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暗転-4

 いない。

 町中探してみたが、彼女の姿はない。

 漫画喫茶にでもいるのかと考えたが、今の彼女は一文なしのはずだ。

 出掛ける際に俺の財布をチェックしてみたが、昨日とまったく変動していない。まあ、いつも数えているのは札だけだが、仮に小銭だけあいつが持っていったとして、それでは三日と持たないだろう。

 俺は仕事の時間ぎりぎりまで、彼女を探して探して、歩き回って、ズボンと靴はぐっしょりと濡れて。

 それでも、木下智子の姿はついに見つけられなかった。

(もうどこか、遠くに行っちまったのかな)

 そうだとしたら俺は、あいつに取り返しのない傷をつけて、そしてそのままにしてしまったことになる。

 俺は最後に、彼女を二回見つけた、あの公園に行ってみることにした。

 雨の日の公園。

 そこで、彼女の突っ立っている姿を二回見た。

 もしかしたら、今日もそうやって雨の中に突っ立っているのかもしれない。

 が――。

(ここにも、いないか……)

 昼間だが、大雨の公園には人っ子ひとりいない。

 結局、彼女を見つけることは出来なかった。

 今度は俺が、そこで馬鹿みたいに立ち尽くす番だった。

(これで、俺と木下の関係も終わりかな……)

 人同士の関係なんて、あるとき何の前触れもなく終わってしまう。

 そうでない場合ももちろんあったが、俺の場合たいていはそうだった。

 いきなり出会い、いきなり始まり、いきなり終わる。

 木下とのことも、それにそれほどまでに違いはない。

 ただ――。

(あいつ、まさか本当に死ぬ気なのか……)

 そうだと言う証拠も後付けもなければ、そうではないと言う証拠も後付けもない。

(そしたら、俺が殺したってことになるのか……)

 考えても、仕方のないことだというのは分かっている。

(仕事に……行かないとな……)



「寺尾。おい寺尾」

「なんすか」

 早川が俺を呼ぶ。俺は大儀そうに、と言うより実際に大儀だったわけだが彼に顔を向けた。

「お前、なんか気分悪そうだな。夏風邪か?」

「いえ……」

「顔色が冴えん」

 俺は否定するが、早川はもう一歩踏みこむ。

「早川さんが俺のこと気にかけるなんて、雨でも降るんですかね……」

「雨はもう降ってるからな。と言うか、別に珍しいことでもない。部下の体調を把握しとくのも上司の仕事だ」

「そうですか……」

 正直、どちらでもいい。

 俺はずっと、木下のことが気がかりだった。

 サイクルアドバイザーの資格を持つ俺は、無料で自転車に関する客の相談も請けるのだが、今日あった二件の相談は会話の内容もろくに覚えていない。

(関係はもう終わったと割り切ったつもりなのに……)

 このままずっとこの調子でいては、仕事に支障が出る。

「本当に、気分が悪いなら早退しろ。今日はそんなに忙しくないし、俺とバイト学生一人でなんとか片付く。そろそろ忙しくなるから、休めるときに休んどけ」

 すっかり忘れていた。そろそろ、確かに忙しくなる。

 毎年七月後半から八月いっぱい、つまり夏休みにはマウンテンバイクを多めに仕入れ、安く販売するマウンテンバイクフェアがある。シーズンものだからできるだけ売り切らなければならないし、客の食いつきもなかなかだ。夏休みは忙しくなる。

(そうか、夏休みか……)

 この鬱陶しい梅雨も明けたら、ちっとも休めない夏休み。

 季節はそうやって移っていき、俺と木下の妙な関係も、時に流され記憶から消えて行くのだろうか。

(多分、そうなるんだろうな)

 俺はそう思うことにした。

 そうとしか思えなかったし、そうでも思って強引に割り切らなければ前に進むことはできないと思っていた。

 木下のことは、忘れようと決めた。

 今日や明日で忘れることはできないけれど、時の流れに任せて忘れてしまおうと決めた。



 なのにそう思ったときに限って、木下は俺の前に姿を見せるのだ。



 その夜は雨が降っていた。

 朝から降り続ける雨だった。

 今年一番と思えるほどの雨の勢いで、夜になっても衰えることはなくより激しく降っている。

 俺はちゃんと傘を持っていた。

 けれど、この雨では傘があってもなくても同じように感じるほどの豪雨。

 服が濡れて肌に張り付き、靴から水が滲みてきて気持ち悪い。

 雨音しか聞こえない。

 暗いうえにこの豪雨のせいで視界不良にもほどがある。

 そんな中、近道をしようと通った公園で、俺は一つの人影を見つけた。

「お前……!」

 探そうとしていたときには、そいつはいなくて。

 忘れようと決めた時に限って、そいつは姿を現す。

 俺の声に反応して、そいつは振り向く。

「…………」

「またかよ、お前はそうやって傘もささないでこの雨の中……」

 俺はそいつに近づいて、傘をさして雨を防いでやる。

 本当にこいつは何をやっているんだ。

 俺が傘をさしてやっても、もう何一つ言わない。

「木下?」

 俺はそいつを呼んでみる。

 何だか様子がおかしい。

「木下? おい木下!」

 俺は傘を持っていないほうの手で、彼女の肩を掴んでゆすぶろうとして――。

(――冷たい!)

 異常なほどの彼女の低温に、驚いて手を離してしまった。

「お前……! いったい何時間濡れてんだよ……!」

「…………」

 うつむいていた木下は、ゆっくりと俺の顔を見上げて。

 死んだようなうつろな瞳には、光がない。

「…………朝から」

 雨の音にかき消されるような小さな小さな声で、答えた。

「……っ、また、お得意の『やるべきこと』かよ……」

 俺が言うと、木下はこくりと頷く。

「もう私にはそれしか残ってない」

「お前なあ……」

 俺は二度目に彼女をここで見つけた時にも思っていたことを言った。

「体調崩すだろうが、いくらなんでも……そこまで無茶してまで、それはすべきことかよ」

「そりゃ、私にとっちゃね。命よりも、人生よりも、大事なことだから」

「……命よりも大事なことなんてあるかよ。命あっての物種だろうが」

 すると木下は不意に俺をどんと突き飛ばす。

 いや、突き飛ばすと言うよりも、俺の体を押した反動で自分がふらふらと後ろに下がった、と言う方が正しいか。

 ともかく木下は、自分から傘の外に出て再び雨に濡れる。

 降り続ける雨の夜の空を仰いで、ゆっくりと諸手を挙げて、まるでその雨をよろこぶかのようにうっとりとした口調で言った。

「ほら、すごい雨。この雨は、私の罪も業も洗い流すんだよ」

「……何言ってんだ、お前……」

 俺は遠ざかった木下の分近づこうとするが、彼女は俺にくっついてはくれない。

「木下、その……昨夜俺が言ったことは謝るから、今はとにかく部屋に戻って身体を温めろ」

 これは同情でも建前でも何でもない。

 痛ましいのだ。

 こいつはこうして、時たま見ているこちらが苦しくなるような痛ましい顔を作る。

 しかもそういう時に限って、こいつの表情は笑顔なのだ。

 だから、だから掛け値なしで俺はそうしたかった。

 なのに彼女は、俺のそんな計らいを拒み、雨の空を仰ぎ続ける。

「もうね、もうホントに最後なんだよ。こんな雨の日に、一度失敗したでしょ、私は。そんで昌史にまた拾ってもらったけど、昌史を怒らせて追い出されちゃった。時間もない、お金もない。もうホントに、ぎりぎり」

「バカ、もういいから戻れ! 俺も悪かったところ、いっぱいあるから――」

「ううん、いいの」

 俺がそう説得しようとしても、木下はゆるゆると首を振って言葉を遮る。

「どっちみち、時間はそんなに残されてなかったから。……ちょうど良かったのかも」

 木下は手に持っていた鞄に手を突っ込んでごそごそやったかと思うと、何かを取りだした。

「雨の夜が来るのを、私はずっと待ってた。それが、私のやることにぴったりだったから」

「何言って……」

「お世話になったからね、教えてあげるよ昌史。この町にね、私の会いたい人がいるんだ。だからここにやってきたんだよ」

 木下の取りだしたものは、雨に濡れたそれは、公園のおぼろげな街灯に照らされ、不気味に怪しく輝く。

(まさか、あれは――)

「その人に会って、どーうしても、しなきゃならないことがあるんだよ」

 形といい、大きさといい、そして何より一度抱いたあの疑惑といい。

「出世も、名誉も、お金も、未来も、全部捨ててでも。やらなきゃいけないこと――そのためにここに来たんだもん。それが終わるまで――私、死ねないもん」

 その台詞は、俺がこいつを最初に拾った翌朝に聞いた言葉とまったく同じ。

 だが、今回は続きがある。

「逆に言えば、それが終われば死んでいいんだ、私は」

「きの、した……」

 おずおずと、いやな予感を覚えながら、いや俺の心の中はその予感でいっぱいなのだが、そうでないことを必死に祈りながら彼女の名を呼ぶ。

「あはははは……!」

 そうすると、そいつはいきなり笑いだした。

 不気味な、不気味な、初めて聞くこいつの真っ暗な嗤い声が、雨の夜に響く。

 そしてそのまま木下は、手に持っていた包丁を俺の喉元に突きつけた。

(…………!)

「私は人を殺すために、ここにやってきたんだよ」

 俺は、何も言えない。

「この町で幸せにのんびり生きている、世界で一番憎い女を、ずっとずっと怨んできた女を、この手で殺すために、この町にやってきたんだよ!」

 嗤い声は、豪雨をもかき消した。

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