享楽-3
完璧な人間になりたかったんだよ、と彼女は言った。
「……は? どういうことだよ」
「どうもこうも、そういうこと」
その日の夜、ベッドの中で俺に腕枕された木下は唐突にそう言った。
「完璧な人間に、なりたかった」
そして先ほどの言葉を、もう一度繰り返す。
「お前の言う『完璧』ってのが、いまいちよくわからんな」
俺はそう言って、会話をつなげようと試みる。どうもこいつと俺の頭の出来がかけ離れ過ぎているせいか、俺はこいつの言葉を一回目で理解できることが少ないようだった。
「テストで百点ならバンバン取ってたじゃないか、お前は」
完璧、という言葉から真っ先に俺が思いつくのはそれだ。そしてこいつは何度も何度もそれを実現してきていた。ちなみに俺は百点など小学生以来取れていなかったが。
木下は俺の言葉を受けるも、微妙に不機嫌そうに返した。
「そりゃそうだけど。でもそれはあくまで『テストが完璧にできた』って次元であって、私が目指した『完璧な人間』じゃないもん。私は、『人間を完璧にやり』たかった」
「難しい話だな」
「昌史にとっちゃね」
「お前、ほんと失礼だな……」
「あっはっはっは!」
大口を開けて笑う木下の息は、酒臭かった。
夕食後に、彼女は珍しく、というか俺の家に来て以降初めて、酒をあおっていた。
「お前は酒、飲まないと思ってたけどな」
「んー? 今まで飲まなかっただけだよ。飲むときゃもう、ザラザラ飲むよ」
それは飲むときの擬音じゃないだろう。
「……今夜はお酒、飲みたかったから」
「俺が買っておいた酒だけどな」
俺自身のことを考えると、酒は気分が沈んだときや寝つきが悪い時によく飲む。まあ、仕事で早川にいびられた時とかが主だったが。
木下はそういうわけではない、と思った。
今日は映画を見て、外で飯を食ってブラブラ遊んで帰ってきた。
なにもストレスの溜まる要素はなかったはずだった。
だからきっと、彼女が酒を飲む理由は俺とは違ったところにあるのだろう。
(けど、ストレスって無意識に溜まるものもあるからな)
そこまで深く考えていても詮無いことだが――。
「あ、昌史、星」
気だるそうに腕を伸ばし、ベッドに隣接している部屋の窓から見える、たった一つの星を指さす木下。
この大気汚染され尽くした東京で見える星など、明るくもないし数もないし、つまらないだろう。なんでこんなところから見える星に、多少なりとも心が動くんだ。田舎町にでも行けば満天の星空が見られるぞ。
「バカだねえ、昌史は。こんな腐ったところで頑張って、見えにくい光を精一杯届けてるんじゃないのさ。ほとんどの人に気づかれないようなその光を、私は拾えて嬉しいんだよ」
バカと言われていちいち腹を立てていられない。むしろこいつは早川と違って、バカと発するその言葉にも親しみがこもっているように最近思う。
「見解の相違、だな」
だからさらっと流した。
返事はない。
木下は先ほどの言葉を最後に、俺の腕枕で眠りに落ちていた。
変な夢を見た。
俺はその光景を眺めているらしいのだが、俺はその世界の中には存在しないらしい。映画を見ているあの感覚だろうか、目の前に世界があるのにそこには介入も干渉もできない。
そこは一面真白い空間で、広さで言えば俺が卒業した高校の体育館の半分ほど。
天井もあって壁もあった。全てが白かった。
その中に木下が一人だけでそこに座り込んでいて、部屋――と言っていいのだろうか、空間の中央で何かもぞもぞと動いている。ここから見えるのは彼女の背中であって、具体的に何をしているのかは分からない。
不思議なことに、この空間にはドアがなければ窓もなかった。
まるで木下が最初からずっと座っていて、後から壁と天井が彼女を囲い、覆い、密閉された空間を作ったように――。
ともかくそんな奇妙な真っ白な密閉された空間で、木下は何かをするように動いていた。
俺は木下が何をしているのか知りたくて、でも自分の体がそこになかったので仕方なくどうにかして視点を動かそうとした。すると俺ではなく周りの空間が回転するように動いて、俺に木下の姿を正面から映す。
木下は何かを作っていた。
自分の目の前に散らばった、大きさも形もバラバラな欠片を組み合わせ、何かを作っていた。
どことなく楽しそうだった。
が――。
あ、また失敗だ。
これで千三百四十二回目だ。このまま作っても、どうせまた欠陥品になっちゃうな。
声は聞こえなかった。
けれど俺には、そう彼女が言ったように思えた。
木下は、組み上げ途中と思われる、形も何なのか分からない塊、大きさにして政治家が当選したときに目を入れるダルマのような『それ』を抱えて立ち上がって――。
大きく振りかぶってから、勢いよく壁に向けて放り投げた。
投げられたそれは壁にぶつかると、音もなく大破してバラバラな欠片になって、彼女の足元へ戻ってくる。
そして木下はまた座り直し、欠片を拾い上げて組み立て作業を一から再開し始めた。
投げた時、立ち上がった時もそうだったが、この空間には音がなかった。
無音の真白い世界で、木下は何かを作って、失敗に気づいて途中で放り投げて壊して、再びその作業を始める。
もう千回以上、その作業を繰り返していたらしかった。
何故だか俺には直感できた。
『それ』を完璧に組み上げない限り、木下はこの白い密室から出られない。
そして木下は作業を続けていく。
これから先、何千回も、何万回も、何億回も。
作って、壊して、また作って。
完璧な『それ』を求めて。
「あー……変な夢だった……」
「なに、どんな夢見たの、昌史」
「……もう忘れた」
変な夢を見たことは覚えているのだが、内容までは覚えていない。
夢というものはえてしてそんなものだから、俺は気にもせず木下の作ったハムエッグを咀嚼した。
「昌史、今日仕事?」
木下は中身いっぱいのサラダボウルを、どん、とテーブルに置きながら聞く。
「ああ」
さっそくサラダを自分の皿に盛って、ドレッシングを豪快にぶちまけた。
そんな、慣れてきた朝の風景の中で、木下は突然切り出した。
「私、今日の夜出かけてくる」
「……ほう?」
ついに目的のため動くんだな、と俺は直感した。
「だから、もう昌史とは会えない」
「そう、か」
やはりそうらしい。
目的が達成されたらもう俺ともお別れだ、とは以前こいつが自分から言っていたことで、そこでは俺に驚きはない。
けれど、少し勿体ないかな、とは思う。
こいつは、金は一銭も出さなかったが、いろいろと世話を焼いてくれた。
美味い飯も食わせてくれたし、風呂も沸かして待っていてくれたし、くだらない話で気づいたら数時間過ぎていたこともあったし、夜はセックスもできた。
無料で泊めていても、十分な価値はあった。
「残念だな」
だから俺は、つい本音でそう言っていた。
なにも自分のためにこいつを引きとめたいわけではない。
「んー、私も昌史と会えないって思うと残念だよ」
ただ、それでも。
こいつには果たすべき何かがあって、俺の家はそのための拠点に過ぎない。
そんなことは分かっていた。
けれど、俺にとっては突然に訪れた別れだから。
こいつに限らず、別れというものは、よほど嫌な奴でない限り残念なものだったから。
残念だ、と俺が言ったのは、そういうことだ。
「じゃ、俺は行くから。お前は家を出るとき、その合鍵で鍵閉めたら、鍵は郵便受けの中にでも放り込んでくれればいい」
「うん、わかった」
昼過ぎ、木下が最後に作ってくれた手料理のちょっと豪華な昼食を食べた後、俺は出かける支度をして、最後に合鍵を彼女に渡してそう伝えた。
「そういや、ひとつ聞くけどよ」
いざ出発、と思ったところで俺は肝心なことを聞きそびれていたことを思い出す。
「どうして、今日なんだ?」
「んー? それはねえ……」
木下はにたっと、いたずらっぽい笑みを作った。
「天の時が私に味方してくれるからね」
「はあ……?」
「分かんないなら、分かんないままでもいいよ」
木下はにこにこ笑いながら、さらに続ける。
「私、頑張る」
「あ、ああ、頑張れ」
どう返したらいいか分からず、月並みな言葉を返した。
すると彼女は、今までに見せたことのない、不思議な表情を作る。
「……昌史が、なんのために、とか、なにをする気だ、とか聞かなくて、ほんとにありがたかった」
「…………」
擬音にして、ふわっ、とでも言うのだろうか。
木下智子は、とても安らかに微笑んでいた。
そして最後にぺこっと頭を下げて、世話になったね、と言って俺を送りだした。
一歩部屋から出ると、背後から戸が閉まる音が聞こえる。
もう俺がここに帰ってきたときには、彼女はいない。
家に帰ったら電気がついていることはない。
それが侘しかったが、今は仕事に行かなくてはならない。
いつものように、仕事をして帰って寝るだけのあの暮らしに戻るだけだ。
そう結論付け、もやもやする気持ちを振り払い、エレベーターで一階まで下りた。
外に出て、俺は天を仰ぐ。
どんよりとした、曇り空だった。