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怨嗟-1


 俺が木下智子という名前を初めて知ったのは高校一年生の一学期の中間、要は高校で初めての定期試験の順位が校内の廊下に張り出されたときだった。



 五教科七科目で六百九十九点を取って一位に輝いていた、特進クラスの木下智子という名前。

 それからというもの、定期試験の順位が張り出されるたびに彼女の名前は一位に挙げられ、しかも点数も異常に高い。七百点満点を取っていたときも何度かあった。

 それから、彼女の名前は俺が一度も顔を見たこともないのに俺の頭に残るようになっていた。それは俺だけではなく、その時俺や木下と同学年だった者なら誰でも覚えていただろう。

 そんな彼女と初めて俺が会話をしたのは、高校二年生の四月。

 お世辞にも勉強のできない俺に何をどういった番狂わせが起きたのか、クラス替えで特進に上げられてしまった俺は自分より頭が良さそうでなおかつ頭が堅そうな奴らばかりに囲まれ、しかも一年生の時に友人であった人間はみな違う、特進ではない普通のクラスに行ってしまった。

 新学期が始まって数日経ったある日、俺がまだクラスになじめずに、一年の時の友人がいるクラスで彼らと弁当を食べて、昼休み終了間際に自分のクラスに戻って来た時だった。

「うおーい! どこ行ってたんだい寺尾くーん!」

 教室に入るなり、騒々しい女の子の声。

 栗色の非常に短い髪、整った輪郭に快活そうな表情の女の子が、俺の目の前に手のひらを差し出していた。

「な、な……?」

 何が何だか分からない。

「進路希望の紙、出してないの寺尾くんだけだぜっ! さあさあ、出してもらおうかい!」

 眩し過ぎる笑顔と高いテンション。そしてぐいぐい押してくる右手。

 それを見て、ああ、確かこのうるさい奴はこのクラスの学級委員だったかと思い出す。

俺は自席に戻って鞄をあらためてみるが、先週もらって適当に鞄に詰め込んでいたはずの『進路希望の紙』はどこにもない。

「悪い、ない」

 俺がそう答えると、そのやかましい学級委員は両手で頭を押さえて、

「マ――――ジかよ――――っ!」

 フィギュアスケート選手も真っ青なほど上体を真後ろに反らせて嘆いた。

 と、思った瞬間にがばっと再び身体を起こして続ける。

「でも大丈夫! そういうこともあろうかと、ここに新しい紙があるんだぜっ!」

 そして彼女は俺に紙を突き付けた。

「早く書いとくれ! 昼休みまでに持ってかないと、私が怒られるんだからさっ! イヤでしょ、男の子として女の子が自分のせいで怒られるなんて」

「え、別に……」

「イヤでしょっ!」

「……嫌です」

「おっけー! じゃあ早く書いて!」

 勢いが良すぎる。俺では彼女のペースについて行けず、そのまま押し流されていくのみだ。なんという奴がこのクラスにいて、しかも学級委員をやっているのだ。

 俺は席に座って紙と向き合うが、進路希望を書けと言われても俺には将来のビジョンなど何もない。

「何悩んでんだよー、早くしてよー、ほら昼休みあと二分!」

 俺の席のそばに立って、横からぶーぶー言ってくる謎の学級委員。

「んなこと言われたって思いつかないんだ」

「じゃあもう、私が言うように第三希望まで書いて! いい、行くよ? 天皇、アメリカ人、サイボーグ! はい、これでおっけー!」

「どう頑張っても不可能だろ全部……」

「いいんだよ、こんなもんはノリで書いとけば!」

 めちゃくちゃだ。

 けれど俺は仕方がないのでそう書いてしまった。いつ来るか分からない結婚式の時に、スピーチでこの紙の内容が晒されたりしたら死にたくなるだろう。

 ともあれ、言われるがままに書いた紙を彼女に渡す。

すると彼女は受け取った紙をぱしっと叩き、いい笑顔でガッツポーズ。

「おっけー! これで三組の進路希望調査票フルコンプリート! 学級委員木下智子の初任務、かーんりょ――っ! さっそく先生に出しに行かないとね!」

 言うが早いか、今度は陸上選手も真っ青なほどの猛加速で教室を飛び出していく学級委員。

(嵐みたいな奴だな……)

 俺は彼女が去って行った教室の扉を見て思う。

(ん? 木下智子……?)

 成績優秀だから、もっとお固い奴だと思っていた。

 あれが木下だと実感するのは、俺の勝手なイメージが置き換わっていくのは、もう少し先になる。



 あいつは頭がいいだけではないのだ。

 体育館を半分に分けで男女別で競技するときには、しなやかな動きと絶妙な運動神経で男女共に視線を釘づけにしていた。特にバスケなど集団競技でその動きは顕著で、大勢の人間の中で、あいつ一人だけ抜きんでた動きをするのだ。

「あいつ誰だっけ?」

「木下だよ。成績一位の木下」

 体育は二クラス合同で行うが、他クラスの男子からそういう声がしょっちゅう上がっていた。

 彼女と俺は、その当時から特別な結びつきがあったわけではない。

 ごくごく普通のクラスメイトで、女子に声をかけるのが苦手な俺が自分からあいつに何か会話を振ることもなかった。

 あいつの方から声をかけてくる。それも、進路希望の紙がまだだとか、文化祭での費用徴収だとか、そう言った事務的な内容であることがすべてだった。

 それは当然ながら木下はクラス全員に同じことをするわけであり、だからやはり俺と木下が特別な間柄、というわけでもない。

 まあ、俺は高校時代忘れもの大王という称号をもらっていたこともあるくらいで、その件に関して木下からよく何か言われる、ということを除けばだが。

 本当に、ただのクラスメイトだったのだ――。



「あのさ、寺尾くんちょっとこっち来て」

 年が明けて三学期になり、一回目のロングホームルームの時間だった。

 この時は翌月の修学旅行の班決めということで、さすがにこの時であればたった一人特進に来てしまった俺でも気の合う仲間たちはできていて、班決めも滞りなく決まるところだった。

 そんなときに俺は木下に連れられ、廊下に出されてしまう。

「な、なんだよ」

「寺尾くん、悪いんだけど上杉くんと組んでくれないかなあ?」

「はあ……?」

 いきなりそんなことを言われ、俺は面食らった。

 上杉という奴のことは、クラスメイトだがよく知らない。

 あいつは冷たい表情に違わず、来るものすべてを拒むようなオーラの出ている男で、いつも一人きりでいるのだ。最近彼女ができたらしいが、それでも無愛想は変わっていない。

「俺はもう班が決まって、野口と須藤との三人部屋で……」

「だから、ちょっとそこをなんとか抜けてもらってさ」

 言いながら木下は廊下から教室を指さす。俺も視線を向けたその先には、班決めで盛り上がっている中で一人呆けたように座っている男がひとり。

「ほら、あの子友達いなくてぽつーんとしてるでしょ。彼女できても友達はいないんだよね……」

「だからってなんで俺が……」

「ちなみに上杉くんの班と行動を一緒にする女子の班はもう決まってて、私と奈緒と絵梨香だよ」

「よっしゃ乗った」

 俺はダメな奴だとは思う。

 けれど、このクラスで最も可愛い、と俺が思っている女子三人と一緒に行動できるのだ。別に下心があるわけでもないが、そういうのはやはり男としては嬉しくなる。

 きっと俺に彼女が未だできていないことを見抜かれたのだろうとあとになって思うが、その時は有頂天で気づかなかったのだ。

 俺が承諾すると、木下は俺を引っ張って上杉の方へと赴く。

「へーいお待たせ! 浮いてる上杉くんのベストパートナーを連れて来たよ! ミスター寺尾はおはようからおやすみまで上杉くんと行動を共にできて、しかも私と絵梨香と奈緒の三人を選び放題、イベント盛りだくさんな自由行動イン長崎の権利を獲得したぜっ、いえーい!」

「いえっへーい!」

 木下に合わせ、右手を高らかに上げる俺。今考えると本当にしょうもない奴だとは思う。



 もちろん、その修学旅行で何かがあるわけでもなく、普通に旅行を終えて東京へ、羽田空港へ戻ってきた。軽い絶望に打ちひしがれながら、俺はベルトコンベアに流れてきたトランクを受け取り、それを引きずって帰ろうとする。

 そこで俺はぽんと肩をたたかれ、誰かに呼び止められた。

「ありがとね、寺尾くん」

「ん?」

 振り向くと、少し心配そうな顔をした木下がいる。

「上杉くんと班組んでくれて。きみ、あの時、すでに班が決まってたんだよね、仲良しの子たちと」

「あー……まあいいよ、あいつはあいつで意外に面白い奴だったしな」

 寝ぼけて抱きつかれたり、デレた顔でさんざん惚気のろけ話を聞かされたり。思っていたほど尖っている奴ではなかった。むしろすごく人間らしい。

「ん……そう言ってもらえると、無茶なこと言った私としても気が楽」

 ほっ、と胸をなでおろす動作の木下。いつもの元気そうな笑顔とは違い、落ち着いた笑顔が珍しかった。

「……ね、寺尾くん」

「なんだ?」

 木下はそこで黙って、きょろきょろと周りを見回してから身を寄せ、小さな声で言った。

「……また何か困ったことあったら、頼んでいいかな」

「え?」

 言葉の意味が分かっているのに分からなかった。

 俺がどう返答したらいいか迷っているうちに、木下は身を離して、いつものように笑う。

「なーんてね! 冗談冗談! 気にしないで! そう何度も迷惑かけられないし! じゃーねー!」

 ものすごい勢いでトランクを引きながら、木下は電車の駅に向かって駆けて行ってしまう。

 俺は呆けたようにその後ろ姿を見送っていたが、友人に肩を叩かれてそのまま談笑しているうちに、俺は彼女のこと、彼女の言葉を忘れていった。

 それが、俺と木下が最後に交わした言葉だった。

 俺はやはり勉強について行けず、三年のクラス替えでは特進から落ち、成績一位の木下はずっと特進のまま。

 違ったクラスで、特に仲良かったわけでもない俺たちは、三年生の時は一度も会話どころか顔を合わせることもなく、廊下ですれ違ったとしても互いに気づかないくらいだった。

 そして木下は国立トップの大学に現役で進学し、俺は大学に全部落ちて予備校に通い、肌が合わなくて職を探し、契約社員で妥協して今に至る。

 そんな中で、木下のことを俺は少しずつ、少しずつ忘れていく。

 木下がその後どうなったのかは、俺には分からない。

 分からないのだが。

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