夏の焦がれ白蛇
猛暑が続く。
春はあっという間に過ぎ、いつの間にか夏の真ん中にいる。
あれから、あれからと云うのは俺が指輪を拾った日から、一切何も起こらなかった。
白蛇が姿を見せる事は無く、女もまた現れる事は無かった。品田のオヤッサンと何度か居酒屋へ行ったが、話の中でさえ白蛇が出て来る様子は無かった。
俺は毎晩、指輪を見ては思う。
このまま何も起きずにいるのなら、どうして俺にこの指輪を渡したのだろうか。不安も疑惑もいつの間にか季節の様に薄くなり過ぎ去っていく。
だが夏のある晩に事件は起こる。
品田のオヤッサンの一言で……。
――山火事だ!
「ほら、お父さん起きて」
「……ああ」
居間で母が声を掛けて父を抱き起こすと、父は頼りなく箸を持って晩飯に向かい合った。
父の病はあれから善くも悪くも相変わらずにいる。俺が家族に白蛇の話をする事は無かった。気の毒な事だと思ったからだった。
「父さん、薬は飲んでるの?」
俺が父に言うと、母が申し訳なさそうな顔をして唇を固く結んでいた。
「なに? どうしたの?」
俺が訊いても母は答えずに目を伏している。少し経って母は思い切った様に俺を見た。
「実はね、お薬の事なんだけど……残りも少ないのよ。お金の事を言うのもなんですけどね……」
「おい、やめないか……」
父は母の言葉を咎めると勢いよく咳き込んだ。
俺は思った。
あの指輪はいくら位するんだろうか。この際、売ってしまって金にしてしまえば……。
ガガラララ!!
玄関の戸が力強く音を立てた。すると、しゃがれた声で俺の名を叫ぶ人。品田のオヤッサンに違いなかった。
母に俺が行くからと何となく重い腰を早々に上げて玄関へ向かう。廊下の明かりを点けると、案の定、品田のオヤッサンがいた。その顔に険しさが見えて何だろうかと考える間も無く。
「山火事だ! オメーも手伝え! 今、村のもんが総出でやってんだよ!」
品田のオヤッサンの山火事の一言に愕然となる。
山火事……?
「いいから来いっ!」
品田のオヤッサンの急いた態度に圧倒されて、履物を足で引っ掛けたままに俺は外へと出た。
品田のオヤッサンの背中を見ながら走っていた俺は、ふと外の明るさから空を眺めた。そこには満月があり、その周りに薄明かりが蒼く広がっている。そして遠く向こうまで見渡した時、夜空にある筈もない、夕暮れに染まる場所を見つけた。
角を曲がって田圃道に入ると人のざわめきが聴こえてきた。人影を何人か追い抜くと、巨大な山は凄まじく姿を露にして、その中央には赤く燃え上がる炎があった。俺はそれを見ると立ち止まり、一気に血の気が退いた。
あの炎の中には、お社がある。
「なあに、やってんだよ!」
品田のオヤッサンの声に気が付くと、辺りを騒々しく駆け回る人の足音も次第に響き渡ってきた。
「えっ……」
「え、じゃないよ! 早くお前も水汲んでこいよ! なにやってんだよ!」
俺は品田のオヤッサンから桶を渡されると、同じく桶の様な物を持ちながら走って行く人影を追い駆けた。すると月明かりによって僅かに照らされる水面があった。そこへ手を突っ込んでは駆け去る人の足音と水の跳ね上がる音は何度も繰り返し鳴り止まない。自分も手に持っていた桶で水を汲んで山へと走った。
何人もの人とすれ違いざまにぶつかりそうになるのを避けて走る。山の麓にまで行くと待ち構える人に水の入った桶を渡した。そして空になった桶を渡されると、また元来た道をひたすら駆ける。
それを何編とやっている間にも、赤く燃え上がる炎は勢いを増していくばかりだった。人の駆ける足音が鈍く聴こえ出したなと感じると何人かは立ち止まり、落胆した声で話し合っている。
俺も疲れてその場に倒れる様に座り込んだ。自分の荒い呼吸を聴きながら話し合う人たちを遠く眺めていると、息が止まりそうなくらいに驚いた。
女らしい人影が何人か寄り固まっている中に、一人だけ不自然に着物を着た女が立っている。その女だけ何故かこっちに顔を向けていた。
「おい!」
「えっ…」
品田のオヤッサンが目の前に立ち塞がって俺に話し掛けてきた。
「まだ水あんだろう。汲んで来い」
そう言い残して品田のオヤッサンは駆けて行く。着物を着た女はまだそこに居て俺を見ていた。重い腰を勢いに任せ立ち上がると女達を背に走り出す。
一度後ろを振り返ると、着物姿の女の影はもう見えなかった。
「品田~。もうこりゃだめだぜぇ」
山の麓で誰か分からない男と品田のオヤッサンが話している。
「あん!あきらめるってのかよ」
「だってよ…」
品田のオヤッサンが男の襟元を掴むと怒鳴り声をあげた。
「あんな!この山はな!!俺が子供の頃から………」
時が止まったかの様に急に当たりが静まり返ると品田のオヤッサンがボソリと呟く。
「雨……おい今…」
ゴゴゴォオオン!
稲光と共に雷鳴が空に轟くと、凄まじい豪雨が辺り一面を打ち鳴らした。
「おい、雨だ!雨だぜ!!」
男達が歓喜の声を上げる。
俺は呆然とそこに立ち尽くし山に降り注ぐ雨を眺めた。赤い炎は大きく揺らめいている。そのまま真上に顔を向けると瞼を閉じた。暫くの間はこの雨を浴びていようと思い、村の言い伝えに考えを巡らせた。
この雨は恵みの雨に違いない。きっとこの山を守る為に白蛇が降らせてくれたんだ。業火に燃え続ける炎を消す為に………。
悲しみの雨なんかじゃない。生け贄にされた女は赦してくれたんだ。
でも……何故お社は燃えたのだろう?
すべてを終わらせる為に、あの女が火を付けたのか?
わからないけど、この雨なら山の炎は消えてくれる。
早朝、日の出前に俺は山に向かう。雨は小降りになっていた。
その晩は眠れる訳もなく、村の人達より一番にお社を見に行かなければいけないとずっと考えていた。そこに行けば何かが解るかも知れないと感じたからだ。不思議と恐いとは思わなかった。
それはきっと自分がこの奇跡の様な出来事にどこか魅了されているのかも知れない。すべてが作られているかのような、この物語に…。
山は静かにそこにあった。お社のある辺りからだいぶ炎は広がっていた様で、黒く焦げた場所はまだ日が差さない中でも明らかに見えた。
山を登り、倒れかかった木々が険しく道を塞いでいる所を越えると、漸く平らな開けた場所に出る事ができた。
そこには焼けて崩れてしまった小さなお社の跡があった。近づいて見てぐるりと一周する。転がっている木の破片を一つ手に取ってはそれを投げ捨てて、円を描く様にまた一人歩き廻っていた。
ふと何かを思って顔を上げると人が立っている。あの着物を着た女だ。
「会えましたね」
「ええ」
「その痣は…」
「ああ…これね、酷いわよね」
男は女に近づいて抱き寄せた。
「指輪を持って来たよ」
「貴方が持っていたの?」
「ああ、そうだよ」
「わたし、てっきり自分がなくしたんじゃないかって心配してたのよ」
「もういいから……。早くこの村を出よう…」
「そうね…」
二人が山を後にすると、お社の煤けた木片の中から、白蛇が一匹顔を出した。その蛇は何かを見つめ、日が登り始めると体をくねらせて草むらへと逃げ込む様に這って行った。
山に日が射す頃、鮮やかな新緑は蝉の音と混じり、絶えず斑に輝きを放った。山の焼け跡は丸く痣の様に残り、それを見た村の人はまるで目の玉の様だとも言って聞かせた―――
夏の山の音、響いては
思いは巡る、醒めた月とて
恋い焦がれ
「あの…」
「ん? なんだい嬢ちゃん」
「ここの家の方は……」
「ああ…夫婦はどこか医者のいる村まで行くと言ったきり、戻ってこないねぇ」
「あの…わたし……」
「ここの息子は…」
雨降る里の~白蛇の~
肌は白いよ~美人さん~
雨降る里の~白蛇の~
碧の宝石~渡さんて~~
私は~此処で~人間様を~
代わりの~あの娘は~白蛇に~
私の~双子の~妹よ~
悔しき~かな~彼は~~白蛇~~~
終