享楽-1
後ろから俺に突かれている木下のくびれた柳腰の動きが徐々に艶めかしくなり、嬌声にも色がかかってきた。顔が見えないこの体位でも、感じていることがもう分かる。
シャツは着たままの彼女の裾から諸手を突っ込み、俺はこいつの大ぶりな柔らかい乳房を揉みしだきながら腰の動きを速めると、それに呼応するように木下も締め付けを強くしていく。
「まっ、昌史っ、私もう、もう……!」
切れ切れにそう言ったかと思うと、木下はひときわ大きな嬌声とともに、壊れたかのように仰け反って、体をがくがく震わせ絶頂へと達した。
俺も既に限界だった。すぐさま自分を引き抜いて、あらぬ方向に欲望の塊を放っていく。正直、それを何処にかけてやるかなんて悠長なことを考えている暇もない。
「うああ……」
うめき声を上げ、俺は余韻に浸りながら、なおも痙攣のような動作を止めない木下の体を支えてやった。
「あっ、あふう……今日も良かったあ……」
満足そうに木下は笑う。その髪をそっと撫でてから、俺は事後処理のためティッシュの箱に手を伸ばした。この作業が空しくて煩わしい。
それから気がつけば眠りに落ちていて、朝に目が覚める。
「なんか、寝なくてもいいのが不思議なんだよな」
今までは夜遅くに寝て、昼前に起きていた。それでも仕事中にダルさを感じ、休憩時間中はいつも寝ていた。
が、こいつと同棲するようになってからは寝る時間はそれほど変わっていないのに朝に目が覚め、そのまま夜まで体がもつ。
「おもっきし動いて、いい疲れで寝てるからシャッキリ目が覚めるんじゃん?」
そう木下は言う。
まあ、朝から昼までの時間が手に入ったと考えれば非常に有意義だ。その時間はだいたい、木下との散歩や買い物の時間に費やされるのだが。
「外を出歩くだけの体力は、仕事まで温存していたい」
それが、こいつと出会うまでの、俺が自分自身に対して言っていた言葉。
なのに今は不思議と活力にあふれ、別に朝出かけて昼にまた仕事に行って夜帰ってきてもそれほど疲れない。
あるいは、木下が栄養のある食事を朝も夜も作ってくれているからかもしれない。朝食を食べなかったからな、俺は今まで。
風呂も面倒で沸かさず、仕事前にシャワーだけを浴びる生活。これも木下が、俺が帰ってくるころに風呂を沸かしてくれて、それにより温かい湯につかることで疲れが取れていくわけで。
セックスも含め、そういった諸々の要素はすべて木下がもたらしてくれるわけで、俺はある意味、彼女に依存しているのかもしれなかった。
「やっぱ男は、女の子がいないとダメだねえ」
木下はいつもそう言ってけらけら笑いながら、かいがいしく俺の世話を焼いてくれる。
まるで新婚の夫婦みたいだ、と思うことも何度もあった。
だが俺は気づいていた。
俺から木下へ、木下から俺へ。
互いの間に、愛情はない。
「そりゃ別に、私は昌史のこと愛してないもん」
あるとき、事が終わってから木下にそう言ってみると彼女はあっさり答えた。そしてそのまま、俺にスポーツドリンクを要求する。
俺が冷蔵庫を開けて未開封のペットボトルを出して彼女に向けて山なりに投げてやると、それを器用に片手でつかんだ木下は、
「愛情がなくたって、下半身ありゃできるしー? そこに必要なのは肉体的な欲望だけで事足りるじゃん」
そう言ってぐびぐびと液体を咽下していった。肉欲の前にはセックスに愛情なんてナンセンス、とでも言いたいのか。
「ま、別に俺はいいがな」
こいつに愛されたいわけではない。というか、愛情よりも金をくれ。親に無理を言って仕送りを少し増やしてもらったが、無職の大人一人を養うのは契約社員という身分ではしんど過ぎる。
こいつは俺の経済事情を理解してくれているのだろうか。
まあ、だからこそ外食よりは安上がりな食費で手料理を作ってくれたりしてくれているのだが。
「昌史は明日も仕事?」
「そ。だからもう寝るわ」
愛で結ばれていない二人は、事が終わればあっさりとめいめい眠りにつく。
「愛、か……」
六時を過ぎた平日夜の自転車売り場は、仕事中でも暇だ。
自転車は全然売れず、せいぜい籠やペダルを買っていく人間が数人。一時間に一人来るか来ないかだ。こんなんで良く売り上げをやっていけるなと思っても、どうせ俺はこの経営に携わっているわけでもないし、そこまで深く考えなかった。むしろ考えているのは、
「愛、か……」
「契約社員の分際で、いっちょ前に愛を考えるか、寺尾」
木下と俺との、愛のない関係のことで。
というか、別に身分は関係ないでしょう早川さん、と、俺が立っているレジカウンターのそばで発注書を書いている嫌味な正社員に突っ込みたくなったが耐える。こいつはしつこいんだ。
代わりに矛先を向けてみる。
「じゃあ正社員の早川さんは、そこに愛のない男女の肉体関係はどんなもんなんだっちゅう話について考えたことはあるんですか」
「なっ、おま、馬鹿、仕事中になにを……」
早川は妙に慌てふためいた。なんだかそのしぐさは、二、三年ほど前までの俺に似ている。
「うわあ……早川さんってまさか、俺と同い年で正社員なのに……」
「ば、ば、馬鹿野郎! 正社員の俺がど、ど、どうて……」
こりゃ確定だな。
あまりにも早川が哀れになってきたので、まあこの辺にしてやろうという優越感に浸りながら俺は話を切り上げた。
「まあとりあえず、この四週間分のチェックリストはファイリングしちゃっていいんすか?」
レジカウンターの脇にあった紙の束、枚数にして十枚強をひらつかせる俺。
「ま、まだやってなかったのか! さっさとしろ脳無し!」
すると急に早川は元気になって、眼鏡をくいっと上げていつものように偉そうにしやがった。
「…………」
やはり何か言ってやろうかと思った俺の目の前に、ひょいと客が現れる。俺はいつものように営業スマイルを作って応対しようとして、途中でくじかれた。
「あ、いらっしゃ……って、木下!?」
「やほー! ちゃんとやってるかーい?」
片手を挙げて爽やかに、木下は笑う。それから売り場をぐるっと見回して、「自転車いっぱいだねー」とありきたりなことを言い出した。
「何しに来たんだ、お前」
「えー? そりゃ昌史が真面目に仕事してるかチェックしにきたんだよー!」
それはいいが、後ろからチラチラ見てくる早川の視線が痛い。
木下は俺越しにそんな上司を見やって、それだけじゃなく思い切り指をさして、いらんことを言った。
「あー、あれかー、昌史が愚痴ってた嫌味な正社員ってのはー。ホントだ、いかにもな眼鏡してるもんねー」
「ば、バカ何言ってんだ、静かにしろ! 指をおろせ!」
指をさして『あれか』はナシだろう。俺が怒られるんだ。焦ったが時すでに遅い。確実に聞こえたな。
「同い年の割に、昌史に比べるとずいぶん老けてんねー! あんな顔でムスッとされてたら、そりゃお客さん来ないよー! ここ、閑古鳥鳴いてんじゃん、五百羽くらい!」
「アホ、お前これ以上何も言うな!」
だから、俺が怒られるだろ――と危惧したが、もしかして木下はそれを知っていてわざと言っているのか。
そうだとしたら嫌すぎる。
「おいこら寺尾!」
ほら来た。なんで俺は何も悪くないのに怒られるんだ。振り向けば、不快指数を全開にしたような表情の早川が俺を睨んでいる。
「あ、やば、怒らしちゃった、あの老け眼鏡?」
「老け眼鏡ってバカお前……! もうこれ以上何もしゃべんな!」
俺は木下にくぎを刺してから、恐る恐る木下の言う所の老け眼鏡の前へ赴く。
「お前は契約社員のくせに仕事もしないで女と一緒に俺の悪口とか言って満足か、あ?」
「いや俺じゃない、俺じゃないですって……老け眼鏡とか嫌味正社員って言ったのもあいつですって……」
今の俺の立場が非常に弱いことを痛感する。嫌な汗が出てきた。
ちょっと振り向いてみると、木下は遠巻きに俺たちを眺めていたが俺と目が合うと、
「わー、怒られてる怒られてる! こりゃ今夜の愚痴はこのことで決定だね!」
またいらんことを言いやがった。それから俺たちにとことこ歩み寄って、とどめをさす。
「いやー、嫌味正社い……じゃなくて、えっと、早川さんっての? あんまり昌史を怒らないでやってー! じゃないと昌史、その鬱憤を私の体にエロい方向でぶつけちゃうから! あっはっはっははー!」
「お前、もう何も言うなって言ってんだろー!」
呵々大笑とはこのことだろう、といった笑いを木下は作る。流石にこれは俺と同い年で正社員のくせにそっちの道を未経験な早川にも堪えたようで、眉間にしわを寄せながらこの男は言った。
「お客様、すいませんがこれ以上いらんこと言う前にお引き取りを……」
こいつもこいつでだいぶ頭にきて正常な思考および応対ができなくなってきているな。客を帰そうとするなんて、接客業らしくない物言いだ。
木下は口を尖らして、うえー、とか言っていたが、しぶしぶ踵を返して売り場から退場していく。
一歩、二歩、三歩、歩みを進めていく木下の背中を見て俺もほっと一息ついたが、もちろん木下はそんな風にあっさりと退くような女ではなかった。
急に振りむいたかと思うと、
「なんだよー! 変な眼鏡のくせにー! ばーかばーか! あんたの彼女二次元――! あはははははは――!」
盛大に叫んでからダッシュで逃げて行った。
(子供か、あいつは――!)
本当にあいつは俺と元同級生で二十三歳なのか。精神年齢でいえば六,七歳のような感じがするが。
ああ、早川なんか怒りで身をぷるぷるさせている。チワワならいいが可愛げのかけらもないこの男が震えていても気持ち悪いだけだな。
「あっ、すいません、俺バックからルミナス什器取ってきますわー」
もちろんそんな必要性はないが、この耐えきれない沈黙空間から退散する言い訳ならなんだっていい。そそくさと逃げ出そうとして、後ろからがっちり襟を掴まれた。
「寺尾、貴っ様あ……非正規雇用の分際で……!」
「わああー! なんで俺なんですか、あいつでしょ悪いのは! 痛い痛い超痛い!」
「あのあとこっぴどく怒られちまっただろが!」
「いやー、ごめんごめん! マジでごめん!」
両手を合わせて拝むようなポーズで、片目をつぶったいい笑顔で謝る木下。
「でも少しはすっきりしなかった? 昌史が愚痴ってる、きみの言いたいことを私が代わりに言ってあげたんだよ!」
「俺がいないところで言ってくれ!」
隣人の主婦が俺の大好物のカレーをおすそ分けしてくれなかったなら、流石にキレて乱闘騒ぎになるところだった。
「いやー、でもさほら」
木下はスプーンをいったん皿に置いてから続ける。
「言いたいこと、ため込んでること、たまには外に出さないと」
「……そりゃ、分かってる、分かってるけどな……」
「遠慮なしに言っちゃうと、色々後のことや人間関係が面倒で大変になるから、自分の気持ちにフタして我慢する、それで表向きだけは円滑に……ってのだって、もちろん大事だけどさ。そればっかじゃ心の中の堪忍袋的なものが、ぱーんって割れて、ついでにストレスメーター的なもんも吹っ切れて針がびんよよーんって飛んでっちゃうよ?」
擬音のたびにオーバーなアクションをする様子がコミカルだ。
「筋肉と同じでさー。伸ばしっぱなしも疲れるし、縮めっぱなしも疲れるんだよー、心ってのは。疲れたら病気になりやすくなって弱って、それでも休まずに無理を続けてたら壊れちゃうんだよ。んで、一度でも壊れちゃったら、壊しちゃったら、もう元には戻れないんだよ。元に戻そうとしても、一度暴走しちゃったら走りっぱなしで、自分自身を止められない」
「…………」
こいつは何も、バカをやっているわけでもない。
今も、そして七年前もそうだった、あのナチュラルハイなテンションも、そう言ったことの裏返しで、自分自身に負担をかけないようにとの配慮、ということ。
当時は気づかなかったが、こいつはきっとそんな奴なのだ。
だからこそ、真面目な時は真面目に語るのだ、今のように。
俺は、こいつのことが羨ましいと思っていた。
しっかりと自分を持って、自分自身の体調、それに心のリズムまできちんと管理して、言いたいことを言いつつも、やりたいようにやっていても、真面目な時は真面目だし、周りに合わせるときはきっちりと合わせていたし、今もきっとそう。
俺ではあと十年かかっても、その域には到達できないだろうと思っていた。
俺は不調法者だからな。
人間関係も上手く運べないし、仕事のストレスも上手く発散できず、毎日ダルさを引きずりながら生きているような、そんな不器用な人間だ。
目の前のこの完璧超人に比べれば、遠く及ばない――。
何もかもできる、この女には。
後に、実際は逆だと彼女は言った。