潸潸-2
「な……」
最初は、何かをされた、という感じがしただけで、何が何だか分からなくて。
次に一瞬覚えたのは、熱さで。
それから来た激痛が体を支配するのに、何秒もかかったような気がした。
痛覚を伝える左の脇腹を押えると、熱い奔流がべったりと手に絡みつく。
現実から逃げたい、目をそむけたいという思いが、切れ切れな言葉となって口から漏れた。
「嘘だ、ろ……」
(俺、刺されたのか……なんで……)
自分の名を呼んだ彼女は、その瞳に殺す意思が消えていたように見えたのに。
俺の言葉が届いていたと思うのは、自惚れだったのか。
急速に力が抜けていく。
まるで血とともに俺の体から流れ落ちて、この雨に流れて二度と戻らないかのように。
立っていられず、俺の膝は地面についた。
そんな中で、俺は必死に顔を上げて。
彼女を、確かめようとした。
「あ……れ……」
うつろな視界で、彼女の瞳が、瞳孔がゆっくりと開いたような、気がした。
「まさ、ふみ……?」
自分のしたことが、信じられないかのように。
その眼は、その表情は、ひどく怯えていて。
「え……嘘……こんな……」
声と身体は、握った凶器は震えていて。
(ああ、そうか……)
俺は理解した。
こいつを動かしていたのは、一番奥でこいつを動かしていたものは、復讐心ではなく――。
「怖かったん、だな……木下……」
「まっ、昌史! まさふみいいっ!」
彼女は包丁を再び取り落として、俺の体を抱きかかえた。
「違う! 違う……! 昌史、ごめん、ごめん……! こんなの、こんなの違うんだよ……!」
「いい……分かってる……怖かったんだ、って……」
皮肉なことだが、刺されて初めて分かったのだ。
「ああ、私、なんで……! 私、私……! 殺したくなんか……! ほんとは、昌史のこと、殺したくなんか……!」
先の叫びよりも、木下は激しく泣いて、叫んで。
降りしきる雨よりも激しく、真っ暗な夜よりも哀しく、潸潸と泣き叫んだ。
だから――。
「木下……お前は人間だよ……」
そんな彼女を、俺は救いたかった。
怯えて暴走した木下を、どうにかしたかった。
やっと、分かったから――。
「俺のこの痛みも、お前の涙も、全部、お前が人間だって証だ……」
だって――。
「そんなに感情的なロボットや道具が、いるわけないじゃないか……」
痛みは堪えられない。
死ぬのかもしれない。
でも、それでも。
俺の命を削ってでも、今、言わなくてはならない。
「自分が自分で……あることを求めて……感情のまま……正解を探して、もがきながら生きる……それが、それが……人間ってもんだろ……そうじゃなかったら、いったいなんだってんだよ……」
「昌史! 昌史……!」
「頼む、木下……」
俺はここで終わりかもしれない。
死んだら、その後のことなんて知るすべはない。
木下がどんな道に進もうが、先ほど彼女が言ったように、それこそ関係なくなる。
それでも、そうだとしても。
「これ以上、その業を背負わないでくれ……不安になったら、俺のことを、俺の言葉を思い出してくれ……」
意識が遠のいてきた。
もう、きっと俺は死ぬ。
だから、最後の最後の力を振り絞って、こいつを救おうと試みた。
「もっぺん言うから、よく聞いとけよ……」
「昌史! いやあ! 死んじゃいやあ! 私が悪かったから……なんでもするから、どんな償いでもするから、だから……だから死なないでえっ! お願い、お願い……!」
俺の体が激しくゆすぶられた。
視界がゆっくりと、真っ暗に染まっていく。
木下の泣き叫びと体温、そしてぽたぽたと降ってくる涙が、最期の俺を包みこんでいた。
「おまえは……にんげ……ん……」
そして俺は力尽きて、何もわからなくなった。
目が覚めると、俺はどこかのベッドで仰向けにされていた。
(そうだ、確か俺は木下に刺されて……)
意識を失ったのだ。
俺の名を何度も叫ぶあの声が――。
雨と一緒に涙をはらはらと落とすあの表情が――。
恐怖により暴走した、あの木下が――。
俺の脳裏で再生された。
ふと、考える。
(俺は……生きているのか?)
それともここは、死後の世界なのか――。
どちらなのか判断を下す前に、コンコンと戸を叩くような音がして、その時はじめて、ああ、この空間には扉があったんだな、と間抜けに考える。
(木下……だろうか)
今、彼女に会って、俺はなんと言葉をかければいいのだろう。
彼女はこんな俺に、何と言うのだろう。
心の準備もままならぬまま、俺がその方向――扉に視線を向けると、扉がすっと開いて外から人間が一人、入ってきた。
「きの……」
が、そいつは俺が名前を言いかけた人間とは違った。
「木下と、思っていたら、違ってた……」
「一句詠めるとはなかなか元気そうじゃないか、さすが泥臭い非正規雇用人間だ」
早川だった。嫌味正社員の早川。正直、会っても会わなくても、どうでもいいような奴だった。というか、雇用形態と生命力は関係ないだろう。
(俺は……生きているのか)
ちなみに先ほどの言葉がたまたま五・七・五だったのに、そいつのおかげで気づかされた。これもどうでもいい。
早川は仕事の時と変わらぬスーツ姿で、その格好には似合わないフルーツ入りのバスケットを片手に持っていたが、それは俺のそばのテーブルに置いて話を始めた。
「お前のせいで、一時間仕事を抜けて店長の代わりに俺が見舞いに来てやったんだ。今、売り場は主任一人。まったく、大幅に仕事の効率が落ちる。しかもお前、マウンテンバイクフェアも近いってのにこんなときに……」
「俺が逆の立場なら、仕事を抜けられるってことに大喜びっすけど」
「ふん、気楽な契約社員らしい物言いだな。まあいい、本題に入るぞ」
早川はどっかりと丸椅子に座って足を組んだ。
「通り魔にやられたんだってな。正直、どの程度の怪我だったのか教えろ」
早川は言いよどむこともなく、そう言う。
一方で俺は、覚えのない存在を会話に出されて戸惑った。
「……通り魔……っすか?」
(あれ……俺は木下に刺されたんじゃなかったっけ……俺は長い夢でも見てたのか? いや……)
俺が悩んでいると、早川は眼鏡をくいっと上げてから補足した。
「通り魔にやられたんじゃなかったのか? 俺も医者からそう聞いたんだ。そして医者は、お前の『彼女』がそう伝えた、と言っていたが?」
(ああ……)
なるほど、あんな状況でもよく頭の回る女だ。
俺が倒れてから救急車を呼んで、『彼氏が通り魔にやられたんです』とかなんとか言って、その場の事なきを得たのだろう。
「……ええ、そうです、あいつと歩いてたところを前方からすれ違いざまに……」
俺はそれに合わせることにした。
そのほうが、いろいろ楽だろうから。
「ならいい。で、どれくらいかかるんだ、リハビリに。手術は終わったんだろう、そう医者から聞いている」
手術ももう済んでいるのか。俺が寝ている間に――。
「いや、その……俺もさっき目が覚めたばかりで、なんとも……ってか、今は何月何日なんすか?」
早川が伝えた今の日にちは、俺が刺されたあの日から二日後、とのことらしい。
「そんなに寝るとはいい度胸だな。俺は一日四時間も寝れてないってのに」
「しゃあないでしょうが……俺だってあのときは永遠に寝るのかと覚悟決めたくらいですよ」
その時は冗談抜きでそう思った。
「馬鹿野郎。お前に死なれたら仕事が回らないだろうが。お前がいなくなると遅番の要がいなくなる。あの二人のバイト学生はまだ役立たずだしな」
「その言葉、一応俺を案じてくれるものだと受け取っときますよ」
俺がそう答えると、早川は頭をぽりぽり掻きながらため息をついた。
「……ったく、ついでだからお前の怪我も考慮に入れ、早いうちに来月度のシフトを調整しようと思って来たのに、とんだ無駄足だったな。退院の日取りが決まったら即報告しろ。さーて仕事戻るか、あー社員は忙しい忙しい……」
ぶつぶつ言いながら、早川はさっさと部屋の出口へ行ってしまった。もう来ないでほしい。
「……あ、そうだ」
俺がそう願っているのに、早川は足を止めて、俺を振り向かずに言った。
「お前の彼女……って言っていいのか? とにかく、あのムカつく女と病院の入り口ですれ違った。そのとき、少し話をしたんだが……」
俺の中のセンサーのような何かが、びくっと反応したような気がした。
次に紡がれる早川の言葉を、聞き漏らすまいと全神経が傾く。
「もし俺が病室に入ったとき、寺尾が起きていたら……」
また黙る早川。
(早く! 早く言え!)
俺は心の中で急かす。
聞きたいんだ。
木下の言ったことを、その内に込めた思いを。
たっぷり二十秒ほどかけて、早川は重たそうに伝えた。
「……『また来る』って伝えてくれ、と言っていた」
「…………」
早川はそのまま部屋を出て行った。