春の酔いどれ白蛇
春が来た。
桜は咲き、もう散り始めたかと思った頃のことだった。
品田のオヤッサンに半ば強引に連れられて、俺は黒田さんの居酒屋へ押し込まれた。
夜、静かなこの村で、品田のオヤッサンは上機嫌に酔って喋り散らしていた。
「あ~、おい、黒田! 飲め! 今日は奢ってやる! お前も飲め!」
顔を赤鬼の様にして品田のオヤッサンは俺の肩を、ポンッと叩いて酒くさい息を吹きかける。
「飲み過ぎですよ」
「あ、いいんだよ~。飲むために来たんだろ~」
「黒田さん。なんとか言ってやってくださいよ。連れて帰るの俺なんですから」
「おい、品田。そのくらいにしとけ。また女房にケツ叩かれるぞ」
黒田さんが言うと、品田のオヤッサンは益々顔を赤らめて言う。
「あん! 黒田。お前、何言ってんだ。せっかく人様がいい気分で飲んでるのに邪魔すんじゃねぇ……」
そう言ったが最後。品田のオヤッサンは結局、隣で酔いつぶれいた。
すると店の入口がガラッと鳴って、着物を着た若い女が一人入って来た。黒田さんが威勢のいい声で招くと、女は入口近くの席に座った。腰の辺りにまである長い黒髪に桜模様が散っている蒼い色調の着物。斜め横に少し離れて座る彼女の顔を俺は見ていた。
色白な肌。そしてこの場には似つかわしくないとまで思わせる、美しい容貌。
女と目が合った。
一度、心臓が跳ねて俺は直ぐ様に向き直る。怖いと感じた。何故なら女を見た途端、自分の中に潜んでいた白蛇が姿を表したのだから。
「お酒を……」
店の中、数人の客が声を出し笑い転げている中に女の細い声は確かに聞こえた。その声色もまた顔に似合う色っぽさと妖艶な美しさがあったのだけれど、そこに俺は薄気味の悪さを感じてしまう。
まるで地を這う蛇の艶かしい余韻を聴いたと思った。
黒田さんが何か言いたげに俺に目を向ける。やはり、あれが例の女らしい。
俺はあの女から離れなければいけない。そう考えて黒田さんに勘定を頼むと、品田のオヤッサンの肩を背負って歩いた。女の傍を通る際にその横顔を垣間見る。コップを宛がう口元には、くっきりと白い肌に浮く赤い口紅が塗られていた。
外へ出ると先が全く見えない道を足下を頼りに歩く。
「品田さん、ちゃんと歩いてください」
品田のオヤッサンはふらふらして俺の耳元で何かぶつくさと絶えず言っているが、もはや言葉になっていない。
目が慣れてくると数メートル先の木々や田畑が見えだした。品田のオヤッサンの家へ向かう為、狭い脇道を通る。
「気をつけてくださいよ。田んぼに落ちないように、しっかり歩いてください」
そう言って品田のオヤッサンを両手で支えながら歩いていると、前の方で何か気配を感じた。目を凝らして見ると人影が浮かび出し、こちらに歩いてくる。二人が横に並んで歩くのもやっとの道を、俺は早めに品田のオヤッサンを脇に動かして道を開けた。するとその人影が女性らしいことが判り、着物が見えだすと俺はその場に凍りついた。
ついさっきまで居酒屋にいたあの女が歩いて来るのだ。
肩からズルリと重荷が抜け、近くでパシャンと水音が鳴って見ると品田のオヤッサンが田んぼに落ちていた。
段々と近づいて来る恐怖に俺の心臓は高鳴る。
女が俺の脇を通り抜けるまでの間、自分という存在がまるで無かった。後ろを振り向くと女は何事も無く歩いて行く。確かに居酒屋で見た女にそっくりだった。
ただ、一点。
暗くてよくは分からなかったのだが、片方の頬が黒ずんで見えた。
「おい! 聞いてんのか! 助けてくれって…」
品田のオヤッサンが情けない格好のまま田んぼから声を上げていた。俺は手を出し引き上げて聞く。
「さっきの見ましたか?」
「あん、何を見たって?」
「女ですよ」
「何処にいる。女なんて」
品田のオヤッサンは惚けた様に辺りを見回す。
「ん、なんだ?」
俺の足元を見て品田のオヤッサンが言った。見れば何か落ちている。手に取って見れば白い布切れらしく、折りたためられている中に何かあるなと感じて広げて見れば……。
「どうした?」
品田のオヤッサンの声に俺は慌ててそれを手に丸めて隠した。そして女の後を目で追うも、そこには深い闇があるだけだった。
「なんでもないです。……帰りましょう」
品田のオヤッサンを送り届けると俺は出来る限りの早さで家に向かって走り出した。手に丸めたそれを確かめる為に。
玄関の扉を勢いよく開けて自分の部屋に駆け込むと、明かりを点け畳の上にそれを置いて眺める。そして、ゆっくりと布をめくり中を覗く。
――あった。
白の布切れの上には、碧にチカリと光る小さな宝石。そして輪っか……。
「どうしたの?」
後ろを振り返るとそこには母が立っていた。
「なんでもないよ、なんでも」
俺はそう言いながら、指輪をまた布でくるんで隠す。
「大きなオト立てて……夜中ですよ」
母は怪訝そうに眉をしかめていた。俺は取り敢えず謝ると母が何かを言った。
「なに?」と、俺はもう一度聞く。
「蛇は見なかった?」
母が、蛇は見なかった?
と俺に聞く。自分の喉が鳴る音が響いた後、聞いた。
「なんのこと?」
「さっきね、玄関に蛇が入って来たのよ」
「……」
「驚いたわ。箒で打ちやって追い出したけど。たいへんだったのよ」
「何色だった!」
「何色って、暗くてよく分からないわよ。どうしたの? 急に」
俺は玄関に向かうと履く物も履かずに外へ出る。
ただ立ち尽くし、遠く遠く暗闇を眺めた。
桜咲くも気紛れに
瞼にうつる春は短し
瞬き終えて 瞳にうつるは
夏の雨






