享楽-2
「いつまで経っても昌史が映画を借りてこないので、明日は二人で映画を観に行きます!」
「はあ……?」
それから二日後、仕事を終えて帰ってきた後の夕食時、木下は突然そう言った。
「昌史、明日休みでしょ? ちょっとデートしよ、映画館デート」
「言いたいことはいろいろあるが、なぜそうまで映画に固執するのか言ってくれ」
俺は正直面倒なので、できれば同行したくない。行くのなら一人で行けばいいじゃないか。それでも金はかかるがな。
「ここいても、暇なんだもん! 昌史が帰ってくるまで、私テレビ見てるか漫画読んでゴロゴロして、夕方になったらご飯の準備して、なにこのダメな専業主婦、っちゅー話!」
木下は自分を指さして、さも現状に満足していない流浪武士のようなやるせない表情を作った。
「暇ってな、お前……目的、とやらはどうしたんだよ。そのためにこの仮の宿を得てるんだろが」
俺は呆れて、言い返してやった。このことをちらつかせれば木下も考えを変えて、その準備に奔走し、さっさと目的を果たしていなくなってくれる、金を無駄遣いしなくていい――と考えていたが、
「んー? その準備はちゃーんとしてるけどさ、進まないときは進まないんだよね! んで、そんなときはものっそい暇! だから映画観に行きたい!」
あっさり言い返すのがこいつだ。だが、ここで納得したら俺まで映画に連れて行かされてしまう。
「大事な目的なら、そんなこと気にせずに必死に邁進するもんだと思うけどな」
すると木下はちっとも退かずに、人差し指を立ててくるくる回しながら、やや上を向いて得意げに語る。
「おバカ! 事を成すには天の時、地の利、人の和を活かさなきゃいけないんだよ! 天地人だよ! それもおろそかにしてやみくもに突っ込んだって、失敗するのがオチ!」
「う……」
「私のやるべきことは、それこそ一世一代の大舞台というか、大事な大事なことなんだから。動けないときは動かないのが一番なのさ! 動かざること山の如し! 2500年前から決まってることなんだよ!」
「お前、孫子好きだな……」
天地人といい、今のくだりといい。
まあ、知識人で教養人らしいこいつなら当然かもな。
俺が他に言い訳はないかと探している沈黙を異論なしと受け取ったのか、木下は俺の肩をばんばん叩いて「オッケー、決定、もう決定!」と話をまとめやがった。
平日の映画館は非常に空いていた。
駅前にあるタワーホールの上層部にある映画のスペース。当日券を買って(これがまた大人二人だと高かった)中へ入っても、暇そうな老夫婦が三、四組と、無気力そうな大学生か浪人生と思われる青年が一人だけ。
「あっはっは、ほとんど誰もいないねえー!」
静かにしろ。少ない客の怪訝な視線が全て俺たちに集中しているじゃないか。
相変わらずの絶好調な木下の喋りを適当に流しながらぼんやりとCMを流しているスクリーンを眺めていると、画面が一瞬暗くなってから映画館でのマナーを語るあの動画が流れ、それが終わるとようやく映画の始まりとなる。
「おー! はじまる、始まるよ昌史! テンションあげてこー!」
「上げなくていい。頼むから静かに観ろ」
まあ、木下は常識がある人間のはずだから大丈夫だとは思うが。
(つまんねえ……)
上映開始から三十分。俺は退屈の極みにあった。
映画のタイトルは「復讐者9」というB級だかC級だか分からないようなアクション映画だった。
アクション映画の割に肝心のアクションシーンが弱いし、そうかと言ってストーリーの内容は濃いのかと思えば薄いし、俳優も全然知らない名前だし、面白い要素が一個もない。
(木下はこんなの、よく観てられるな)
隣に目をやると、わりかし真剣にスクリーンと対峙している木下。
もちろん上映中は黙ってはいたが、ポップコーンと炭酸飲料をもぐもぐちびちび食べて飲んで、そうしながらも映画に集中している。
俺はというと、くだらない内容と力のない俳優の声により猛烈に眠気を催していた。
(寝ちまおう……)
そう決めたからには早々に眠ることにした。
「昌史」
「なんだよ」
明らかに不機嫌そうな顔の木下と、俺は映画館の外で向き合っていた。
「ものっそいつまんなかった」
「そうか、よかったな、俺は寝てた」
目覚めのいい俺があっさりとそう返すと、木下はキレたように吼えた。
「んもー! バカー! 誰さ、急に映画観ようなんてこと言いだしたの!」
お前だ。
それはあえて言わず、俺は私見を述べる。
「復讐者シリーズは3で終わったよ。4以降は同じような内容をグダグダ続けてて、面白くねえ。今回9だぞ、9。マンネリにもほどがある」
「知ってんならなんで観る前に教えてくれなかったのさー」
口をとがらせて、ジトっとした目つきで抗議する木下。
「まあまあ、いいじゃんか。しょうがねえ、下階のレストランで飯にしようぜ」
「昌史のおごりだからね」
そうだと思ったよ。
「いや、でもあの主人公は良かったと思う」
カレーを食べながら、木下はレストランで俺に映画の感想を語っていた。
「たしかに映画全体の質は低いと思うけどさ、主人公が一貫した志を持っているってのはポイント高いよ」
「そうか?」
俺は寝ていたのだからよくわからない。
「それが国への復讐だってことは、ちょっとまた複雑な論争を起こしそうだけどね、もぐもぐ……」
こんなちゃちな映画で論争なんてする奴はよほど暇な奴か、よほど評論家として食っていけない奴だ。
あるいはよほど自分の創作に自信がなくて、他者を見下して優越感に浸りたがっている可哀想な奴だ。
「まあ、この国は腐ってるからねー。けっこうこれ、観る人が観たら共感する映画だとは思うよ?」
言い忘れていたが「復讐者」シリーズは日本政府に家族と恋人を奪われ、それに復讐心を燃やした男がたった一人でテロを起こそうと画策する、といったかなり無理のある設定で毎回通しているらしい。
「ん? それは映画の中の日本ってことか?」
「違う。実際のこの国」
こともなげに木下は言い放った。そうだとしても、そういうことは公共の場では大声で言わないほうがいいと思う。
「昌史は、国に対して失望したりしたことはないの?」
「別に、失望ってほどはないけどな……」
まあ、今の不景気や、正社員の席が狭いということや、日本が結局は学歴社会であるということ、広がり続ける貧富、つまり勝ち組と負け組の差など、あるいは年金問題、国会議員や都議会議員の汚職なんかに多少憤りや不安を感じたこともあるが、全てを国や社会のせいにして嘆いたって何も始まらない。
そういう憤り、不安、それら俺が抱いた感情を「失望」という言葉でくくるほどではない、と俺は思っていた。
だからそういうことを簡潔にまとめてから付け加えるように答えてやると、木下は満足そうに、
「そっかそっか。昌史って、思考が健全だねえ」
と笑った。それから、
「私は、不健全かな」
笑ったままで、そう言う。
「なんだよ、お前は失望してんのか?」
「あ、違う違う、そういうわけじゃなくて」
木下はあわてて手をぶんぶん振って否定する。
「私は国に失望してないし、そこまで不健全な心の持ち主でもないって自分で思う」
たしかにこいつのハイテンションぶりは、目の前のこいつも七年前のこいつも健全そのものだった。
「私が、私の中で不健全だと思うのはねえ……」
彼女はスプーンをくわえながら、どこかあらぬ方向に視線をやる。
「ま、強いて言うなら存在そのもの」
「…………」
木下の笑みが消えた。
ほんの一瞬だけ、たしかに消えた。
笑みにとって代わってその顔にはり付いた表情がなんなのか、俺が確かめようとする前に、彼女はすぐにまたいつもの笑顔に戻ってカレーを食べ始めた。
「うまいうまい! 昌史も私のと同じの注文すりゃよかったのに! カレー最高だよ! あ、でも昌史がカレー食べると臭うかな? これこそ昌史の加齢臭、ってね! うーん、このカレー並みにうまいこと言った!」
(木下……お前、何を考えている……)