怨嗟-3
「その信念は、今でも曲がることなんてない。今まで一瞬だって、忘れたことはなかったよ」
そこまでをひとまず語って、木下は一息ついた。
「私は、あいつが毎日酒を飲んで、ダラダラ暮らすために必要なモノでしかないってこと、よく思い知らされた。そのためだけに生かされてるってこともね」
「…………」
既に濡れていないところのない木下は、声まで冷え切っている。
それは下がった体温のせいか、それとも――。
「憎いよ、ホントに私は、母親のことが憎い。でもね、憎むべきはそいつだけじゃなかった」
まだあるのか。
ああそうか、こいつはさっき、ろくでもない父親とろくでもない母親との間に生まれた、と言っていたからな――。
「そうだよ、昌史の考えてるように、私は父親も憎くてたまらない。母親をやったら、次は父親を殺すつもり」
「な……」
木下は、今度は嗤わない。
ぽつりと呟くように、うつむいて小さく漏らした声は、雨の音に消されかけて、それでも俺の耳に入ってきた。
「十二歳の誕生日、私は父親に襲われて犯された」
それから、木下の口からはその惨状が長々と語られた。
俺はその凄惨な事件に、口をはさむことができないでいた。
親子間でそんなことが――など、今の俺では知りもしなかった世界で。
しかもその根底にあるものが、先の彼女の口からも語られた憎悪の念であるということも。
「憎しみだってさ。私が要らない子だから、憎いんだってさ。その憎悪を、殴ったりすることではなく、そっち方面で、父親は私にぶつけたんだよね」
やがて一しきり語り終わってから、木下はふうと息をついて。
「私だってさ、そんな風に生まれて育ってきてもさ、時には少女漫画の主人公みたいなこと思ったりするんだよね。初めては……ってさ」
「…………」
「それがなに? 現実はこんなんだよ!? しかも一度や二度じゃない、何度も! 母親の目を盗むようにさ!」
声を荒げて、木下は吼えた。
「母親と父親はともに私のことが要らなくて憎くて、それでいていがみ合って! で、お互いにお互いのやり方が気にくわないんだよね! 父親から見れば暴力をふるう母親が嫌いで、母親から見れば無理やりする父親が嫌いで! いつからか二人は、互いの知らないところで、見てないところで、交互に私を酷い目に遭わせてった! 誰が一番憎しみを募らせると思う!? 私だよ!」
大雨以上の音量で怒鳴って、それからその反動のように彼女は黙りこくった。
「……あいつは、私にそんなことしてからタガが外れたのかな。仕事もろくにしないようになって、私だけじゃない、他の女と色欲に溺れたりしていった。そうすると金が入ってこなくなるよね。だから母親は余計苛立って、あるとき、とんでもないことを私に言ったんだ」
「……な、なんだよ」
「お前も弁護士になれって。弁護士になって金を稼いで、ここまで育ててやった私の恩に報いろって。そのために今から勉強して、成績はトップじゃなかったら許さない、って。お金稼げる仕事、弁護士くらいしか知らないんだろうね、あいつは」
「…………」
(まさか……こいつが成績トップだったのは……)
俺の心の声に答えるかのように、木下は言葉を続けた。
「私が成績で一位だったのは、才能でも、たまたまでもない。努力に近いけどそれも違う。ただ、一位じゃないとさんざんに殴られて、蹴られたからなんだよね。でも、従うしかないじゃん!」
言葉の最後でまた大声を上げて、木下は叫ぶ。
「当時私は中学生だよ!? 逃げる場所もないし、殺したとしたって少年院に放り込まれるだけだよ!? そのあと出てこれたとしたってどうすんの! この国は何も保証してくれないよ! 罪を侵したお前が悪いんだろ、で片付けられちゃう! じゃあどうすりゃいい、黙って従うしかないじゃんよ!」
「お、落ち着けって……」
俺がそう言うと、木下は一足飛びで俺に詰め寄って胸ぐらをつかんだ。
「落ち着けっていうの!? 私がどんだけ辛い思いしたか、まだ全部言ってないのにそうやって落ち着けって言うの!? きみはなに、どこの一流カウンセラーなの!」
女のそれとは思えない力でがくがくと揺すぶられ、俺は傘を取り落とした。
瞬間、冷たい雨が一気に俺の体中を濡らして、体温を下げていく。
「いっとき、あまりに耐え切れなくて友達の家に逃げて泊まってたんだよ! でもほら、母親は私のこと大事にしてるじゃん! 大事に大事にストレス解消してるじゃん! 次の日に見つかって、その場で、友達の前で思い切り殴られて蹴られて、挙句に下駄箱に顔を叩きつけられて前歯も折れたよ! それからどうなったと思う!? 私は学校で、関わっちゃいけない人間ベストワンにノミネートされたからね! その子も二度と口をきいてくれなくなったよ! あいつ本人の望まない形で、私はひとりぼっちで勉強するくらいしか辛さを忘れられなくなったもんね! よかったねえ!」
光を失った彼女の眼が、今度は血走っている。正気の顔ではない。
もう、暴走が始まっていて、俺にはどうすることもできないのか。
「憎しみは憎しみしか生まない」
俺の襟首を離して、木下は言った。
「私を憎んだ母親は私に暴力を加えて、その過程で私は母親を憎むようになった。私を憎んだ父親は、その憎しみのはけ口を私の体にぶつけて、その過程で私は父親をも憎むようになった。父親と母親は互いに憎しみ合って、その感情の行き先はすべて私に向けられた。私が両親二人に抱いたものは、自分の心に芽生えたものは、殺意という名の憎しみ、それしかない」
いわば、憎しみの三角関係だよ、と。
三人のうち全員が、他の二人に向けられる感情は、憎しみだけ。
憎み合い、憎まれあい、家庭が荒れていくさまを木下は語った。
(無理だ……こんな凄惨な過去、俺には受け止め切れる自信がない……!)
俺はどうしたらいい。
どうしたら、こいつを何とかしてやれるんだ。
言葉は通じても、いまのこいつにはなにひとつ伝わらない。
死んだような瞳には暗い決意が宿っていて、それこそ何を言っても、何発殴っても、それは消えずにより深くなるのみ、のように思えた。
「そんな感じで、殴られ、犯され、それでも我慢して耐えて、高校に入ったね。中学の時に、さっき言ったあの一件で孤立しちゃった私は、高校に入ったら無理に明るくふるまった」
「やっぱり、お前のアレは、演技だったのかよ……」
そうであってほしくはないと願う俺の言葉に、木下は変わらず淡々と、
「そうだよ」
と答えた。
「全部……全部そうやって、途方もない憎しみをあのテンションに隠して、高校時代を過ごしてた、ってのかよ……」
「悪い?」
悪いとは言えない。
ただ、俺の中で抱いていたこいつへのイメージが、音をたてて崩れ落ちた感じがしたのだ。
そのショックで、俺は震える声でそう言っていた。
「そうやって周りを欺いて、自分が強い人間だと見せて……」
「そうすればさ、少なくても学校ではかりそめの居場所ができたからね。だからそうしただけ。でも、もう二度と他人に自分の事情や苦しみを口にして、助けてもらおうとは思わなかった。そうしたら、また前歯折られるもん」
七年前の俺は、当時クラスメイトだった彼女に、そんな背景があったなんてことは感づきもしなかった。
ただ、明るくてうるさくてなんでもできる女生徒だとばかり――。
それは俺だけでなく、当時同じクラスだった生徒たち全員も、きっとそう。
木下智子は、みんなと仲良くしながら、みんなを欺いて、一人きりで生きてきていたのだ。
俺も彼女も、当時まだ一六か一七歳で。
そんな、矛盾に近い重すぎる負担に、本来一人で耐えられるわけないのに。
「そしたらね、大学行き始めた頃だったかな、そのうち面白いことが起こってねえ」
「なんだよ……」
できればもう聞きたくない。
次にどんなとんでもないことがあったのか、聞くのが怖い。
「父親が逮捕されたんだよ。未成年買春容疑の疑いでね」
「は、はあ……!?」
「さっき言ったでしょ? 父親は私をやってから変な勢いついたみたいで、他の女のとこ行ったり、女子高生と援助交際したり。んで、ついにそれが発覚してお縄になったんだよ。弁護士の父親が同業者に捕まったっていう、大笑いの事態」
笑えもしない。
「普通のおっさんならともかく、弁護士でしょ? しかもそれなりに収入のある、名もある弁護士だったんだよ、私の父親は。マスコミが騒ぐし、倫理観も問われるしで私の周りも大騒ぎになって、家にも取材が来たりしたんだよね。面白いのはこっからでねえ」
「…………」
「母親、マスコミのインタビューになんて答えたと思う? 嘘泣きしながら、『あいつは、自分と娘をいつも殴ったり、俺が食わしてやってるんだから服従しろって言ったり、挙句の果てには娘まで犯す最低な奴なんだ、捕まってよかった』って感じで、あることないこと言って、父親の立場を貶めたんだよ。うわあ、人間ってこんな醜くなれるもんなんだねえって思ったよ私は。父親は父親でさ、すぐ怒る妻とのストレスがどうのなんて供述したみたいで、もうお互いに責任のなすりつけ合いだよね。醜いったらないよ」
「それで、お前はますます、親が憎くなったのか……」
「うん、もうこの時点で、こいつらは生きてちゃいけないって思ったね。特に母親ときたらなんなの? さんざん私にひどいことしておいて、父親が捕まったら途端に可哀想な人のふりして、降りかかる火の粉は全部父親に向けて払って、保身に走ってさ。法や天が許しても、絶対に私はそんなの許さないよ!」
「…………」
それは単に彼女のエゴかもしれなかった。
復讐鬼となった彼女は、そのエゴを自らの動く理由として正当化しているようにも見える。
「……我慢すればね、終わると思ってた。お金を稼げる歳になれば、あいつらから逃げて一人で暮らして、もう一度人生をやり直すこともできたかもしれなかった」
その言い方は、けれどそうではなかった、ということを表しているのだろうか。
「そんなことはね、あいつも分かってるみたいでね。逃げられないような罠に既にとらわれていたことに、卒業間際に初めて気づいた」
「なにが、あったんだよ、木下……」
俺が訊くと、彼女はまたくすくすと嗤って言う。
「木下ねえ」
「な、なんだよ……」
目の前の木下は、半分可笑しそうに、半分さみしそうな顔になった。
「あのさ、私、前に昌史に言ったよね。私のこと、下の名前で呼んでくれって。あれ、別に気分でとかそういう理由じゃなくてね、単純に私が木下じゃないからなんだよ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
目の前のこいつは木下であるはずなのに、木下ではないと自分で言っていて――。
それはつまりどういうことなのか、と、鈍った俺の頭では答えに至るのに時間がかかって。
「……は?」
そう、聞き返すのが精いっぱいだった。
そんな俺に、木下は呆れながら答える。
「だから、私は木下って名字じゃないの。今の名字は渋沢。渋沢智子」
「しぶ……な、なんでだよ? お前、木下だろ? 俺と同じクラスだった、あの――」
「鈍いなあ、昌史は。私、結婚してるんだよ」
「…………!」
そこまで言われて、やっと分かって。
大雨の中、俺は鳴ってもいない雷に打たれたような気がした。
「私が二十一歳の頃だったそうだよ。私は自分でも知らない間に、母親によって入籍させられてたみたいでねえ」
なおも、とんでもない事実が彼女の口から語られて、ショックから抜けきらない俺に追い打ちをかける。
親によって勝手に婚姻させられるなんて、どれだけ時代錯誤なのだ――。
しかもそれを伏せていたなんて――。
「……それを私が母親から知らされたのが、就職内定をもらって大学卒業も決まった、二十二歳の秋ごろ。つまり、自立して親から逃げられるという、ほんのわずかな希望を見い出したとき」
木下は、いや渋沢と言うべきなのか、彼女はそこまで喋ってからうつむいて黙り込む。
それから、ややあって不意に――。
「あは、あはっ、あはははは!! あははははは!」
「……お、おい、どうしたんだよ!」
もう何度目だろうか。
彼女は雨の夜空を仰いで、狂ったような嗤い声を上げて。
「絶望ってのは、いつだってそう! 幸せをつかみかけた時に限って、やってくるんだよね!」