコンのディスプレイが淡い光を放っている。俺は特に目的も持たずに、回転式の椅子に体を預けてボーっ画面を見つめた。
デスクトップのアイコンは、ゴミ箱やブラウザを除けば『トワイライト・ユニバース』だけだ。
以前、画面を見たヤツから『うっわ、寂しすぎるだろ! エロゲーのアイコン置こうぜ、エロゲッ』とバカにされたが、俺にとってこの二つさえあれば十分なのだ。
……正直、エロゲーにも今は興味が湧かない。
「エロゲーってあれだろ、ポチゲーだろ?」
うん。やっぱり大して興味を引かれない。
そんな他愛もないことを考えている間に、ある程度気力が戻ったので、これもまた意味もなく周囲に視線を走らせた。
俺には勿体無い、池袋の一DKマンション――その居間が現在地になる。
八畳ほどの一人暮らしには満足な部屋の最奥にワークデスクが置かれており、ワークデスクの上にはデスクトップ型のパソコンが置かれている。
デスクの下に視線を配れば、フローリングの床に布団が敷かれており、ワークデスク周りだけで生活が出来るような構造がされていた。
テレビやら冷蔵庫といった家具は一切置いていない。強いて言えば、最初から備え付けてあったエアコンはあるな?
布団の周りにはパンパンに詰まったゴミ袋と、入り切らなかったゴミが散乱。
と、こんな感じで、お世辞にも綺麗とは言えないが、生活には困らないので気にしていなかった。
「うげ……だりぃ」
背後を向いたせいで、窓から差し込む光を目に受けてしまう。
ほんの少し気分が落ち込んだので、パソコンの画面に視線を戻す。
……すると、ある変化に気づいた。
「メールか?」
開いていた(というより、パソコン起動時に自動で開く)メーラーが、新着メールを告げる点滅を繰り返している。
今まで迷惑メールが来た試しがないので、誰かが俺に意図的に送ったメールだろう。
不思議と興味が惹かれた俺は、警戒なしに確認する。
「……これって」
From『tachikawa@kisa_games.co.jp』
件名『デバッガースカウトの件につきまして』
――「タチカワ」と見て最初に思い浮かべるのは、さっきの胡散臭いオッサンだった。
……しかし、どうしてだろう。
あんなに胡散臭い人からのメールなのに、俺の指は無意識のうちに本文を開いていた。
『神場涼さま
お世話になっております。株式会社如月ゲームスの立川エイジです。
失礼を承知で、弊社にご登録いただいたEメールアドレスよりご連絡しています。
さっそく本題になりますが、先ほどお話させていただいたとおり、神場涼さまを「トワイライト・ユニバース」のデバッガーとして弊社にお招きしたいと考えております。
つきましては、神場さまがご了承いただけるならば、一度デバッガーをご体験する機会を設けます。
ご希望の日時がございましたら、ご連絡をいただけますでしょうか。
ご不明な点等ございましたら、お気軽にご連絡ください。
神場さまのご連絡、心よりお待ちしております。
また、誠に勝手ながらこちらの内容は、決して口外しないようお願い致します。』
一通りの内容に目を通した俺は、目を丸くしていた。
「あれマジだったのかよ」
確かにこのメールアドレスを使ったのは、ユーザー登録時に使った如月ゲームスだけだ。
……本当に俺をスカウトするつもりなのか。
でも、なぜ俺なんだ? トッププレイヤーと呼ばれる有名ユーザーはたくさんいる。
むしろ俺なんて、面倒という理由でずっと名前を隠していたから無名な部類だ。
考えても分かるわけがない。
口外しないように言われている以上、該当しそうなヤツに聞いて回るわけにもいかないしな。
――ともあれ、ここで重要なのは
「デバッガーか……興味ねぇな」
俺がデバッガーに興味がない&そもそも働く気がないことだな。
少し驚きはしたが、冷静に考えて熱が冷めた俺はメーラーを閉じる。
そんな時、偶然……俺の目に入ったのは、一枚のA4の紙だった。
タイトルは『警告状』。送り主はマンションの大家だ。
内容を要約すると『来月までに家賃滞納分を支払わなければ、強制退去させる』というものだ。
しかし俺に、家賃滞納分を支払える経済力はない。
俺――神場涼は、高校を先月に卒業してから無職だ。
無職。言い方を変えればニィトってやつ。
親には働いてるって言ってるから、当然ながら仕送りなんてない。
収入源はなく貯金を切り崩して生活をしていたが、それももう底をついている。
本来ならデバッガーのお誘い――それも安泰の大企業だ――は、渡りに船……まさに天から差し伸べられた手だ。
「…………まあ。退去させられたら、その時はその時か」
しかし……俺は、天からの手を叩き落として、現状のままでいる選択をした。
単純問題、今の俺に働くだけの気力がないのだ。
受けて行ったら、結局は使えないと言われてすぐに切られるだけ。自尊心が大きく傷つけられて、少額の金をもらうくらいなら、働かないほうがマシだと思う。
そんなこんなで、俺の中でデバッガーの件は無視で終わった。
だいぶ休憩も出来たので、もう一度トワイライト・ユニバースに戻ろうと――した、次の瞬間。
~♪ ~♪(トワイライト・ユニバースの主題歌)
スマホが振動、メール着信音を鳴らした。
行動を妨げられたことに対する恨みを、たっぷり注いだ視線をスマホに向ける。
普段はソシャゲ専用機になっているくせに、久しぶりに携帯の機能を果たしやがった。
「ったく。なんたって今日はこんなにメールが多いんだよ。誰だ?」
悪態づきながらも、スマホのメーラーをチェックする。
送信主は――神場みやの。俺の妹だった。
「み、みやの?」
みやのからの連絡は、電話・メール併せて一年に一通来るか来ないか……それほどの低頻度だ。
何かあったのだろうか?
慌ててその内容をチェックする。
From『みやの』
件名『いかがお過ごしですか』
『兄さんへ。ご無沙汰しております。いかがお過ごしですか?
高校を卒業して丸ひと月がたちましたね。兄さんは就職をしたと聞きます。働き始めて最初の数ヶ月は、とっても大変だとお父さんとお母さんが言っていました。
メールで励ましてあげなさいと言われましたが……すみません。実はなんと言えばいいか分からなくて迷っています。
ともあれ、体調を崩さないようにお気をつけください。五月で温かいと言っても、夏風邪という言葉もありますので油断は禁物です。
そうです。兄さんの働いている姿、写真でもいいので送ってくれると、お父さんとお母さん……私も嬉しいです。
楽しみにしています。
これは私ごとですが、来年、兄さんの母校である朔望学園を受験しようと思います。
とても難関の学園ですが、頑張るので……合格した暁には、会ってくれますか?』
「みやのおおおおおおおおおおおおおおおッッッ。おまえに合わす顔がないよおおおおおおおおおお!!」
読み終わった俺は、気づいたら叫び声を上げて、ワークデスクに頭を打ち付けていた。
メールが苦手なみやののことだ、本文にあるとおり、迷って迷って何度も書き直したメールなのだろう。
それでも出してくれた。
両親に言われたから、というがおそらくは自主的に書いてくれたのだ。みやのは照れ隠しをする時、他人を引き合いに出すクセがあるんだよな。
俺を案じてくれている気持ちは、少し長めの文章に乗ってひしひしと伝わって来る。
痛い、デコがいてえよ……! でも、みやのを裏切っている心の方がいてえよおおおおおお……。
とりあえず
『久しぶり! 心配してくれてありがとな。仕事も生活もバリバリ元気にやってるよ。父さんと母さんにもよろしく言っておいてくれ。あと合格しなくても、いつでも会いに来てくれていいんだからな?』
と返信した。瞬時に送信の効果音が鳴って、送信済みボックスに一件数字が増える。
「仕事もバリバリ」のくだりで嘘ついた。
嘘を重ねてしまったよ俺。
懺悔したくなるな、おい。ニィトでごめんなさい。
「……………………」
俺の視線は、デスクトップに表示された立川エイジのメールに釘付けになる。
――生活費がなくとも。
――マンションを立ち退くことになっても。
それは別にどうとでもなる。多分。
――――それでも、妹だけは裏切りたくない。もう裏切ってるけど。
失望する顔だけは見たくないのだ。
「みやののために……やる、しかないのか」
もし、俺が就職する道が残されているのだとしたら……これ、トワイライト・ユニバースのデバッガーだけだ。
しかしデバッガーか。
「デバッガーって言われてもピンと来ないよな」
正直なところ、ゲームやって漠然とバグを見つける仕事、くらいしか分からない。
ネットで検索してみれば、先輩デバッガーさまが『体力・忍耐力・集中力を求められる』と、腕を組んでドヤ顔で語っていた。
でも、ゲームやる仕事ってどうなんだ?
そんなウマい話があったらみんな飛びついているだろう。
「実情はどうなっているんだろうな?」
そういや、俺のゲームスキルが必要って言っていた。調べる中でデバッガーに優遇される人材として、ゲームスキルが高い人とも記載されている。
つまりはそういうことだろうか。
……そんな中、メール内容に気になる文章を見つけた。
『神場さまがご了承いただけるならば、一度デバッガーをご体験する機会を設けます。ご希望の日時がございましたら、ご連絡をいただけますでしょうか。』
「これって……」
デバッガーを体験する機会。体験入社。
「そういや、火曜限定モンスターはもう狩らなくていいんだよな」
明後日だけは予定が空いている。
「……まぁ、一考の価値はあるかも知れないな」
様々な偶然と要素が重なった。これは運命なのかも知れない。
ひとりでに、そんなことを考えるのだった。