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享楽-4

「明日発売の自転車はもう届いてるよな?」

 夜八時過ぎ、閉店まであと一時間と迫ったころに総務から早川がやってきて、整備をしている俺を見つけて聞いてきた。

「あー……五時ごろ来ましたよ。明日のは、そことそこにあるビニール被ったやつ六台です。閉店後に俺がビニール裂いといて、あとは明朝の奴に引き継ぎしときますよ」

「ん、そうか。よろしく頼む」

「大山さんでしたっけ、明日の朝一に入るのって」

「大山と船越だ」

「じゃ、一応大山さんへってことで引き継ぎノートには書いときます」

「ああ、そうしとけ」

 早川はそこまで言うと、ふう、と息をついて自転車にもたれかかる。客はいないからいいけど、それは商品ですぜ、社員さんよ。

「お前は一応仕事する人間だから助かるよ」

「はあ、なんすかそれ」

 俺はスパナを持ったまま硬直して、珍しくいびらない上司を見やる。

「船越なんかお前と同じ契約社員のくせに、意識や自覚はいい加減だし、何かにつけ言い訳してサボるからな」

「その辺は大山さんがカバーしてくれてるじゃないすか、その光景はシフト柄、俺はあんま見てないっすけど」

「俺もカバーしてんだよ。あいつに不備があってクレーム来るたび、俺が頭下げて、どうにか客に帰ってもらった後、あいつには「すいません」の一言しかないんだぞ」

「まあ確かに、もっとなんか言うべき言葉はあるかもですね。あと態度」

 神経質そうな彼の顔が歪む。眼鏡をくいっと上げて、早川はもう一度ため息をついた。

「あー、クサクサしてんな今日の俺は。社員の苦労なんか、契約社員に話したところでどうにもならないのにな」

 結局そこに行きつくのかよ。

「きっと今日は湿気が多いからだな。カラッと晴れてくれりゃいいのに」

「梅雨、嫌いっすか」

「ああ、嫌いだな。それというのも……」

 早川の言葉は、店中に響き渡るピンポンパンポン、といった聞き慣れ過ぎた電子音に中断される。その音が鳴った瞬間に彼は話をやめていた。

『本日はご来店いただきまして、誠にありがとうございます』

 俺も早川もここで働く人間として、後に続く店内放送に耳を傾ける。

『雨が降り出してまいりました。お車の窓を開けたままのお客様は、至急お車にお戻りくださいませ。また、包装はビニールの……』

「ちっ、降りだしたな」

「雨、すか」

 途中まで聞いて、俺と早川は傾けていた神経を戻す。俺は自転車のそばにしゃがみこんで、メンテナンスを再開した。

「予報通りだがな……でも雨はムカつく」

 吐き捨てるように早川は言ったかと思うと、今度は口調をころっと変えて俺に問うてきた。

「ムカつくで思い出したが、以前ここに来たお前の女はどうしてるんだ?」

 木下のことに違いない。俺は作業の手を止めずにさらっと返す。

「別にあいつは俺の女じゃないっすよ」

「じゃあなんだ? 親戚か?」

 俺とあいつで、一番近い関係の名称は――。

「ホントのこと言うと早川さんが失神しそうだから黙っときます」

「な、なんだとこの野郎! 失礼な奴だな、契約社員のくせに!」

「痛てて、何すんですか!」

 黙って作業を続けようとする俺に、早川がヘッドロックをかける。

「ああもう!」

 俺は強引に振りほどくと、髪を適当に撫でつけて言った。

「出て行きましたよ、あいつはもう」

「あん?」

「……出て、行ったんです」

 そう。

 彼女はもういない。

 潸潸さんさんと降りしきっているであろう、この雨の夜に消えていったのだ。



 その夜は雨が降っていた。

 六月のある日、この時期だから珍しくもなく、仕事が終わったその夜はざあざあと雨が降っていた。

 俺はちゃんと傘を持っていた。それでもズボンは濡れるし、水たまりに入ったら靴も濡れる。おまけにただでさえ視界が効かないのに余計周りが見えにくい。だから雨は嫌いだ。

 そんな鬱陶しい雨夜うやに、俺は一人の女に出会った。



「お前、何やってんだよ……」

 そいつは傘もささずに、一人、雨の中に佇んでいて。

 俺の声に反応したそいつが体をそちらに向けるときに、ずるり、と雨をたっぷり吸った気だるそうな音がした。

「あー……昌史じゃん……何やってんの、こんなとこで」

「バカ、何やってんのはお前だ」

 まさか、近道を通って帰ろうとしたその途中、こんな雨の中、誰もいない公園で誰かが佇んでいるとは思わなかった。

 それも傘もささずに、雨に降られ放題で、じっとそこにいて。

「私? 私はねえ、やるべきことがあって、でも失敗してねえ……」

 そいつは、声に面目なさと自嘲を交えてそう言って、力なく笑う。

「……で、しょうもなくここで突っ立ってた、とか言うんじゃないだろうな」

「すごいねえ、昌史は。よくわかったねえ」

「…………」

 俺は呆れて、目の前の人間に傘を差し出してやる。

「俺の部屋、戻ってくりゃいいだろが」

「合鍵は郵便受けに放り込んだら、もう取れないじゃん」

「そうでなくても、一階のエレベーターホールで雨くらいしのげるだろうが……」

「その発想はなかったんだよ……」

 まさか本気で、雨をしのぐことを失念しているほど頭がやられているわけでもない、とは思う。

「俺と、もう会いたくなかったのか」

「…………」

 そいつは黙ってうつむく。

「だとしたら、俺がここで声かけるのもまずかったのか」

「……そうじゃ、ないけど」

 俺がよく知っているこいつとは思えない、沈んだ口調、小さな声。

「ただ、昌史に合わす顔がなかった、って言ったら、笑われるかな」

「バカ。笑えるわけないだろが」

 呆れるだけだ。

「帰るぞ」

「どこ?」

「俺の部屋だよ」

「いいの?」

「ああ、いいよ」

「私、もう昌史とは会えないって言っておいて……」

「んなもん、気にすんな」

 そいつは、不意に顔を歪ませたような気がした。

 が、それは一瞬で。

 少しだけさみしそうに、笑った。

「じゃあ、もう少しお世話になっていい?」



「お前が初めて俺の部屋に来た時のこと、思い出すな」

「んあー? そーだねえー」

 シャワーを浴びて隣人のおすそ分けを食った木下智子は、またいつものような元気を取り戻したが――。

「昌史い……お酒足りないよお……」

 先ほどから、浴びるほど酒をあおっている。

(ほんっと、切り替えの早い奴だな)

 服は半分はだけ、足元には数え切れないほどの空き瓶。

「もうないぞ」

 俺はまだ少ししか飲んでないというのに、こいつは何リットル飲んだのだろうか。まるで酒が自分から彼女の喉に吸い込まれていくかのように、ウワバミよろしく飲みまくっていた。

「じゃあ……昌史が……買ってくる……ぶらぼー……」

「アホか! なにがブラボーだ! こんな雨がざあざあ降ってるのに、しかも仕事帰りで疲れてて、なおかつお前を拾い直して、俺の体力と精神力はほぼゼロだぞ!」

 俺は呆れて、木下にそっぽを向いて一人で飲むことにする。

「うー、昌史のアホ……」

「アホでいい」

「契約社員……」

「悪かったな」

「生き別れの兄貴……」

「わけわからん設定を持ってくるな」

 それからずっと、バカー、とか、アホー、とかぶつぶつ呟く声が背後から断続的に続いていたが、やがてその愚痴が聞こえなくなる。

 振り向いて見ると、木下は酒の瓶を大事そうに抱いたままベッドで眠りに落ちていた。

(しょうもない奴だな、ほんとにこいつは)

 気がつくと、なんだかんだで俺も結構な量を飲んでいた。

(今日はいろいろあったし、明日も仕事があるし俺ももう寝ちまおう……)

 俺は歯だけ磨くと、ベッドを占領している木下の体をぐいと横に押しやり、彼女が抱いたままの瓶をそっと抜き取ってから、空いた空間に身を横たえることにした。



 なぜか、眠りは浅かった。

(疲れてんのかな……)

 喉が渇いて目を覚まし、手元の携帯を覗き込むと、まだ深夜二時。

 水を飲もうと起き上がろうとすると、猛烈な気だるさを覚え、および頭がくらくらして平衡感覚が分からなくなっていた。

「あー……酔ってんな」

 酔いを醒ます意味でも、冷たい水を一杯飲んで寝なおそう、と俺は思った。

 俺は水道水を飲むことに抵抗を感じているため、スーパーでミネラルウォーターを買って冷蔵庫で冷やしている。

 それを出そうと冷蔵庫までふらついた足取りで歩いていき、扉を開け、顔を中に突っ込むが――。

「ぐあ!」

 しこたまひたいを硬いものにぶつけ、酔いとは違った感じで頭がくらくらとなった。

「あいつつつ……何なんだいったい……」

 どうやら俺は酔っていたせいで、冷蔵庫と流し台の扉を間違えていたらしい。

 調味料やボウルなどを入れておく、流し台の下の物入れの中に頭を突っ込んでぶつけたのだ、と痛覚とともに冴えてきた脳で判断する。

「ちっくしょー……飲み過ぎてパーになってたっぽいな……」

 情けない自分を恥じつつ、頭を引っ込めていく。

(……ん?)

 そこで俺は妙なことに気づいた。

 その中にあるべき、何かがない。

 そのまま気づかずに扉を閉めてしまいそうなほど、それは小さな違和感。

「なんでだ……?」

 酔いが、急速に醒めていく。

(……俺は昼に仕事で出かけ、木下は夕方か夜に出かけて行った……)

 つまり、日付の変わる前、昨日の昼以降は、誰もこの家で料理をすることはなかったはず。

 木下が夕食を作って自分だけ食べてから出かけたと仮定しても、だ。

 いつもちゃんと片づけをしてくれる彼女は、食器をそのままにしておいたり、あるいは洗いっぱなしにしていたことはない。必ず、全て拭いて棚にまで戻す人間だ。

 ましてや今日限りでここを出ていこうとしていた人間だ。普段、いくら失礼な物言いをしていても、彼女は最後にそんな非礼をかます奴ではない。

 現に、今も台所には食器類は散乱しておらず、すべてがあるべき場所に収まっている。

 なのに、これだけがあるべきはずの場所にない。

 妙な不安感に駆られつつ、俺は台所中を探しまわった。

 ない。

 どこにもない。

 床にも落ちていない。

 綺麗に整頓された台所には、なにも放置されていない。

(じゃあ、アレはどこへ行ったんだ……!?)

 嫌な汗が、滴り落ちる。

 ない。

 どこにもない。



 包丁が、ない。



 俺は、ばっと振り向く。

 その先で、木下智子は今もベッドで深く眠っている。

 彼女の唯一の所持品――雨で濡れた小さな鞄は部屋の隅で乾かしてあった。

 乾かすというよりは、そのまま放置していたと言ったほうが正しいか。

(まさか……いや……)

 俺の嫌な予感が的中しているとするならば、ソレはあの鞄の中に入っているままなのではないか――。

 確かめてみる必要が――あるのか――。

 俺の心中に抱いた感情が、ゆっくりと、じわりじわりと、それはまるで景色が夕方から夜に変わるかのように、すり替わっていく。

 不安から――恐怖へと。

 俺はできるだけ足音をたてないように、部屋の隅まで歩いていって。

 まだ濡れた鞄のそばにかがみこんで、震える手を、指先を、鞄のファスナーに伸ばそうとした。



「何してんの、昌史」

 心臓が止まりそうなほど凍てついた声が俺の背後から突き刺さったのは、まさにその時だった。

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