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潸潸-3

 翌日からリハビリが始まった。

 なんで足をやられたわけでもないのに歩くリハビリしなきゃならないんだ、と付き添いの美人看護師に聞いてみたら、

「刺された傷が腸まで及んでいるので、開腹手術をした後は歩く動作をしないと癒着ゆちゃくするんです」

 と感情のこもってない声が返ってきた。

 癒着ってなんだ。政治的なニュースで聞いたような気がしないでもない。

 ともあれ、手すりにつかまりながら歩くわけだがこれが結構きつい。

「ぬおおお……」

 思わずうめき声が漏れる。普段は何気なく行っている、歩くというこの行為がこんなにも不自由になるとは思わなかった。

 けれど、休んでもいられない。

(今は、一刻も早く退院して……)

 木下に元気な姿を、元気な顔を見せてやりたい。

 もう俺はへっちゃらだから、と言ってやりたい。

 お前も元気出せよ、と――。

 そう心に決めつつ、俺は全身全霊で重い足と身体を動かし、前に進む。

 すると――。

「あ……」

 目の前の階段を上がってきた一人の女と、目が合った。

 彼女はいつものラフな格好ではなく、少しだけきつめで暗色系の服を着こんで、その両手には何も持たずにいた。

「まさ、ふみ」

「……木下」



 俺は病室のベッドに戻って、話をすることにした。

 看護師には部屋の外で待機してもらっている。

 とはいえ、互いに沈黙してしまうこの空気で、俺は何をどうすればいいのだろう。

 とにかく、無難なところから話を持っていってみる。

「もう雨、上がったみたいだな」

「……うん」

 俯いたままの木下には、いつもの元気さはない。

 それどころか、俺があの雨の夜に目の当たりにした、本性むき出しの真っ暗な復讐鬼、というわけでもない。

 ただ、ただ元気がない。

 魂が抜かれたかのようにぼうっとして、俺の方も見ずに丸椅子に腰かけて。

 俺はあきらめずに、会話をしようと試みた。

「……ちゃんと食べてたか?」

「……一日、バナナ一本」

「俺の金で、なんか美味いもの食えば良かったじゃないか」

「……財布、触ってもいないよ」

「隣のおばちゃん、ご飯くれなかったのか」

「居留守した」

「…………」

 どうにも参ったな、これは。

 軽い会話から徐々に核心に行こうと思ったのに、なんともうまくいかない。

 いつものこいつなら、ひとたび会話を始めれば二時間は一人で喋りそうなものなのに――。

「あの……あれだな、救急車呼んでくれたんだよな」

 先日の早川の言葉を思い出して、そう言ってみる。

「ありがとな。おかげでまだ生きてられてるっぽいし」

 俺は礼を言うが、彼女の顔は冴えない。

「……自分の要領のよさが、あれほど嫌になったことはないよ」

「んなことないだろ、俺も誰も死んでないんだろ?」

 母親を殺したりしていないだろうな、という探りを入れつつ俺がそう訊いてみると、木下はぼそぼそと語る。

「昌史が倒れてから、私はすぐ携帯借りて電話して救急車呼んでさ、それが来るまでに包丁は埋めて隠してさ、彼氏が通り魔にやられたとか適当な嘘ついてさ。どんだけ狡賢ずるがしこいんだって話だよ。しかもそのあと、昌史の鍵借りて、私はあすこにずっと座り込んでた。死んで詫びればいいくらいなのに、のうのうと逃げて隠れてる自分が、嫌だよ……」

「…………」

 痛ましくて、見ていられない。

「木下」

「……なに」

 こういうことを言うのも、俺の柄じゃないが。



「俺、お前とまた会えて、よかったよ」



「…………」

「…………」

 長い沈黙の後、木下はぽつりと呟く。

「……どうして」

「あん?」

「どうしてそんなこと言うの!?」

 がたっと音を立てて、突然木下は立ち上がった。

 その拍子に、彼女の掛けていた丸椅子が後ろに倒れる。

「私は、私は昌史を殺そうとしたんだよ!? 大っ嫌いって言って、包丁振り回して、殺す気満々で昌史を追いつめて、んでもって思いっきりブッ刺して!」

 苦しそうな表情で、俺に詰め寄って。

 一応怪我人である俺の胸ぐらをつかんで。

 なおも必死に、彼女は叫んで。

「一歩間違えたら、ほんとに昌史は死んでた! 私が殺した! 私が、私がっ……! なのに、なのに……うっ、ひっく……!」

 掴んだ手は力なく落ちて。

「怨んでくれたほうが……憎んでくれたほうが……ずっと……ずっと……」

 彼女はまた、俺の意識が途切れる最後の瞬間に見た表情になっていた。

 美しい顔をぐしゃぐしゃにして、自己嫌悪と後悔をないまぜにして。

 潸潸さんさんと涙を流すのだ。

「どうしてかって、そりゃお前……」

 俺はそんな木下の短い髪を、ぎごちなく撫でて。

「……俺がお前に会いたかったからだよ。もう一度会いたかったからだよ。あのまま終わりなんて、嫌だったからだよ」

 台詞は少しも格好よくはないと思う。

 それでも俺はそう思っていたから。

 そうとしか思っていなかったから。

「……しも」

 うつむいた木下が零した声は、よく聞き取れなくて。

 もう一度言ってくれ、と俺が言おうとしたら――。

「わたしも」

 今度は聞こえる声で、震える声でそう言って。

 声だけでなく、体も震わせていて。

「私も! 私も……! 会いたかった……!」

 俺の体を抱いて、木下智子は子供のように泣き喚いた。

「昌史に、まさっ、ふみに……あ、あい、会いたかった……! あいたかったん、だよ……!!」



 個室でよかったと、心の底から思った。

 木下は五分近く、そうやって大泣きし続けていた。

 俺の体の上に乗っかられているため、腹の傷が痛んだのだがそれを我慢していたぶん、辛い時間だった。

 ようやく身を俺の体から降ろした木下は、今までに聞いたこともないような大真面目な声で、

「ごめん、昌史」

 そう言って、深々と頭を下げた。

「ごめんって一言で片付くことじゃないのは、重々承知してる。それでも……」

「謝らなくていい」

 俺はそう言って、木下の言葉を封じてやった。

「頭も上げろ。俺はそういうことをされるのには慣れてない。それに……」

 お前がそんなふうにしょんぼりしているのなんて、見たくない――。

「それに?」

「……なんでもない」

 それを言うのは何となく恥ずかしくなったので、俺は目をそらした。

「……とにかく、笑ってろ」

「…………うん」

 まだ少ししおれ気味だが、それでも精一杯笑ってくれた木下。

 その笑顔が俺の一番の薬だと、陳腐な表現ながらにもそう思った。



「なにしてたのかなあ、私」

 倒れた丸椅子を起こして、再度それに腰かけて窓の外を眺めながら、木下はそう呟いた。

「もう二十三だよ私。その人生のうちの九割以上が親と旦那の奴隷でさ、残り一割で何してたのかと言えば復讐のために動いててさ。やっとできた大切なものでさえ、そのためになくしちゃうとこだった」

 バカらし、と言って自嘲する木下。

「なーんにも、残ってない」

「…………」

「みんなからは完璧な人間だって言われるけどさ、実際はこのありさまだよ。昌史の方が、よっぽど完璧な人間だよ」

「お前の言う完璧って言うのが何なのか、俺にはやっぱりいまいちよく分からんな」

 俺は以前一度聞いたことを、もう一度聞いた。

「うーん……なんだろうね、完璧な人間ってのはきっと、ちゃんと人間をしてる人のことだって、私思う」

「人間をしてる?」

「少なくとも私は、人間やってなかった。やってたことと言えば、親の奴隷と旦那の奴隷。それは人間じゃないんだよ。あいつらの欲望を満たすために思い通りに動かされる、マリオネットかロボットでしかない」

「それはつまり、なんだ、言いかえれば、自分のしたいことを思う存分している奴が、人間ってことか?」

「それだよ!」

 にわかに木下は元気になって、パンと手を打ってから両手の人差し指で俺を指す。

「私は結局、金のために母親に無理やり勉強させられたり、欲やプライドのために父親や旦那にいろいろ酷いことされたり、何一つ自分のしたいことはできなかった。やっと産まれた、本気で自分で何かしたいって思ったものは復讐だけ。もっと他にやりたいことがいっぱいあったのに、あったはずなのに、それしか思い浮かばなかった」

「……そうか」

 木下は大きなため息をついて、俺に聞いてきた。

「私、これから何をすればいいのかなあ」

 と。

 そんな彼女に、俺はかけるべき言葉を探して――。

 しばらく考えて――。

「なんでもすりゃいいじゃないか」

「んえ?」

 そう言っていた。

「自分のしたいこと探して、見つけて、それに思い切り打ちこめばいいんじゃないか? 人間をしてるってのは、そういうことじゃないのか……ってまあ、俺もよくわかんないけどな」

 途中で恥ずかしくなって、俺は頭を掻いた。俺も二十三年しか生きていないのに、なにを知った風な口を利いているんだ、と思ったから。

(でも……)

 そんな俺でも、これだけは分かる。

 お前は、人間なのだから。

 間違いなく、ひとりの人間なのだから。

「まあ、まずはゆっくり休めよ。俺が退院するまでも、その後も、俺の部屋にいていいからさ」

「……いいの?」

「ああ、いいよ」

お前が今度こそ人間としてやっていけるためなら、俺はなんでも手伝うから。

 だから俺は、彼女の手をとって――。

「もう一度やり直そう、木下」

「…………」

 木下は黙って俺のことを、大きな瞳で見つめていた。

 ずっとずっと、そうしていて――。

 やがて堰を切って、そこからまた涙があふれた。

「…………ありがと……ごめんね……まさふみっ……ありがとっ……」

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