暗転-3
(な、な……)
動揺を抑えることはできなかった。
警察のお世話になりそうなのは、どちらかと言うとあいつのほう。
それを知って俺は流石にうろたえる。それを警官は見逃すはずはなく、さらに近づいてきた。
「もし仲良くしていたなら――」
「ま、ま、待ってください! 俺は確かに高二のときあいつと一緒のクラスでしたけど、別になんか仲良かったとかじゃなくて、普通のクラスメイトであまり話もしなかったですし――」
「……そう、ですかい」
警官は詰め寄った分、後ろに下がって距離を戻す。
「そいつが……木下が、何かしたんですか」
俺は頑張って、木下という名前を聞いて懐かしさに浸っているような面を半分、でも元クラスメイトとしてちょっと心配だな、といった面を半分作り、それを混ぜ合わせた顔を作った。
だが、実際は不安でたまらない。
彼女が何をしてしまったのか、あるいは何かしようとしているのか。
すると警官は答えた。
「いやね、彼女の行方がわからんのです」
(行方――――)
とりあえず、血なまぐさいことや狂気じみたこととは関係が薄そうで、俺は安心とも落胆とも言えない虚脱感に包まれた。
しかし――。
木下、智子。
そいつの行方が、不明だという。
けれど、俺は知っている。
彼女は、俺の、この警官達の、すぐそば、壁の向こうに――。
息をひそめて、隠れている――。
そんなことを気取られまいと、俺はどうにか会話をつなげた。
「それを……捜査している、と?」
「ええ、まあ」
「家出かなにか……ですか」
「届出ではそういうことになってますね」
警官は淡々としたものだった。
(家出……)
「一応、彼女の友人や、彼女と高校や中学で関わりを持った人間をできるだけ当たっているところです」
なるほど、それで元クラスメイトである俺のところにも来たということか――。
しかし、ただの元クラスメイトである俺にまでそういう聞きこみが来る、ということは、あらかた彼女の当時の友人たちにはすでに聞きこみが終わり、それでいてろくな情報を掴めていないまま、だと俺は思った。
「なんか知ってることあったら、なんでもいいので教えてくれませんかね」
「いや、俺は特に何も……やたらと元気な女だったな、ってのは覚えてるんですけど、あとメチャクチャ成績優秀」
俺が適当にそう言うと、警官ははあ、と長いため息を吐く。
「高校時代に彼女と関わった人間は、みんな口をそろえて『元気で優秀』か……」
どうも手ごたえがないらしい。警官は腰を上げて、
「すいませんね、あっしらはこれで帰ります」
と言って玄関まで行く。
「あ、あの、お邪魔しました」
若手の警官がここでやっと喋った。
警官は靴を履いて、つま先をトントンと床に打ちつけて、またため息を吐いた。
「今日はもう帰るか、時間遅いし手がかりもないし。ったく、煮え切らんな」
俺は、そんな二人の背中をぼんやり眺めていたが――。
(……なんかおかしいぞ?)
違和感に気づいた。
「あの、ちょっと待ってください」
「あん?」
俺はただ単に興味本位で訊いていた。ベテラン警官は怪訝そうな顔をする。
「あの、家出ってことは民事事件ですよね? なんで警察の方が動くんですか?」
民事事件に警察は介入しないはず。
俺は法学部とかを出ていたわけでもないし、それ以前に大学に行っていないので詳しくは分からないが。
するとベテラン警官は何度目かのため息を吐いて――。
「おい大崎、説明してやれ」
若手に丸投げした。
「あ、あのですね、えっと、何から説明すれば……」
振られた若手は結構まごまごしている。ベテランの前で恥をかくわけにはいかないと、焦っているのだろうか。
「い、家出人は大きく分けて二つに分類されます。そのほとんどは『一般家出人』と言いまして、こちらはおっしゃる通り、民事事件なので僕らは動きません。せいぜいデータベースに記録しておいて、パトロールや職務質問などで見つけたら家族などに連絡することができる……って感じです。もっとも、木下智子さんは成人なので、その段階で無理には身柄を押さえて連れ戻すことはできませんが……」
そこで若手警官は言葉を切って息継ぎをしてから、説明を続ける。
「ですが例外となる『特異家出人』と呼ばれる家出人は、背後に刑事事件の可能性があるため、僕ら警察が捜索することになっているんです」
「……はあ」
家出人が分類されているとは知らなかった。大崎と呼ばれた若手警官はもう少し続ける。
「木下智子さんは、その特異家出人として捜索願が出されています。特異家出人には七種類ありまして、水難や転落、交通事故に遭ったとされる人間、福祉犯の被害者となった人間、お年寄りや病人などの自給が困難な人間、それと……」
「おい! もういい、上出来だ」
そこまでで、ベテランが少し強めの語調で若手を止めた。それから彼は若手をぐいぐい押すようにして退出してしまう。
ドアが、ばたんと閉められる。
「な……なんだってんだよ……」
頭の中で情報が、単語が渦巻いている。
行方不明の木下――。
家出――。
それも、背後に事件性あり――?
「ああ、もう……」
考えていても仕方がなかった。俺は電気のついていない浴室の扉をおもむろに開け放つ。
「木下、警察はもう行ったぞ」
開いた扉から入ってくる光に照らされ、空の浴槽にかがみ込んでいた家出人が映し出される。
「バレなかった……?」
「ああ、まあな。それはともかく、お前結構複雑っぽいな」
「…………」
黙り込む木下。
いつもの彼女なら「いやー、複雑って言うかこれこれこういうわけでねー!」と、ああだこうだといつまでも説明しだしそうなものだが――。
彼女は、まるで身体が固まってしまったかのように、浴槽にかがみ込んで出てこない。
「どうしちまったんだよ、警察ならもういないんだから出てきていいんだぞ」
「…………うん」
力なく言うが、体勢はそのまま。
なんなんだ、いったい。そこに住みたくなったのか。
「ほら、出てこいよ。それに、訊きたいこともある。今回はあの人らには帰ってもらったけど、お前、警察が絡んでるとなると俺としても黙って置いとくわけにはいかないんだ」
本当に何か彼女に大変なことがあった場合、黙って彼女をかくまっていたことに対する俺への言及は避けられない。
俺は手を伸ばして、木下の二の腕を取って引き上げようとした。
「うー」
が、彼女は妙なうめき声を上げて俺の手を払ってしまう。
「お前なあ……」
流石にいらっと来た。
「今までは多少の奔放な振る舞いも黙ってきてたけど、今回は違うだろ? お前、ホントになに背負ってんだよ。説明できるだろ、当事者なんだから」
もういっぺん、腕を掴んで立ち上がらせようとする。
「やめてよ……」
が、またしても俺の手が払われる。それも、拒絶の意思とともに。
なんだこいつは。まるで子供だ。
俺と同じ歳のはず、俺より達者な頭脳と口の持ち主のはずなのに。
どうしてこいつは、こんなに幼くなっている。
遣りどころのない怒りが込み上げてきた。
「お前、いい加減にしろよ!」
木下は俺の怒声に、浴槽の中で身をびくっと震わせたが、一度怒り出してしまうとすぐには鎮まらない。だん、と風呂場の壁を叩いて、夜中にも関わらず大声をあたりに響かせる。
「俺が泊めてやってんだぞ、この部屋に! 何も言わない、何も語らない、そのうえ金は出さないで、いつまでも自分勝手できると思うな!」
俺がそう叫ぶと、木下も言い返す。
「なっ、なんだよう、そうやって権力をカサにして怒鳴って! 私のこと、何も知らないくせに、偉そうに!」
「俺が何も知らないのは、お前が何も説明しないからだろうが!!」
「ううっ……」
正鵠を得たのか、口八丁な彼女は黙ってしまう。
どうしても、何があっても譲れないらしい。ここまで言われても口を開かないのは意地か、それとも別の何かか。
けれど頭に血が上った俺は、そう難しくも考えられなくて。
「出てけ! お前なんかもう知るか! 面倒見切れん!」
そう怒鳴って、思い切り浴室の扉を閉めていた。
彼女は扉越しに、なにも言わない。
浴室から出てきもしない。
気味悪いほど、物音がしない。
けれど、逆上していた俺は、彼女のことなど考えられず――。
むしゃくしゃしたまま、強めの酒をあおって、寝てしまったのだ。
目が覚めると頭が痛い。
これは間違いなく二日酔いだ。
昨夜、かっとなって木下に怒鳴ってしまって、それから酒を飲んで寝てしまったことを思い出す。
(あいつ、どうしたのかな……)
ベッドに横たわっていたのは俺一人だった。
(まだ風呂場に引きこもってんのか……?)
そう思って、風呂場をそうっと覗いてみたが、そこに人間は一人もいない。
ここはワンルームマンションだから、他に人の隠れられそうなところはない。ベランダには懐かしの漫画を詰めた段ボールを大量に置いているため足の踏み場がない。
最後にあいつにぶつけた言葉を思い出す。
――出てけ。
(言い過ぎた、かな……)
まだ痛む頭で、そう考える。
きっと俺が寝静まってから、こっそりと出て行ってしまったのだ。ちなみに部屋の周囲を見回してみても、置き手紙的な物は存在しない。
(あいつにだって、隠しときたい事情もあったはずなのに、俺ときたら……)
理解しようとも、歩み寄ろうともせずに、突き放してしまった。
(あいつに、他に行くところがなさそうなのは、俺にだって分かってる……それでいて、俺は、あいつを――)
自己嫌悪に陥ったが、もう遅い。
今すぐ家を出て周囲を探し回っても、彼女がそこらへんをのんびり歩いているはずはない。
おまけに。
(今年一番、ってほどだな)
外はそれこそ、滝のような大雨。
一歩外に出れば、十秒としないうちにずぶ濡れだ。
俺の一本しかない傘は綺麗に玄関横に立ててあるし、あいつは――。
(…………)
また、濡れに濡れたあいつの姿が脳裏に浮かぶ。
彼女と七年ぶりに再会した時も、一度出て行った彼女をまた見つけた時も、あいつは雨に濡れて立ち尽くしていた。
雨に濡れる印象が強すぎるのだ。
だからか、木下智子と言う人間のずぶぬれになっている姿が、俺の中では違和感なく再生される。
(笑ってるときは、それこそ太陽みたいな奴なのに……)
まさか今も、どこかでずぶ濡れになっているのでは――。
(…………)
考えないことにした。
しかし、すっかり朝起きる癖がついてしまったせいで手持ち無沙汰だ。
たまにはネットで動画でも観ようと思ってパソコンを立ち上げて、そこで――。
(そう言えば、あの警官が……)
昨日、家出人と警察の関係について語って、いいところでベテランの相方に制止されていた若手の警官を思い出す。
(家出は民事事件だが、特異家出人と呼ばれる背後に事件性のありそうな家出人は警察が動いて捜査する……)
インターネットブラウザを開き、一番初めに出てくるよう設定していた大手検索サイトで『特異家出人』と検索をかけてみる。
するとたちどころに検索結果がずらずらと出てきた。適当なリンクをクリックして調べてみる。
(確かに特異家出人は警察が動くと書いてある……特異家出人とは……)
またもクリックして、さらに細かいところに俺は進んでいく。
(七種類……事故った人間、福祉犯の被害者、自給困難な人間、それと……)
そこまでは昨日も聞いた。このページではそれぞれの種類ごとに詳細な説明が記載されている。
残り四つは見切れていてページ下部の方に記載されているのでスクロールさせていく。
精神異常者、銃刀法違反で武器などを持っているとされる人間。
これら二つはいずれも違うと思う。見た感じではあいつは健全だし、彼女は何も持たずに俺のもとへ転がり込んできたのだから。包丁のことに対して一抹の不安もあるが、それも厳密には違う。
俺は残り二つも調べようとして、またスクロールする。
(凶悪犯罪の被害者……)
まさか、彼女がそんなことに巻き込まれているというのか――。
あんなふうに飄々としている彼女が――。
けれど、ときどきあいつは暗くなって、不気味になる面もある。
そんな面を考慮に入れれば、当たらずとも遠からずだ。とりあえず保留。
最後の一種類はなんだろうと、俺はさらにスクロールさせていき――。
手が、止まった。
「自殺……企画者……」
口に出た。
木下が――。
いや、まさか――。
ありえない――が、その証拠もない――。
自殺は、誰にだってし得ることだ。
(まさかあいつは、死に場所を求めて……いや、じゃあなんで俺と棲んでいたんだ、いやそれよりも――)
決まったわけではない。
だが、細かいことを考えられるほど、俺の頭は良くないし、ましてや二日酔いのせいで回らない。
そう思ってしまうと、どうしてもそうとしか思えないのだ。
「ええい、くそっ!」
俺は手早く着替えて靴を履き、傘をひっつかんで外へ出た。