暗転-1
木下智子には二面性がある。
七年前に俺と同じクラスにいた彼女、あるいは俺と同棲を始めてから見せている、あの高すぎるテンションの見なれた彼女。
そうではないもう一面を、俺はこいつとの同棲生活で何度か垣間見ていた。
雨の夜、俺が七年越しに再会した時の彼女。
翌朝、散歩していた際に語っていた時の彼女。
俺と観た映画の後、一瞬だけ笑いを消し去った彼女。
再び雨の中で見つけた、ずぶぬれになった彼女。
そして――。
「何してんの、昌史」
今、この時の彼女。
俺は油の切れたロボットのように、ぎごちなく首を動かして振り向く。
彼女は窓を背に立って、部屋の隅にかがんで鞄を開けようとしていた俺を見下ろしている。
(さっき見た時は、あんなにぐうすか眠っていたのに――)
木下の表情は、ここからだと逆光のためよく見えない。
そうでなくても暗い部屋では、そこに木下の姿がある、ということくらいしかわからない。
だが――。
明らかに、いつもとは違う、それでいて俺がたまに見かける、もうひとつの表情を、木下智子は頭蓋骨に貼り付けていた。
「あっ……あー……」
心臓が、高鳴る。
彼女は何もしていないのに、俺の喉笛に手をそうっと掛けているようで――。
今にも俺の首をねじ切ってしまいそうなほど、威圧しているように俺には思えた。
「それ、私のなんだけど」
鞄を右手で指さして、木下はそう言う。
「……いや、わかってる」
それに対して俺は、ありきたりなことしか言えなくて。
明らかに圧されているというか、負けている。
「わかってんなら、変なことしないで。私、そういうことされるの、嫌いなんだよね」
答えはすぐそばにある。
空けることが許されないのならば、聞けばいい。
この中に包丁が入っていないか。台所に一本もないんだ――と。
けれど、聞けない。聞きたくない。
聞いて、もしその答えがイエスだというのなら――。
俺は確実に、危ない領域に入り込んでしまう。
いや、今も既に片足が入っているかもしれないのだ。
木下の物言いは、俺にこれ以上踏み込ませないがための、警告なのかもしれない。
(だとしたら、ますます――)
それはその中に入っている、ということではないか。
聞かなければ、知らなければ――。
そうしたならば、俺は表面上の平穏な領域に安住したままでいられる。
(まさに『知らぬが仏』ってやつかよ……俺は、情けない……)
「あーいや、俺もちょっと酔ってたみたいでな、わけわかんなくなってた……」
こういうのを前後不覚って言うのかな、などと適当な言葉を付け加えて、必死に偽りの平穏に縋りつこうとしていた。
「……ふうん、そう」
それで納得したのか、木下智子は台所へ向かい、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを出してコップに注ぎ、水を嚥下していく。
そんな一連の彼女の様子を、俺はいまだ動けないまま、呆けたように眺めていた。
外ではただ、雨の音がする。
結局それからは一睡もできなかった。
いまだに部屋の隅に鎮座した木下の鞄に目が釘付けになり、思考も釘付けになり、そのことで頭がいっぱいで、気づいたら空が白んでいて。
そして一番気になったのが、あの、木下の様子。
かつてないほどの剣幕で俺を押してきた、一見テンションが高いだけの、でも天才といってもいいほどの怜悧な頭脳を持つ元クラスメイト、元学級委員。
彼女は今でこそ、いつも見るあの彼女だが――。
「なーに、ボーっとしてんの昌史! すっごい眠そうだよ? テンションも低すぎ! リニアモーターカー並みの低空飛行だよ!」
ばんばんと俺の肩を叩いてけらけら笑う、あの彼女だが――。
「……なあ、木下」
俺はどうしても、心に引っかかる。
「んあ? なに?」
「お前、昨日の夜……」
そこから、言葉が続かない。
「んー? 昨日の夜ー? 昌史にまたお世話になるってことになって、お酒飲みまくってフィーバーして……んで、ばったーんってぶっ倒れて、気づいたら朝だったってわけでいまに至るけど? それがどうかした?」
邪気のないいい笑顔で、こともなげに。
「いや、でもお前夜中……」
「昌史」
俺の言葉は、少しだけ落とされた木下の声で遮られる。
「女の子に対して、夜の事情なんてあまりしつこく聞くもんじゃないと思うよ」
笑顔だ。
確かに笑っている。
でもどこかに、違和感がある。
そんな笑顔だ。
落ち着かない。
考えてみれば、いくら元クラスメイトだったとしても、俺は木下のことをほとんど知らないのだ。
俺の知らないところで、どんな複雑な事情があるかもわからない。
彼女の「やるべきこと」と、それが何か関係しているのかもしれない。
ただ――。
それに包丁が絡むとなると――。
――いや、包丁を持っていたと決まったわけではない。
けれど、その「決まったわけではない」との結論に至らせたのは自分自身だ。
認めたくない恐怖心に負けて逃げた、自分自身だ。
可能性から言えば。
可能性で言うなれば。
(あいつは俺の包丁を盗み出して、何かに及ぼうとした……)
そうだとしたら、それはほぼ間違いなく血なまぐさいことではないか。
包丁を持って出かけるなんて、料理関連でもありえることではない――。
「んっ、んっ、あ……どしたの、昌史……」
「いや、なんでも……」
そんな彼女と、俺は今いったい何をしている。
こんなことにまで毎晩及んで、これで俺たちは「繋がり」がないと言えるのか。
俺も彼女の肩棒を、知らぬ間に担いでいて――。
「昌史っ、なんか、今日っ、変だよ……?」
俺に組み伏され、俺の顔を見上げる木下の顔は、俺をどう見てそんな表情になっているのだろう。
「いつもに比べて、キレがないっていうか……」
「…………」
俺は黙って、動きを速めた。
そうすると、それでいいと言うかのように木下は嬌声を上げる。
こいつは、美しい。
整った顔立ち、均整の取れたスタイルといった外見的なものだけではなく、
成績優秀で頭脳明晰、人当たり良く一視同仁する。
どんなときでも笑みを崩さず、こんなときでも顔を歪めることなく満足そうに喘いで――。
が、その内に何を宿しているのだろうか。
もしかしたら、それこそ俺の想像もつかないどす黒い性根があるのだろうか――。
昨夜のことについては、木下は話そうとしない。
隠しているようにも、俺には思えた。
仕事から帰ってきて流し台の戸を開けると、そこには何事もなかったかのように綺麗な包丁があって。
(まさかあれは、俺の夢か……?)
そうであったなら、どれほど楽だろう。
酔っていたということもある。
だとしたら――。
「昌史、昌史ってば!」
「え、あ、なんだ」
不意に名を呼ばれ、俺は面食らった。
「なんだじゃないよ。なんでいきなり止まるの」
「あ……」
俺はどうかしている。
こんな時でも、自分の「すること」すら止めて、思考に耽っていた。
「昌史が、こんなときにまで何か考えてるって珍しいね」
「な、なんだよ」
俺がなんと言って返答しようか考えていると、俺の下の彼女はにやりと笑って――。
「くだらないこと考えられないようにしちゃおっか」
「うお……!」
俺とつながったまま全身をバネにしてがばっと起き上がり、その勢いで俺を逆に組み伏せて、あっという間に上下逆転となる。
「なんとなーくここに世話になってから遠慮して受けに回ってたけど、私、実はこうして攻めるほうが向いてるっぽいってよく言われるよ」
「あ……!」
本当に、なにも考えている余裕がない。
上に乗られ、これまでになかったアグレッシブな動きで攻める彼女に、されるがまま。
肉欲に、完全に持っていかれる――。
疑惑も、思考も、何もかも――。
(俺は――ダメだ――)
最後の最後に小さく自分を否定して、俺は初めて彼女の中で果てた。