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潸潸-1

 ぎらつく包丁を目の当たりにして、俺は地に根が生えたように動けなかった。

 カツアゲとかで、不良学生が金目当てにナイフを突き付けて脅すとか、そんな陳腐なものではない。

 木下は、本気だ。

 本気で命を狙い、奪い取る気だ。

 俺も、あるいは自分の母や旦那も。

 自分の嫌いなものすべての命を奪い取って、自らの命もそのあと散らす覚悟が、死んだ目に宿っている。

 恐怖感か、焦燥感か、降り続ける雨の雫に紛れて冷や汗が俺の顔を伝う。

 俺がこれ以上、『綺麗事』を一言でも言ってみれば、すぐさま刃の切っ先が咽を穿つだろう。

 だが、それでも何かを言わなければ――。

 このまま膠着が続いても、状況がいい方向に転がることはないのだから。

 俺が頭を必死に回転させて、彼女を刺激しないような言葉を考えていると、向こうのほうから、木下の薄い唇が、動いた。

「――どうしたのさ、昌史」

 もはやあの時の――元気いっぱいな彼女は死んだかのように、今俺の耳を撫でていったその言葉、その口調は降りしきる雨粒すら凍るかと思うほど冷たい。

「何が怖いの? 包丁? 私? それとも……死ぬのが? ……怖い、の?」

「……どれでも、ねえよ」

 俺の声は震えていた。情けないとも思ったが、そんなことを気にしているほど余裕もない。

「俺が怖いのは……本当に怖いのは……」

 目の前の包丁は、それを持ちあげて維持したままの彼女の腕は微動だにせず、俺の喉を狙い続けている。

「お前をそうまで駆り立てる、お前の業だよ」

「……は?」

 木下は、何のことかわからないような表情を作った。

 俺だって業がなんなのか、と聞かれたら正確に答えられる自信などない。

 だが、目の前のこいつはあきらかな業を背負っている。

 それは重すぎて、哀し過ぎて、一人の女が背負える分ではない。

 それでも彼女は必死に耐えてきて、そしてついにはその業に耐え切れず、罪人つみびとへと身を落とそうとしている。

 業が人間を罪に染め、そしてその人間の中で業がますます深くなる。

 業はすべての生き物が背負う。業のない人間などいない。

 ただ、この木下がなりかけているそれのように、罪と盲執に染まったどす黒い業は。



 ――背負わせたくない。

 それがただの、俺の傲慢だとしても。



 だから、俺は言おうとした。

「木下、包丁をおろせ。お前の業、それ以上一人で背負う必要なんか――」

「やめてよ!」

 言いたいことはまだ半分しか言っていないのに、俺の言葉は途中で切れた。

(…………!)

 避けられたのはたまたま、本当に偶然。

 つい半秒前にそこにあった俺の眼窩を、木下は何のためらいもなく突いて。

「もういい! それ以上何も聞きたくない! やっぱり昌史は嫌いだ!」

 頭をぶんぶん振って、何かを振り払うようにして叫んで。

「みんな殺してやる! 親も、旦那も、昌史も! みんな私の敵なんだから!」

 ピウピウッ、と目の前の空間が十字に切り裂かれる。

「や、やめろ! 落ちつけっ!」

 俺の恐怖心が一気に跳ね上がった。

 脅しとして凶器を用いる、といったものではなく、純粋な殺意でこいつは得物を振るって俺に襲い掛かってくる。

 俺は後ろに跳んで、とにかく距離を取ろうとするが、当然木下もその分距離を詰めて追いかけてくる。

「あいつらは! あの腐った母親や父親、そして旦那も! 法でなんて裁いてられない! 私がじかに殺さなきゃ、絶対納得いかない! それを邪魔する奴も、みんな同罪!」

 包丁を振り回しながら俺に向かってくる彼女は、言っていることがもう滅茶苦茶だ。

 おちゃらけた口調ですらすら正論を吐く、いつものあの木下とは全く別物、別人。

 いや――。

 この、目の前の彼女のほうが本当で――。

 いつも見ていた彼女は、偽りで――。

「待て! 待てって! 話を聞……!」

 気が狂ったとか、キレたとか、衝動でとか、そんな生易しいものでもない。

 まるで殺戮マシーンのように明確な殺意でもって、彼女は喉や頭や心臓といった、それこそ致命傷になりそうな所ばかり狙ってくる。

 その分、動作がある程度は予測できることと、雨で足元が不安定ということが俺にとっては助けとなっていたが、いつまでもこうして避け続けるわけにもいかない。

 俺はとうとう背を向けて逃げた。

 殺意をあらわにしたこいつは、逃げても逃げても追ってくると分かっていた。

 逆に言えば俺が逃げている間は、こいつは矛先を彼女の親には向けないだろう――と踏んでのこと。

 大通りまで出れば――。

 が、こいつは運動も達者だということを忘れていた。

 その上、殺しの動作の連続でアドレナリンでも分泌されてきたのか、もう雨に足を取られない滑らかな動きで俺の前に回りこんできた。

(マジかよ! ありえねえ!)

 驚愕する暇もそこそこに、再び包丁を突きつけられる俺。

「どこいくのさ、昌史! そんなに殺されるのが嫌なら、どうして私の邪魔をしようなんて思ったのさ! でももう遅いよ、昌史はここで死ぬの! 私の敵だって分かったから!」

 叫んだ木下は、包丁を持っていないほうの左手をぬっと伸ばして俺の襟首を掴んだかと思うと、女とは思えないような力で俺を引き寄せてから、再度突き飛ばすような動きとともに俺の足を払って見事に俺を仰向けにすっ転ばす。

 バシャッ、という音とともに背中が一気に水に浸され冷たさを覚えたが、不快感を覚えている余裕などなかった。

 死が、すぐそばにある。

 俺に馬乗りになった木下が包丁を振り上げ、短い予備動作で俺の喉に狙いを定めていた。

(くっそ……! 女を殴るなんて最低だが……!)

 背に腹は代えられない。

 包丁を持った彼女の右手が浮いているぶん、俺の左手が自由だったのが救い。

 この一秒間に心の中で十回はこいつに謝ってから、俺は全力の三割くらいの力で木下の頬を平手打ちした。

「いったいなあ!」

 痛いのは俺の心もだ。生まれて初めて女を殴ってしまったのだから。

 だが拘束が解けた。このまま武器を奪い取れば、あとはなんとかなる――。

 俺は木下をそのまま突き飛ばしてから立ちあがって体勢を整えようとするが、向こうのほうが早い。何のためらいもなく喉への一突きが飛んでくる。

 腕を使って致命傷だけを避けようとして、その腕を包丁が掠めていった。

 痛覚とともに、雨とは別の感覚の液体が腕を伝う。

 血が流れ出すのが、分かる。

(痛ってえ……! なんだよ刃物ってやつは! なんで掠っただけでこんな痛いんだよ……)

 あんなものをまともに食らったら死ぬ。

 死という巨大な文字が、痛みを通して脳に現れてきたように思えた。

 頭の中に「死」の一文字がぐるぐると動いて――。

 だけど――。

(死ね、ない――)

 もし俺がここで、今も俺に向けて振り回される木下のその凶刃にたおれたら。

(俺は、死ねない――)

 復讐に取りつかれて修羅となった木下を止める者が、いなくなる。

(そしたら、誰がこいつの業を救ってやれるんだよ――)

 俺を斃して、障害のなくなった木下は、これまた何もためらわず、母親を殺してしまうだろう。

(俺がお前の業を……断ち切ってやる――)

 母親だけではない、自分の夫を、出所してきた自分の父親を、殺し続けて。

 殺人の業を、殺人の罪を、重ね続けるだろう。

 殺して殺して、殺す相手がいなくなった後、お前はどうするつもりだ。

 何が残るんだ。

 人殺しはよくないことです、だなんて道徳的なことをほざくつもりなどない。

 ただ、単純に。

(お前にはそんな業、似合わないから――)

「俺はお前が人を殺すのを、見たくねえっ!」

 雨の中、ぎらつく刃を前に、俺は叫んで。

「どうして!」

 木下もまた、叫び返す。

「殺さなきゃ、殺さなきゃいけないんだよ! だってそれ以外に、私は、私は――!」

 包丁を持った手が、下りた。

「自由になりたいとか、そんなことは考えてない! だけど、あいつらが生きている限り、私は人間になれない! 父親の性欲処理道具でもなければ、母親の遊ぶ金を稼ぐ機械でもないし、旦那のプライドを満たす玩具おもちゃでもないんだよ!」

 叫びが、悲痛だ。

「私は、私は……! ……人間、なんだよ……! 誰かの道具じゃないんだよ……!」

 雨が彼女の髪を、頬を、体を濡らす。

 それとは別の雫が、分かりにくいけれど確かに流れ落ちていて。

「もう、もう疲れたんだよ……! だから終わらせたい、あいつらを殺して終わらせたいんだよ……!」

 叫びは途中から訴えに変わり、そして慟哭に変わっていた。

 誰にも打ち明けることのできなかった苦しみを、こいつは今俺にぶつけている。

 俺を嫌いだ、俺を殺してやると言いつつも、そこには必ず、俺に何とかしてほしい、という思いが少なからず込められているはずだった。

 だからこそ、俺は――。

 そんな木下がいたたまれなくて、俺は一歩彼女に歩み寄った。

 彼女は一度下げた包丁を今度は両手で持って、俺に突きつけて叫ぶ。

「やめてよ! 来ないでよ! 昌史なんか嫌い……!」

「お前に嫌われても構わない……! けど俺は、お前が、お前のろくでもない親のせいでお前の人生を台無しにされることを望んでない! せっかくの、お前の人生だろうが……!」

 俺の足はがくがくと震えているし、言葉もしどろもどろになっている。

 そんな状態で、ひとりの女を説得しようなんて、はたから見たら笑える光景でしかないかもしれない。

 けれど、俺はこいつを止めたかった。

 何とかしたかった。

 そのまま見送って、終わらせることはどうしても我慢できなくて――。

 すると木下は包丁を少しだけ下げて、不思議そうな顔をする。

「……なんで? 昌史、ここで死ぬんだよ? 死んだら、その後のことなんて関係なくなるよ? なのになんでそんな意味無いこと言うの?」

「さあな、俺にだってわかんねえよ……」

 ただ、俺はこいつのことが――。

 それは、俺の中で確かで、きっと死んでも変わらないから――。

「なあ、木下……お前は本当に俺を刺せるのか? 刺して、殺して、満足するのか? 殺したいのか? 本当はもっと、他にやりたいことがあるんじゃないのか……? それは今すぐには分からなくても、生きてるうちに見つかるかもしれないじゃないか」

「やめてよ……」

「木下……」

「やめてってば! これ以上私を迷わせないでよ!」

 木下は包丁を取り落とした。ぱしゃ、と小さな音がする。

 そしてそのまま、彼女は頭を抱えてしゃがみ込んで、呻く。

「うううう、うあああ……!」

「…………」

「昌史……私は、どうすれば……」

 屈んだ体勢で、俺を見上げる木下。俺はそんな彼女のすぐそばまで歩み寄って、言葉をかけた。

「木下、心配すんな……俺が、俺がいるから。またもう少し、あの部屋で面倒みてやるから……」

「まさ、ふみ……」

 そう言いながら俺が彼女の両肩を支えたその時、俺は気づいていなかった。

 木下の瞳を見て話していたせいで、彼女のその手が、地に落ちた包丁を再び握っていることに。

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