怨嗟-2
そして俺はその木下と再会した。
一月前の雨の降る夜、今と同じように、この公園で。
何かを待つように、何かを狙うように、雨の中、傘もささずひとり佇む女に。
「なん……だと?」
その狙うものというのが、人の命だと言う事実に俺は驚きを隠せず、つっかえながら聞き返した。
「簡単に言っちゃえば復讐」
淡々と木下はそれに答える。
それから、俺の喉に突きつけていた包丁を下ろしてから続けた。
「何もかも失った。それでいて私は、死なない程度に、あいつに生かされてる。それに嫌気がさしたからね、もう殺すんだ」
俺の目の前で、なにかとんでもないことが起ころうとしている。
こいつは何を言った?
復讐?
「あいつって……誰だ」
俺は何と言っていいか分からず、ただそう訊いていた。
そんな俺に、彼女はやはり淡々と答える。
「母親。……ホントはあと二人いるけど、一番憎い母親からまず殺そうかな、って」
「な……!」
さらに、驚愕する俺。
(親を……どうして……)
「なに? 不思議そうな顔してるね、昌史は」
木下はまた嘲笑する。
「親は大事にするべきだとでも言いたいのかな、昌史はさ」
「そうじゃない……いや、そうだけど……」
俺は自分でも何を言っているのか分からない。
この、目の前の彼女の世界について行けない。
「そういえば昌史は昨日言ったね。俺が何も知らないのは、お前が何も説明しないからだろ、って。じゃあさ」
木下は、俺にくっつく距離まで歩み寄り、硬直したままの俺の顎を、包丁を持っていない左手でくいっと上げた。
「説明すりゃ、分かってくれるのかな? ……あはは……」
「……お……」
怖い。
怖いのだ。
俺を見上げてくる、木下の正気を失ったかのような不気味な瞳が怖い。
いつものような豪快な笑いではない、冷え切った暗い嗤いが怖い。
大雨はそのさまを見せず、真っ暗な夜にはその音と、服越しに肌を濡らす感触だけが、その存在を伝える。
そんな景色も、今の俺には怖くて。
何よりも、目の前のこの女が俺に教えようとしている、彼女の世界を見るのが、知るのが怖い。
(知らぬが、仏だ…………が……)
それは、かつて俺が一度そう選択して、逃げたこと。
だが――。
そうやって、『知らない』を決め込んで、また表面だけの平穏な日常に逃げられるのか。
逃げても、いいのか。
俺はもはや、こいつの世界に片足を突っ込んでいて、もう引き返せないのではないか――。
それこそこの不気味な雨夜の何倍も暗く、黒く、鬱屈とした世界からは、もう――。
(逃げられないんじゃないか)
俺は直感した。
そして今なら分かる。
こいつを拾い、自室に泊めたとき、既に俺はこいつの世界に少なからず踏み込んでいたのだ。
今日のような、雨の夜に立ち尽くしていた、こいつを。
(そもそも、最初に出会ったあの夜に、こいつのことを見なかったこと、知らなかったことにしていれば……だったらまだ、俺はこいつの恐ろしい背後を知ることもなく、適当に人生を過ごし、終わらせることもできたのか……!?)
見なかったことにするには、知らなかったことにするには、あの包丁の一件の時ではもう遅過ぎたのだ。
あの時点で、だいぶ俺は彼女の世界に足を踏み入れていたのだろうから。
「怖がってる、怖がってる」
そんな風に俺が煩悶していると、木下はまたも嗤う。
「顔は焦りで歪んで、足は逃げ出したそうに震えてるね」
そんなことは自分でも分かっている。足は体感で分かるし、自分の顔だって、間近に寄せられた木下の瞳によく映っている。
光のない、真っ暗な瞳に。
これまでにないほどの、みっともない表情で、だ。
「昌史は本当に優しいね。私が『ちょっと泊めてくれないかな』って言った時、断ればよかったのに。あの時も私はこんなふうにずぶ濡れで、関わっちゃいけないオーラが出てたでしょ? なのに、私とかかわり持ったせいで、知っちゃうことになるんだよ、遅かれ早かれね」
「木下……俺は……」
「何から話そっかな」
俺の意見も聞かず、木下は俺の顎から手を離すと、俺に背を向けて再び天を仰ぐ。
その右手には、包丁が握られたままで。
そしてそのまま彼女は俺に背を向けたまま、ゆっくり、静かに、なのに雨にかき消されることなく、怨言を並べていった――。
「私はろくでもない父親とろくでもない母親との間に生まれた」
まるで昔話をするかのように、ゆっくり、しっかり、確かめるように彼女は語る。
「父親は弁護士で収入はそれなりにあって、母親はそれに付け込んで既成事実を作って強引に結婚した。その翌年生まれたのが、私」
「…………」
「父親にとっての私は、自分の人生を狂わされた憎しみからくるはけ口でしかなくて、母親にとっての私は、結婚するための手段の過程でできた副産物で、邪魔でしかなかったことに、物心ついてすぐに気づいた。父親と母親は毎日喧嘩してたね。俺は、私は、お前のことを、あんたのことを、愛してないって毎晩毎晩怒鳴り合ってた。そしてそんな言い争いの中で、私のことも槍玉に上がってさ。嫌い合う両親の意見がぴったりくるのは、私のことだけだよ。『あいつは、いらない子だ』って。……ニュースとかでもよくあるよね。子供が夜泣きしてうるさいから殺した、っていう事件で親が捕まるケースとか。……じゃあ、ここで問題」
くるり、と身体をこちらに向けて、木下は俺に問いかける。
「なんで父親も母親も私のことが要らないのに、私はそんな風に殺されたりしなかったと思う?」
そんなことを言ったって、俺に答えられるはずがない。
自虐めいた笑みを浮かべて、楽しい楽しいクイズを出す木下が怖すぎる。
「ブー、時間切れ」
俺が黙っているうちに、木下は勝手に話を進めていく。
「だって私は大切にされてるもん。母親にすごく大切にされてるんだもん。私という存在が消えてなくなったら、金目当てで強引にできちゃった婚をした母親としてはまずいよねえ? だから私、要らないのに大切にされてたんだよね、母親に。滑稽だよねえ」
また、暗い嗤いが響く。
「でもさ、母親にとっても私は基本的に要らない子だから、可愛がられるわけはなくて、とりあえず命だけあればあとはどうでもいいみたいで。死なない程度に殴られて蹴られたことなら、小さいころは毎日だったね」
(虐待……)
俺はそういう事実を、頭の中で変換していた。
「父親は、要らない、要らないって言っても基本的にはその時は何もしてこなかった。だから、私はまず母親を憎むようになってった」
「だからお前は、自分の母親を殺したいってさっき言ったのか、よ……」
俺が恐る恐る聞くと、木下はこともなげに頷いた。
「最初にあいつを殺したいっていう、確かな殺意を抱いたときのことは忘れもしない、小学校一年生の時の冬休みだねえ」
「痛い……痛いよお……もうやめて……!」
寒い冬の日の夜、私はリビングで身を丸めて、自分の母親の暴行にひたすら耐えていた。
耐えていれば、いずれ向こうが飽きて、酒をあおって寝てしまう。
それだけは当時七歳だった私にも理解できていたことだったから、私はただ、その時を待って必死に耐えていた。
母親の目はいつも濁っていた。
私の姿などきっと映っていないに違いない。映っていたとしても、ゴミか土くれのような存在としてしか映らないのだと言うことは分かっていた。
私はこいつの、玉の輿に乗る段階でできた副産物でしかないのだから。
あっても鬱陶しいが、ないと困る。だから壊れない程度に痛めつけて、ストレスをこうして発散させているのだ、と私は理解していた。
痛みの感覚も麻痺してきた頃に、母親は私の体を突き飛ばして台所に消える。
(やっと……終わった……)
あとはいつものように、彼女は酒を飲んで寝るのだ。
助かった――と思った。
けれど、再び台所から現れた母親は、酒のビンではなく大きなハサミを持ってやってくる。
何をされるか考えようとした瞬間だった。
片手で思い切り壁に押し付けられ、私は自分が身に纏っていたボロボロの服をそのハサミで切られていく。
(なに? なにするの? やめて!)
声を出したかった。
なのにそれが叶わなかったのは、私を押さえつける母親の手が私の喉にあったせい。
ぎりぎりと締め付けられ、呼吸もままならない。
やがて布が私の体から剥がれ落ち、一瞬そちらに意識を奪われたのちには下の方をも思い切り下げられて。
そしてそのまま母親はベランダの窓を開けて、私をしこたま突き飛ばして――。
(やだっ! 寒い!)
ベランダに裸で放り出された私があわてて室内に戻ろうとする前に、母親はぴしゃりと窓を閉めて鍵までかけてしまって。
「開け……開けて……」
先ほどまで喉を絞められていた上に、その前にもさんざん胸や腹に打撃を受けていて喋ることができない。
私はそれでも、必死に訴えた。
だが、窓があいて私が迎え入れられることはなくて。
母親は、まるで私をゴミ出しでもしたかのように、放り出された私を意に介さず、今度こそ酒をあおってから寝室へと向かってしまった。
(うそ……こんな……やだ……寒いよ……!)
そこはマンションの九階で、飛び降りて逃げられない。
隣に助けを求めようとしても、声が出ない。
どこへも行けない。
どうしようもない。
(死んじゃうよ……寒くて死んじゃうよ……!)
私は、ベランダの隅に立てかけてあった、父親のゴルフクラブを入れてある布の袋を見つけ、中身のクラブを全部抜いてからそれを身に巻き付けた。
それくらいしか、寒さを和らげることができない。
寒かった。
そのうち雪が降ってきた。
頭が朦朧として、昼なのか夜なのかも、どれだけそうしていたのかも分からなかった。
耐えきれない空腹が、襲ってきた。
ベランダの縁にこびりついた雪を食べて、ほんのわずかだけでも腹を満たそうとした。
(死にたくない……死にたくない……!)
容赦ない寒さに必死に耐えて、それでもついに意識を奪われかけていたころ。
――智子はどうしたんだ。
――あん? 外よ外。ベランダ。
――外っておまえ……こんな時間になにを……!
――うるさいなあ! あいつは要らない子だってあんたも言ってんじゃないのよ! 死なない範囲で痛めつけて、何が悪いのよ!
そんな会話が、聞こえたような気がした。
すると、かちゃんという鍵の外れる音のあとにベランダの窓がガラガラと開き、母親が姿を見せて私を睨みつける。
「あーあー、ゴルフクラブをこんな散らかして! ほんと何考えてんだか!」
言って、私の体を蹴飛ばす。
「う……」
もう抵抗する気もなくなっていた私は、人形のように転がった。
「死んだような目しやがって……殺されるとでも思ってたの? いい、あんたは生かされてるってことを忘れんじゃないわよ。じゃないとあたしが酒飲めなくなるんだから」
「…………」
何も身に纏わない私の背中を平手でばしばしと叩きながら、母親は私を部屋に上げる。
そのまま私はふらふらと自室代わりの物置に向かい、寝巻を着て埃っぽい布団にくるまった。
まだ寒い。
体が芯から冷え切っている。
ガチガチと、歯が鳴った。
震えが止まらなかった。
そんな中で、一つの確かな思念が、頭の中に浮かび上がってきた。
鈍った頭に、はっきりと、明確な思念が、意志が、決意が宿った。
「……殺してやる……絶対にいつか、殺してやる……」
その晩、私は布団の中で何遍も何遍もその言葉を口にし、決して変わらない信念とした。