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怨嗟-4

「一昨年の、さっき言った就職内定をもらった頃、私はこの町に半年くらい住んでいたことがあるんだ。なんでかって言うと、さっき言った父親が逮捕された件でね。金のことになると頭が働くあの最低な母親は、父親から取れるだけの賠償金を絞り取ってから離婚した。そして、私を連れてこの町へ引っ越した」

 理由はおそらく、前の町にとどまり続けていたら世間体が悪くなり、後ろ指を指されるからだろうな、と俺は思った。

「母親と私の二人暮らしでね、さすがに二十歳過ぎた私をあいつ一人で暴力で支配することはできなくなったせいか、あいつはいずれ、金、金、金を稼げないなら死ね、みたいに四六時中言うようになってった。でも、暴力を受けてた時に比べたらだいぶマシで、仕事貰ってお金稼げるようになったらさっさと出て行こう、って決めてた」

 ちなみに、私が貰った仕事は化粧品会社の幹部候補生で、弁護士じゃなかったけど年収教えたらあの守銭奴は納得したんだよ、と木下は付け加えた。

「でもね、金に汚いあいつは、私が逃げようとしてることを読んでたらしくてね。そうはさせるかとばかりに、新たな枷をはめてくれたんだ。それが、旦那という存在。知らないうちに無理やり結婚させられていた旦那が、母親に代わって私を縛りつけるようになった」

「……相手のその旦那は、お前と結婚することは本意だったのか?」

「本意だよ。明らかにそうだった」

 もう名字も変わっている木下は、シニカルな嗤いで答える。

「その旦那は、私と結婚した当時は四十三歳だった。その時二十一歳だよ、私。あいつはむしろ、母親に近い年齢。旦那は母親に見出されたんだよ。経営コンサルティングで年収が1100万。若さや人柄なんかより、金大好きの母親にはたまらない相手だったね。しかも、そいつは顔がものすごく醜かった。頭は雲脂ふけまみれだったし、近寄ると体臭と酒が混じった嫌な臭いがするし、おまけに私よりも背が低くて、腹が出てるような酷い体型だった。今まで一度も、女に縁がないみたいでさ。劣等感の塊みたいな男だった」

 俺は何も言えない。

「母親ったら、その旦那になんて言ったと思う?」

「し、知らねえよ……」

「ま、私も後から旦那に聞いたんだけどねえ。娘を好きなようにしていいから、あんたの収入と智子の収入、自分によこせって。その代わりどんなことだって、娘にやってしまっていい、って。人を人とも思わない、最低な物言いだと思わない? それで、女に縁がなくて劣等感の塊が、それに喜ばないわけなくてね。だから、あいつらの間で結婚の話は勝手に進んで、気づいたら籍も入れられてた。面倒な手続きは、全部その旦那がやってたよ」

 木下は息継ぎもそこそこにそこまで語って、深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐いた。

「私は入籍しちゃった後、荷物持って、気落ちしたまま初めて旦那の家に行って、玄関を開けてそいつと会って、びっくりしたよ。いきなり涎を垂らして、息荒げてて。そのまま掴まれて、寝室まで連れてかれて――」

「木下?」

 急に黙る彼女。

 雨の降り続ける、真っ黒な空を仰いで、固まっていて――。

「わた……しは……」

(な、泣いてるのか……?)

 夜で視界が悪いうえ、雨のせいでさっきからずっと、互いの顔面には水滴が流れ落ちているせいで、分からない。

 けれど、今までとははっきり違うもの――。

「奴隷で、道具で……旦那と母親の、物なんだって……そんなふうな、酷い暴言と、鼻がもげそうなほどの体臭に包まれて、旦那は私で……して……それから、毎晩毎晩、そんな調子で……足腰も立たなくなって……逆らうと殴られて……始まった仕事も、全然うまく行かなくて……それでも稼いだお金は、旦那を通じて母親に取られるし……せっかく逃げられると思ったのに、それこそ今までで最悪の暮らしで……」

 切れ切れに、かすれた声で、彼女はそう言いながらうつむく。

「そんな生活に……私……もう我慢できなくて……」

「逃げて、来たのか?」

 うつむいたまま、小さく小さく、木下は頷いた。

「あるだけのお金持って、旦那の家を飛び出したのは、半年くらい前。クリスマスの頃かなあ。町はあんなに楽しそうなのに、私は一人、どこへも行けずにうろうろしてさ……日雇いで働いてたこともあったけど、もう何も残ってないせいか、何してもつまんなくてさ……自分が何したらいいのか、分かんなくて……だから、決めたんだ」

「……復讐、をか?」

「……うん」

 ようやく、話が繋がってきたかのように思えた。

 この町には木下の母が住んでいて、木下も一時はここにいた。

 だが彼女は結婚することになってこの町を離れて、旦那のもとで酷い目に遭って、逃げてきた。

 行くところも帰るところもない木下が思いついたのが、この町にいる母親への復讐――。

 一方で俺は仕事を始めた二十歳くらいからこの町に住んでいたから、彼女と俺が同じ町にいた時もあったはずだ。

 もし、もしその時に俺がこいつに会えていれば、もしかしたら木下は、ほんの少しは楽になれたのか――。

 それは、考えても詮無いことだけれど。

「そう言えば、警察来てたね、昨日。私のことを家出人として、探させた」

 俺ははっと気づいた。

 民事事件にもかかわらず、警察が動いたこと――。

「自殺したがってる家出人は警察が動くんだって? 旦那や母親には、逃げた私がそう見えたのかなあ」

 届出を出したのは、母親か旦那のどちらかだろうか。

 彼女を大事にしている、母親と旦那。

 大事にストレス解消し、大事に自分の劣等感をぶつけるような、なくてはならない娘を「心配」しているから、という理由か――。

 俺がそう思っていると、木下はくつくつと嗤って続けた。

「私はね、もしかしたら復讐以外にもやれることあるんじゃないか、って思ったこともあったんだ。だから、旦那のもとから逃げても、今まで半年くらい、のらりくらりやってきてね。何か探そうとした。けど、やっぱりダメなんだ。憎しみは憎しみしか生まないから」

 それは先ほども聞いた。

 つまり、憎しみまみれで育った木下は、憎しみでしか生きられなくなってしまった。

 それ以外のことを考える余裕もなく、ただそれのために、ということか――。

「そのうち、お金もなくなって、それまでは漫画喫茶に泊まってたりしてたんだけどそれもできなくなった。だから、もう死んじゃおうって思った。あいつ殺して、それで私も死んで……」

 ぐっ、と唇を噛む、目の前の女。

「昌史と会ったのはそんな日の夜だった。私は覚えてた。高校時代、あんまり接点なかったけど、私の無茶なお願いを一度だけ聞いてくれた、それをあの時思い出した、だからなにかを求めていた、また無茶言って昌史の家に転がり込んだ!」

 彼女は徐々にトーンを上げ、言葉の後半は猛烈な勢いでまくしたてていた。

「木下……」

「でも、結局! 私は、憎しみでしか生きられなかった! 昌史と一緒にいても、昌史とご飯食べたり遊びに行ったり、セックスしたりしていても落ち着かなかった! やっぱり復讐のことしか考えられなかった!」

「…………」

 こいつにはもはや、復讐しかない。

 それ以外のことなど、こいつにとっては何の価値もないのだ。

 彼女の告白を聞いて、俺でもそう思えた。

(……どうする?)

 もし、俺が木下のこの事情をおおやけにしてしまえば、母親や旦那をどうにかすることができるかもしれない。

 だが、彼女はそれを望んでいるだろうか。

 法の下で裁かれることに、満足いくのだろうか。

 賠償金や服役という結果を目の前に出され、こいつの心はどれほど動くだろうか。

 きっと――眉一つ動かさない。

 彼女は、それでは救われないだろうと思った。

 こいつのどす黒い性根は、死んだ瞳は、形而上けいじじょうの結果をちらつかされたところで何一つ変わらない。

 けれど、だからといって自分の親を殺したところで、彼女にはその先がない。

 それを本人でも十分に分かっているからこそ、『殺した後に私も死ぬ』と言い、そこで自分という存在、自分の人生を終わらせようとしている。

(そんなの、哀し過ぎるだろうが……)

 それは、それこそ木下智子という人間の一生が、親のために存在していたことになってしまう。

 自分が何一つできずに。

 やりたいことも何一つできずに――。

 そんなふうに生まれ、そして死ぬだなんて、あまりにもいたわしい。

「昌史……私は哀れな生き物だよ……」

 右手の包丁を高く掲げて、木下は呟く。

「全てを失った、いや初めから与えられなかった、そんな私にできることは、私のやれることは、もうこれしか残されてない。服役してる父親を除いて、全ての元凶の母親と、旦那を殺すことしか、私にはない」

 思いつめた表情、思いつめたまなざし。

 止めることは、俺にはできないのか――。

「あすこでねえ」

 木下は顎をしゃくって、俺の背後の空間を包丁で示す。

「今頃母親は、酒飲んで寝てるよ。昔から、雨の日には外に出ずに酒飲んで早く寝ちゃうのが、うちの母親だから。こないだの雨の日も、それを狙って殺そうと思った。でもそのとき、旦那が母親と話してるのが見受けられたから、手が出せなかった。きっと私のことで相談に来てたんだろうねえ。でも今日は、旦那はあの家に来てないことが、もう分かってる。もう今しかない。あいつ殺して、旦那の家に引き返して、旦那も殺して、そのまま私も死んでやる。それでいいんだよ」

 木下はそこで言葉を切った。濡れに濡れた体を引きずって、俺の横を通って背後へ抜けようとする。

 すれ違いざまに、彼女は呟いた。

「さよなら、昌史。……もし私が死んだ後で誰かに何か聞かれても、私のことは『殺人なんかするような人には見えませんでした』ってありがちな感じで答えてくれると嬉しいよ。昌史にまで、罪に染まってもらいたくない。だから無関係を装うといいよ」

「…………」

 ずる、ずる、と雨を吸った重たい音が徐々に遠ざかっていく。

 俺はそのまま、金縛りに遭ったように動けなかった。

 怖くて、辛くて、苦しくて――。

(木下が、さんざんつらい目に遭ってきたのはわかった。だから復讐して、自分を酷い目に遭わせた奴を殺したいってのも、分かる)

 だけど――。

(それが本当の木下の望みとは、俺にはどうしても思えない!)

 なぜなら――。

(そんなに悲しそうな目で、死んだような目で語る目的が、本懐なはずはない!)

 だから――。

「木下!」

 そう叫んで俺は駆けだし、彼女の前に回り込んだ。

「やめるんだ、木下」

 俺は包丁を持ってゆるゆると歩く木下の前に立ちふさがり、ばっと両腕を広げた。そんな俺に対し、木下は静かに訊く。

「……どうして」

「お前の事情はよくわかった。お前がつらい目に遭ったのもわかった。でも、だからこそお前は、お前の親を殺すな」

「……やだよ」

 そう言われると思っていた。

 けれど、俺も今回は黙っているわけにはいかない。

「お前が親を殺しても、なんにもならない! お前に罪がのしかかるだけだ!」

「だから、その後に私もサクッと死んじゃえばいいんだよ! それで全部が終わ……」

「そんなもんで、終わるなんて思うな! それ以前に、お前はまだ何も始めていないだろうが! 始まってないのになにが終わりだ!」

「…………」

 俺も興奮していた。

 そんな俺の剣幕に圧されたのか、木下は一瞬だけ黙った。

 けれどすぐに彼女は、その整った顔を歪めて――。

「な、なんだよう、昌史は! 私が親を殺すのが気にくわないの!? 昌史はあいつらの味方だって言うの!?」

「違う! 俺はただ単純に、お前に――」

「……っ、わああああああああっ!」

 木下は突然耳をふさぎ、細い体をめいっぱい折って叫んだ。

「もうやだ! 昌史はそうやって邪魔するんだ! 綺麗事言って、私があいつらを殺すことを止めようとするんだ!」

「待……」

「昌史なんか嫌い、大っ嫌い! 昌史なら、わかってくれると思ってたのに……もうみんな嫌いだああああ!」

 木下は泣き叫んでいた。

 そしてそのまま、俺の喉元に再度包丁を突き付けて。

「殺してやる! 大っ嫌いな昌史も、母親も旦那も、みんな嫌いだから殺してやる!」

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