暗転-2
結局、元の鞘。
木下は俺のもとへ戻り、そしてこうして今日もまた同棲して互いに享楽を貪っている。
だが、以前とは明らかに異質な感じがする。
俺はどこかで木下を疑っていて、どこかで彼女を信用していない。
あの深夜の一件以来、どうしても彼女を信じられなくなっていた。
そんな風に、俺がこいつに疑いを持ってかかるようになってしまったからか。
あることに気づいてそれを口に出してしまった俺は、いや俺と木下は、取り返しのつかない不協和音を長く奏でることになる。
「お前ってさ、俺のとこに来るまでは何してたんだ?」
「え……」
何か目的を持って動いて、その過程で俺の部屋に転がり込んで。
それ以前のこいつはどこで何をしていたのか、気になった。
「お前って、家を飛び出してきて、帰る家がなさそうに見えたからさ」
「……昌史はそういうこと、根掘り葉掘り聞くようには見えなかったんだけどな」
「いや、いいんだけどな」
これまでは気にも留まらなかった。
気になっても、すぐに忘れられて、気持ちを切り替えられた。
しかし――。
やはりこいつは危ない橋を渡っているようにしか見えない。
こいつと同棲して一カ月弱だろうか。
彼女に限らず、どんな奴と付き合い始めても、そろそろいいところが見えなくなり、悪いところが目立ち始めてくる。
こいつの場合は悪いところと言うよりも、怪しいところだ。
それが気になって仕方がない。
「もしかしてお前、今まで何件もこういう風にどこかの家に泊まってたりしたのか」
「ちょっ……やめてよ、なに、どうしたのいきなり」
木下は下を履きながら、少しだけ慌てたように苦笑いする。
そんな彼女が俺の言葉を否定しないところも、怪しいと思えるようになってきていた。
「それも、俺の時みたく金がないから、男にこういうことをして泊めてもらってたのか?」
「や、やめてってば。なんでそういうこと訊くの、いいじゃんどうでも」
「なんでもなにも、俺はお前を泊めてる人間だぞ。それくらい知って何か悪いのか。だいたい、お前一度出ていったとき、包ちょ……」
「やめてよ!」
今までにない大声で、木下は叫んでいた。
そこで初めて、俺はしまったと思った。
知らぬ間に、こいつの嫌がることをしていたと。
「どうしてそんなこと聞いて、私のこといちいち把握しようとするの! 私はそういうことされるのが一番嫌なんだよ! 支配されるのが嫌いなんだよ!」
木下は、必死の形相で喚いていた。
本当に心の底から嫌がっているようで――。
「わ、悪かったよ……」
俺はつい圧されて、謝ってしまう。
すると木下は声を落として、
「……もうそういうこと二度と聞かないで」
会話を終わらせてしまった。
あれから数日、俺と木下はあまり会話をしていない。
先日の一件で木下の逆鱗に触れてしまったと感じた俺は、腫れ物に触らないでいるように今度は必要以上に距離を取ってしまった。
木下も木下で、滅多なことを喋らない。
いつもの木下ではなく、あのころの元気な彼女ではない別の誰かがそこにいるような気さえする。
一応、料理は作ってくれるのだが、食事中であっても彼女は随分とそっけないもので。
小さいテーブルに面と向かって座っているのに無言、というのは空気が重すぎる。
「……ごちそうさま」
「ん……」
正直、食べた心地がしない。
少し前までの木下の飯は、あんなにも美味かったのに。
味は変わっていなくても、胃に乗りかかってくるような圧迫感がある。
既に自分の分を食べ終えていた木下は、黙って二人分の食器を流し台まで持っていく。
(なんでこんなことになっちまったんだろうな……)
黙って洗いものをしている同居人の横姿を眺めて、声に出さずにそう呟く。
何か喋りたかった。
ひとたび会話のボールを投げれば、すぐさま会話を三つくらい同時に返球してくるのが俺の知っている木下智子だ。
今は一つでもいいから、それを返してほしい。
そうすれば俺はまたボールを投げて、あとはトントンと会話が進むのではないか――。
また、少し前のように戻れるのではないか――。
別にそこまでしてこいつと楽しくやりたいわけではない。
ただ、この微妙な距離と気まずい時間がつら過ぎるだけだ。
何を最初に話そうか、何か観たい映画あったら借りてきてやるぞ、それとも今度の休みにまた映画館行くか、それとも映画じゃなくて他の行楽施設にでも――
そう俺が考えているとき、突然にインターホンが一回鳴った。
もう夜の十時過ぎだ。俺の中ではギリギリ非常識じゃない程度の時間帯。
(誰だ、こんな時間に……)
木下はまだ洗い物をしている。
「俺が出るわ」
「ん、お願い」
望んだ会話はそんなものではなかったが、まあ仕方ない。
俺は玄関まで赴き、その横に据え付けられているインターホンのスイッチを弄る。このマンションのインターホンはモニターつきドアホンで、こちらから相手を確認することができる。
そこに映った人影は――。
「け、警察……!?」
思わず声に出た。
同時に、背後でがしゃんと皿が落ちる音がした。
振り向くと木下が硬直したまま、俺――の向こう側のドアホンのモニターを凝視している。落ちた皿は割れてはいなかった。
彼女のその表情で、なんとなく俺は直感した。
警察と、木下。
この両者が会するのは、何かまずい。
「木下!」
「ふえっ、はい!?」
面食らった木下は、両手をワタワタさせてうろたえる。珍しい光景だったがのんきにそう構えてはいられない。
「お前、一応風呂場にでも隠れとけ、電気つけずに」
「お、おっけー」
これも俺の望んだ会話ではないが、バタバタと木下は浴室に駆け込んで戸を閉めた。
彼女の靴を拾い上げて下駄箱に押し込んでから、俺は通話ボタンを押す。
「はい」
「夜分遅くに失礼します、警察の者ですが」
それは見れば分かるが、一応の礼儀だろう。ちなみにドアの向こうの警官は二人いて、一人が四十代くらいのベテラン、もう一人は若手、といった風貌だった。
「聞きたいことがありますので、ちょいと上がらせてもらえませんかね」
ここで無下に断るのは怪し過ぎる。上げるしかない。
俺は鍵を開けて、警官二人を迎え入れた。
「やあ、すいませんね突然」
ベテランが帽子を取ってぺこりと頭を下げるが、眼光は鋭いまま俺を見つめている。
(あ、焦るな俺……)
俺は何もしていない。犯罪なんて小学生のころ、悪友と一緒に女子の更衣室を覗いて仲良く教師に殴られたくらいだ。清く正しい男なのだから、堂々としていればいい。
そう自分に言い聞かせるが、やはり開かれた手帳を見せられるとどうしてもあの金ピカの威光に圧されてしまう。
警察二人は先ほどまで俺と木下のいたリビングで、丸テーブルの周囲に腰かける。
「今日はその、どういった用件で……?」
麦茶くらいしか用意できないが、出さないよりはましだろう。
若手は会釈してコップを受け取ったが、ベテランの方は何も言わず受け取ってすぐさまグビグビ飲み始め、「っぱー」と息を吐いてから、彼らと一緒に座った俺に向かってずいと膝を進め近寄った。
「寺尾昌史。間違いないですよね」
「え、ええまあ」
(うわっ、まさか認めた瞬間、手錠ガチャリか! しまった、下の名前くらいは偽名で――そうだ、寺尾エアブレーキ昌史とか、ああいや何考えてんだ俺は、パニックになっちまったか!?)
などといった良く分からない思考が高速で脳を駆け巡るが、どうもそうではなかったようで警官は話を続ける。
「なんかあんた妙にクネクネしてますが、別にあんたを捕まえたいわけじゃないんですよ」
「え、あ、そうなんすか」
安心した。最悪の事態は免れそうだ。一人暮らしを始める際にも、母親に「いいかい、警察のお世話にだけはなるんじゃないよ!」と口を酸っぱくして言われていたからな。ちなみに、若手警官の方はずっと黙っている。
「あんた、津涼高校を卒業したね」
「え、ええはい」
(なんで知ってんだよ……警察だからか?)
俺の心の疑問には当然答えず、ベテラン警官は話し続ける。いつの間にか彼は手帳を取り出して、反対の手にボールペンを持っていた。
手帳といっても今度のソレは警察手帳ではなく、どこかその辺の文房具店で売っていそうな小さなリングノート、といった感じだ。
ペンで汚い文字が書きなぐってあるあたり、この男の取り調べノートだろうか。
「んで、在学当時、あんたは……」
その手帳を一瞬見やってから、もう一度俺の方を鋭い眼光で見据えて。
「木下智子という人間と、仲良くしていなかったか」