【競演】この世であなたと
「今日も仕事で遅いのかな」
私は待ち合わせ場所である公園の入口で、ひとりため息をついた。
バッグから携帯を取り出し、時刻を確認すると、約束の18時はとうに過ぎていた。
真夏のこの時間はまだ明るく、蒸しついた暑さが全身にまとわりつくようだ。
「今日はどうしても会って伝えたいのに……」
そうつぶやいて蹴り付けたアスファルトに、ぽつぽつと黒い染みがいくつか浮かびあがる。
それと同時に、周囲の景色が幕が引かれたように一気に暗くなり始めた。
「やだ。もしかして夕立?」
素早く周囲を見回し、雨宿りができそうな場所を探す。
すると、通りの向かい側に、色あせた青いテントが見えた。
店を閉じて久しいのか、錆びたシャッターが降ろされた古い書店の軒先だ。
狭い通りを横切り、私がそこに駆け込んだ直後、ザアッという音と共に激しい雨が地面を叩きつけ始めた。
「助かった」
ほっと息を付いて、テント越しに雨雲の広がる空をそっと見上げる。
降り出したばかりの矢のような雨は、しばらく勢いを緩める様子はない。
「翔太、きっと傘持ってないよね」
少し心配になって、彼が来るであろう方向に目を向けると、雨垂れの向こうに、ぼんやりと黒い人影が見えた。
「翔太?」
その背恰好に見慣れたものを感じた私は、人影に向かって声を掛けた。
厚い雲に太陽は覆われ、雨のフィルターが掛かった視界は朧げ。
それでも目をこらしてみれば、その人が黒っぽいスーツを身に着けた男性であることは見てとれた。
「翔太なんでしょ? 早くここに入って。濡れちゃうから」
はっきり顔が見えなくても、私にはその男が翔太であるとの確信があった。
でも、しばらく経っても反応がないため、人違いを疑い始めた私は、気まずさを感じてその人影に背を向けた。
「お待たせ!」
体を反転させた私の前に、突然、ダークグレーのスーツを着た細身の男が笑顔で現れた。
「翔太?」
軽くパーマのかかった長めの前髪。
子犬のようにくりくりとした目をしたこの男は、紛れも無く恋人の翔太だ。
私は思わずもう一度背後を振り返り、雨の中の人影に目をやった。
けれど、そこにはもう、先ほどの男の姿はなかった。
「どうかした?」
首を傾げる私に、翔太は丸い目を一層丸くして訊ねてきた。
「ううん。翔太いつからここに?」
「え? ああ、たった今。急に降り出して参ったよ」
そう言って翔太は肩に掛かった雨粒を手の甲で払った。
多少雨に濡れてはいたけれど、彼はさっきの人影ほどずぶ濡れではなかった。
「やっぱり、人違いだったんだ……」
「え? なになに?」
翔太は、いたずらっこが追求するような目で私の顔を見つめた。
「なんでもない!」
他人と見間違えたことが恥ずかしくて、私は少し強い口調でそう言い、彼に再び背を向けた。
大学の2年後輩だった翔太とは、今年で7年目の付き合いだ。
甘いマスクでいつも笑顔を絶やさない彼は、入学当初から女子のアイドル的存在で、どちらかというと地味な私とは縁のない人だと思っていた。
とはいえ、私も彼の笑顔には密かに魅了されていて、たまに学内で姿を見かけると、胸をときめかせていたのだ。
そんなある日、嫌々友人に連れて行かれた飲み会の席に偶然彼がいた。
彼も私と同様、悪友に無理矢理誘われたらしく、馴れないお酒を飲まされ、青い顔をして居酒屋の片隅で横になっていた。
それを見かねた私が介抱したことから、私たちの距離は一気に縮まったのだ。
付き合ってみると、翔太は見かけに寄らず堅実的な性格で、私のこともとても大切にしてくれた。
「一人前になったら、正式に結婚を申し込むから、それまで待ってて」
2年先に就職した私に、まだ学生だった彼はそう言ってくれた。
そして2年後、大手企業に就職した彼は、早い時期から能力を発揮し、入社3年目にして、大きなプロジェクトのチームリーダーに抜擢されるまでになったのだ。
彼より年上の私は今年27になり、まわりで結婚する友人たちも増えてきて、焦らないと言えば嘘になる。
でも今、仕事にやりがいを感じている彼に負担をかけたくない。
最近の私の心は、そんな相反する気持ちに揺れていた。
けれど今日の私は、ある事実を告げて、そんな気持ちに決着を付ける覚悟でいた。
「あれ?摩耶、なんか背縮んでない?」
ふと、翔太はそう言って、私の頭上に手の平をかざした。
「ああ、今日ヒール低いから」
もしかして気付くかな? と、私は期待を込めた目で彼を見上げた。
けれど案の定、彼は屈託なく笑いながら言った。
「そっか、摩耶、いつもハイヒールだもんね。たまにはペタ靴もいいか。俺の背が伸びたみたいな気がするし」
はぁ〜あ。
仕事はできても、私のヒールの低い理由に気付いてくれるほど彼は敏感じゃない。
わかってはいたけど、ここはやはり正当法でいくしかなさそうだ。
「……ねえ、翔太……」
勇気を振り絞り、再び私が話しかけようとした瞬間、彼の目線は太陽が顔を出し始めた空に向かっていた。
「あ、雨あがった! ちょっと早いけど先にメシ食いに行こうよ。俺、昼間会議続きでパンしか食ってないんだ。腹減っちゃって」
「あ〜! もう、ばかばかばか!」
私は自宅のベッドに仰向けに寝転がり、踵でばたばたと布団を蹴った。
「なんで言えなかったのよ〜!」
ひとしきり暴れた私は、両手足をぱたりと布団の上に落とし、しばらく呆然と白い天井を見つめた。
そっと両手の平を下腹にあててみる。
そして、そこで育ち始めたものをいたわるように、優しく撫でてみた。
今日、私はこの事実を翔太に伝えるつもりだった。
でも、目を輝かせながら、プロジェクトへの意気込みについて語る彼に、どうしても言い出せなかったのだ。
きっとこのことを知ったら、翔太は一緒になろうと言ってくれるだろう。
でも、今は彼にとって初めての、大きな仕事に集中させてあげたい。
そう思うと、結局この事実を伝えることができなかったのだ。
「ごめんね。情けないママで」
私はそう言ってため息をつき、静かに瞼を閉じた。
明日の土曜日も、彼とは会う約束をしていた。
「明日こそちゃんと言うからね」
そう語りかけながら、いつしか私は眠りについていた。
私は豪雨が地面を叩き付ける中を、必死に何かから走って逃げていた。
振り返ると、夕方見たスーツ姿の男が音もなく追ってくるのが見えた。
足がもつれ、転びそうになりながらも、私は男と少しでも距離を離そうと懸命に走り続けた。
次の瞬間、ぬかるみに足を取られ、私は前のめりに倒れた。
身を起こした私の目の前に、もうその男はいた。
『……一緒に……行こう……』
地獄の底から沸き上がるような低く恐ろしい声で男はそう言い、私の首に手を伸ばしてきた。
振り払おうとする私の手をすり抜け、男の両手が首に絡み付く。
「い……いやだ。助けて……翔太……」
ギリギリと力を込めてくる男の手首を掴み、私は必死に引き離そうと試みた。
けれど、そんな抵抗は意味を成さず、男は増々強い力で私の首を締め上げていく。
『お前さえ……この世にいなければ……』
薄れる意識の中、男の顔を見ると、長い前髪の向こうに、力なく光る瞳があった。
その顔は血だらけで、ワイシャツの襟元も真っ赤に染まっていた。
血で汚れていても、間近で見たその顔は、やはり翔太に似ているように思えた。
「いやー!」
「摩耶!」
私が恐怖に声をあげた瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。
「翔太!」
息を切らせて現れたスーツ姿の翔太は、そのまま男に体当たりした。
勢いで数メートル飛ばされた男は、地面を横滑りし、うつぶせに倒れた。
私が翔太にしがみ付くと、彼は包み込むように強く抱きしめてくれた。
震えながら、彼の腕の中から様子をうかがうと、男が左右に体を揺らし、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。
雫の垂れる前髪に隠され、男の顔は相変わらず口元しか見えない。
目線を下げると、男のスラックスの右側だけがひらひらと風になびいていた。
「足が……ない……?」
思わず私は、背中に冷たいものを感じて身を震わせた。
そんな私に背を向けて立つ翔太が、絞り出すような声で男に向かって言った。
「頼む、もう少し時間をくれ」
その瞬間、耳元で朝を告げる電子音が鳴り響いた。
「それにしても嫌な夢だった〜!」
私がカフェの丸テーブルに突っ伏してそう嘆くと、頬杖をついた翔太はクスクスと笑った。
「絶対、昨日夕立の中で変な人を見たからだわ」
昨日に引き続き待ち合わせをした私たちは、ランチのあと、このカフェに立ち寄った。
そこで私は、昨日の怖い夢の話を彼にしたのだ。
「夢の中でも、ピンチに現れた俺に惚れ直したでしょ?」
テーブルの向かい側に座った彼はそう言って、私の頬にふわりと手のひらを添えた。
すると、さっきまで私の心を占拠していた恐怖が嘘のように消え去った。
これまでもこの笑顔に、どれだけ励まされてきたことか。
一瞬、彼に見とれている自分に気付き、私は照れ隠しに話題を別の方向に振った。
「ところで、なんでスーツ? 今日もこの後仕事に行くの?」
「あ? ああ、ちょっとね」
「忙しいのはわかるけど、そのスーツもネクタイも昨日と同じでしょ? 女子はこういうのチェック厳しいんだから気をつけなきゃ」
「そういうもんなの?」
「そうよ。お泊りだったんじゃないかって噂になっても知らないから」
ふーんと言いながら、自分のネクタイを手元でもて遊ぶ彼の姿を見て、私は心の中で「噂になってもいいんだけどね」とつぶやいた。
人当たりが良く、仕事もできる彼は、きっと会社でもモテてるはずだ。
できればそんな噂が広まって、悪い虫がつかなければいい。
こんなこと考えてしまう私は、独占欲が強いのかな。
カフェから出た私たちは、昨日待ち合わせをした公園へと向かった。
あの公園にある池の端のベンチは、木々の間を抜ける風が心地良く、私たちのお気に入りの場所だった。
昨日見かけた男がまたいるのではないかと、私は翔太の背中に隠れるようにして、公園の入口に面した通りをこわごわ見渡した。
でも、そこには公園帰りの親子連れや買い物袋を下げた主婦が歩いているだけで、それらしき人物は見当たらなかった。
ほっと息をついて、私は翔太の腕に自分の腕を絡めた。
そして、その整った横顔を改めて見つめた。
そう、今日こそはちゃんと伝えるんだ。
私は覚悟を決めて、ごくりと唾をのんだ。
「ねえ、翔太。大切な話があるの」
「え? なに? 改まって」
翔太は、いつになく真剣な私の様子に、少し驚いたような顔を見せた。
「実は私ね……」
その時突然、雷鳴が私の言葉に重なった。
「やばい! また夕立がくる!」
翔太はそう言って私の肩を庇うように抱き、昨日雨宿りした書店の軒先に向かって走り出した。
突然降り出した土砂降りの雨の中、私たちはテントの下へ駆け込んだ。
「すげー雨。ヤケクソかよ」
翔太の言葉に、私は思わず吹き出した。
顔を見合わせた翔太もつられて笑った。
そんな私たちの笑い声を、テントを叩き付ける雨音がかき消した。
しばらくして笑いがおさまると、私はバッグからハンカチを取り出し、彼の濡れた前髪の水滴をすくった。
「ありがと」
ハンカチを持つ私の手首を軽く掴み、彼はそう言ってそっとキスをしてくれた。
愛しさが胸を覆い尽くし、私は思わず翔太の胸に飛び込んだ。
彼も私の背中に腕をまわし、私たちは強く抱き合った。
雨音に閉ざされた空間にいると、この世界の中にいるのはふたりだけのような気がした。
ひととき彼の腕の中で幸せを噛み締めていた私は、ふと悪意のこもった視線を感じ、通りに目を向けた。
「!!」
すると、そこには昨日ここで、そして夢の中で見たあの男が立っていた。
男は昨日と同じ黒っぽいスーツ姿で、雫の垂れる前髪の奥からじっと私を見つめていた。
「いや!」
男の存在に気が付いた翔太は、私を自分の背後にまわすと、少し距離を置いて男と向かい合った。
『そいつさえいなければ……』
雨の中の男は、夢の中と同じ、恐ろしく低い声でそう言い、私たちに近付いてきた。
そんな男に向かって、翔太は強い口調で言った。
「お前の目的は俺だろう? 摩耶は関係ない!」
「……翔太?」
次の瞬間、気が付くと男は私たちの目の前にいた。
その顔とシャツは夢の中で見た時と同じく、おびただしい量の血で染まっていた。
そして右足のスラックスも、やはり力なく風に揺れていた。
怯える私の首元へ、男の両手が伸びてきた。
「やめろ!」
そう叫んで私を庇おうとする翔太の体が、見えない力に持ち上げられて宙に浮いた。
そのまま激しく地面に叩き付けられた彼は、突っ伏したまま動かなくなった。
「翔太!!」
『……一緒に……行こう……』
私の正面に立った男は、夢の中と同じ言葉を発しながら両手を伸ばし、再び私の首を締め上げた。
「……い……や……」
首を絞める腕に持ち上げられ、私の足が地面から浮いた。
「殺される……」
私が諦めかけた時、急速に雨の勢いが弱まってきた。
空を覆っていた黒い雲が風に流されて左右に分かれ、その隙間からぼんやりと太陽が顔をのぞかせてきた。
それとともない、男の力は徐々に弱まってゆき、やがて私はその場に倒れた。
「摩耶!」
遠くに翔太の声が聞こえ、私ははっとして目を開いた。
すると、すぐそばに私を心配そうに見つめる翔太の瞳があった。
「翔太……」
「よかった……」
ほっと大きな息をついた彼は、地面に後ろ手をついて天を仰いだ。
仰向けに寝かされていた私は、ゆっくりと上半身を持ち上げた。
テント越しに空を見上げると、雨雲は既に無く、雨上がりのクリアな太陽に一瞬目が眩んだ。
「翔太……さっきの……」
あの血まみれの男は何者なのか。
『お前の目的は俺だろう?』
翔太はあの男と顔見知りなんだろうか。
目的って、いったいどういうこと?
聞きたいことはたくさんあったけれど、何から訊ねればいいのかがわからず、私はただじっと彼の瞳を見つめた。
すると、そんな私の視線から逃れるように、彼は唇を噛み締めて顔を伏せた。
そして、しばらくしてその口から発せられた言葉は、信じられないものだった。
「……ごめん。摩耶。俺たち、もう会わないほうがいいと思う」
あまりに唐突な彼の言葉に、私は愕然とし、目を見開いた。
「……どういうこと?」
震える声で問いかける私に背を向け、立ち上がった翔太は、そのまま通りに駆け出した。
「翔太!」
手を伸ばし、呼び止める私に振り返りもせず、翔太の姿は水溜りに乱反射する光の中に消えていった。
その後、泣きながら一旦家に帰った私は、シャワーを浴びて泥汚れを落とした。
身支度を整えた私は、再び自宅をあとにし、ふたつ先の駅を降りたところにある翔太の家へと向かった。
突然の一方的な別れに納得できるはずはなく、どうしてももう一度彼とゆっくりと話がしたかったのだ。
チャイムを鳴らすと、間もなく玄関ドアの隙間から、彼のお母さんが顔を出した。
長年付き合っている私は、実家住まいである彼の家にも何度も行ったことがあり、お母さんとも顔なじみだった。
「摩耶ちゃん……」
少しやつれた印象のお母さんは、そう言ってその場に泣き崩れた。
数十分後、私は病院の病室にいた。
ベッドの上には翔太が横たわっている。
頭に包帯を巻かれ、腕に点滴の管が刺された彼は微動だにせずその場にいた。
マスクを通して酸素が送り込まれるたびに、胸は大きく波打ったが、その顔に血の気はなかった。
「どういうことなの。翔太」
私は開け放たれた窓のへりに、「彼」が腰掛けていることに気が付いていた。
私の問いかけに、スーツ姿の「彼」は寂し気に微笑み、目を伏せた。
お母さんによると、翔太は昨日仕事帰り、私との待ち合わせ場所に向かう途中事故にあったらしい。
急に降り出した雨に視界を遮られた車が、横断歩道を早足で渡る彼をはね飛ばしたのだ。
病院に運ばれた彼は、一命はなんとかとりとめたものの、意識が戻らず、医者にも今後の回復の見込みはわからないという。
「ねえ、あの私を襲ってきた人は誰なの?」
私が再びたずねると、窓際に座った「彼」は唇を噛み締め、深くうなだれた。
「あれも俺だよ」
「え……?」
「今、俺はそこにある肉体と、魂である俺、そして霊の三つに分かれている。あいつは俺の霊体だよ」
「うそ……」
昨日と今日、私の前に現れた「彼」は、確かに私の頬に触れ、キスもした。
それが彼の魂だったなんて、にわかには信じられなかった。
そして、私の首を絞める「アイツ」の手の感触もまだ生々しく残っている。
「実体はなくても、そう感じさせることはできるから」
私の心を読んだかのように、彼はそう言って、窓の外の緑の木々に遠い目を向けた。
「肉体にはもう意識がないし、魂である俺は命の燈火みたいなものだから、痛みも苦しみも感じない。でも、霊であるあいつは、この世にいる限り永遠に事故当時の苦しみを味わい続けることになるんだ。だからあいつは早く成仏したがってる」
その時、また太陽が黒い雲に覆われ、病室内が一気に暗くなった。
ゴロゴロと低く響く音は、夕立が近付いていることを私たちに知らせていた。
それは同時に、「アイツ」が現れるサインでもあった。
「窓! 閉めなきゃ! またあの人が来る!」
私が窓に近付くと、翔太の魂はすっと姿を消した。
「きゃあ!」
その瞬間、激しい雨と風が窓から病室内に吹き込んで来た。
窓から入ってきたそれらは、轟音をともなって病室内を縦横無尽に暴れ回る。
「翔太!」
雨風を避けるように目元に手をかざし、私は彼の姿を探した。
そんな私の目に、病室の片隅に立つ彼の霊の姿が映った。
ずぶぬれで頭から血を流すその姿は、事故直後の彼の姿なんだろう。
相変わらず「彼」は暗い表情で、激しい雨風の影響も受けず、静かにそこに立っていた。
そんな彼の左足しか無い足元には、翔太の魂が横たわっていた。
ダークグレーだったスーツは、雨に濡れた状態で見ると霊体の男と同じ黒色だった。
「お願い、翔太を連れて行かないで!」
泣き叫ぶ私を、前髪の隙間から血走った目が睨みつけた。
『お前のせいだ……』
「え?」
『お前への未練がこいつにこの世から去ることを拒ませているんだ』
「……」
『成仏するには魂の同意が必要だ。だがこいつは、お前をこの世に残していくことができず、それを拒み続けている。俺がこんなに苦しんでいるというのに』
憎悪に満ちた表情を浮かべ、一瞬のうちに目の前に移動してきた霊の手が私の首に巻き付いた。
『だから、お前も一緒にあの世へ行こう。そうすればこいつも同意するはずだ』
恐ろしい力で締め上げられ、私は何度も意識を失いかけた。
途絶えがちな意識の中で、薄目を開けて彼の顔を見ると、血に染まった頬に涙が流れていた。
『俺だって、お前と生きたかったさ。でも、生きていても、もうこの足は使い物にならないし、仕事も失うだろう。早く一人前になりたかったけど、こんな状態ではお前を幸せにすることもできない』
前髪の奥で涙に濡れる瞳は、とても寂し気で、哀しみに満ちているように見えた。
「……どんなに辛くても、苦しくても……生きていこうよ。翔太。三人で……」
絞り出すように言う私の言葉に、「彼」の首を絞める力が微かに緩んだ。
『……三人……?』
「お腹にあなたの赤ちゃんがいるの。この子まで連れて行くつもりなの?」
動きが止まった彼は、私の首から手を離し、目を見開いて数歩後ずさった。
そして彼は混乱したように、両手で抱えた頭を激しく左右に振り、その場で身もだえた。
「翔太、この世でこの子と一緒に生きていこうよ」
後ずさりする彼に近付き、私はその頬にそっと触れた。
『わあああああああああ!!』
断末魔のような恐ろしい声をあげる彼を、私は両手で抱きしめた。
私の腕の中で、彼は上半身を折り曲げ、何度も叫び声をあげた。
私は涙を流しながら、彼の力を封じるように強く抱きしめ続けた。
「どんな困難が待っていてもいい。私はあなたと生きていきたいの!」
どれだけの時間が経ったのかはわからない。
いつしか窓から吹き込む雨と風はおさまっていた。
はためくカーテン越しに見上げた空では、徐々に雲間が広がってゆき、眩しい陽の光が病室内にも降り注ぎはじめた。
陽の光に照らされた翔太の霊体からは、少しずつ力が抜けてゆき、やがて静かに私に寄りかかるように崩れ落ちた。
その顔は、相変わらず血で汚れていたけれど、さっきまでとは別人のように穏やかに見えた。
彼の目元を覆う前髪を、私がそっとかき上げた時、すぐそばにあたたかい視線を感じた。
顔を上げると、そこには光に包まれた魂の彼が立っていた。
「摩耶、ありがとう」
魂の彼は優しく微笑みながらそう言うと、霊体と体を重ねた。
そのまま、魂と霊はひとつになっていき、眩しく輝く光の球となった。
そしてその光は病室内の宙を何度か旋回し、そのまますうっとベッドに横たわる翔太の体の中に吸い込まれていった。
「残念だったわね。例のプロジェクト、別の人がリーダーを務めることになって……」
「仕方ないよ。助かるかどうかさえわからなかったんだから」
お気に入りの公園のベンチに座り、私は色付き始めた紅葉が映り込む池の水面を見つめていた。
私の隣には、車椅子に座り、穏やかに微笑む翔太がいた。
あれから翔太は奇跡的に意識を取り戻し、以後順調に回復している。
残念ながら事故で右足は失ってしまったけど、リハビリに通いながら、少しずつ仕事にも復帰し始めている。
当面の彼の目標は、義足を付けて、私をお姫様抱っこすることらしい。
ただ、結局、彼がリーダーを務めていたプロジェクトは、別の人が引き継ぐことになった。
あの仕事に心血を注いでいた彼にとって、それはとても辛いことに違いない。
彼の心情を思うと、私は胸が詰まって、思わず涙が出そうになった。
そんな私の様子に気が付いた彼は、肩に腕を回し、優しく抱き寄せてくれた。
「生きていればまたチャンスはくるよ」
私の頭に頬を寄せて、明るい声で言う彼に、私は無言で頷いた。
「それに……」
言いかけた言葉を一旦飲み込んだ彼は、少し丸くなった私のお腹に優しく手のひらを当てた。
「もっと大切なものが手に入ったから」
私は翔太の胸に顔を寄せて、何度も頷いた。
「実は、事故にあったあの日、摩耶に渡したいものがあったんだ」
そう言って彼はジャケットのポケットを探り、私の目の前にピンクの小さな箱を差し出した。
そっと手に取り、少し染みの付いた丸い蓋を開けると、小さいながらも無数の光を放つダイヤのリングが顔を出した。
「どうしてもこれを渡さずには死ねないと思ったんだ」
照れくさそうにそう言って、翔太は頭を掻いた。
「苦労が多いと思うけど、一緒に生きてくれるかな」
彼の言葉に私は大きく頷いた。
そうして涙に潤む瞳で見上げた空は、高く青くどこまでも晴れ渡っていた。
完