プロローグ 雨天
「うやさんさん」と読みます。
潸潸――雨の降るさま。または、涙の流れるさま。
その夜は雨が降っていた。
六月のある日、この時期だから珍しくもなく、仕事が終わったその夜はざあざあと雨が降っていた。
俺はちゃんと傘を持っていた。それでもズボンは濡れるし、水たまりに入ったら靴も濡れる。おまけにただでさえ視界が効かないのに余計周りが見えにくい。だから雨は嫌いだ。
そんな鬱陶しい雨夜に、俺は一人の女に出会った。
第一印象は「怖い」の一言だった。
二十三にもなって何を、とも思われるかもしれない。
でも、想像してみてほしい。
暗いうえに雨のせいで先もよく見えない夜、家に帰るにあたり近道を通らんがため近所の公園を横切った時、人気のないそこで不意にばっと人が現れたら。
その人間が、傘もささずに、幽鬼のように佇んでいて、大粒の雫がひっきりなしに前髪から垂れ落ち、その奥の瞳が悲しそうに揺らいでいたら。
ずぶぬれの姿で、ボロボロの衣服にたっぷりと吸い込まれた水のせいで、ズルズルと重たげな音を立ててこちらにゆっくりと歩いてきたら。
肺炎にでも罹っているんじゃないかと思わせるようなかすれ声で、自分の一メートル前からこんなことを言われたら。
「ちょっとさ……きみの家に……泊めてほしいなあ……」
どうだ、怖いだろう。
断ったらどうなるかなんて考えたくもなかったね。
「わ、わかったよ……」
だから俺は、彼女を拾った。
拾ってしまったと言うべきか。
拾わされたと言うべきか。
それとも――。
拾うべくして拾ったのか。
「ちょっとそこで待ってろ」
家に入ったところで、びしょぬれの彼女を玄関で待たせ、俺は素早く給湯機を入れてシャワーの準備をした。
そして、何かしら着せるものはないかと思い、クローゼットを漁ってTシャツとハーフパンツを引っ張りだし、そこで――。
(下着はどうすんだよ……)
致命的な問題に気づく。
それを察したのか、玄関の幽霊女は、
「大丈夫だよー……下着はほら」
そう言って、自分と同じくらいずぶ濡れの小さな鞄から小さな袋を――チャック付きで水は入らなそうだ――取り出し、ひらひらさせた。中に何が入っているのかは分からないが、彼女がそう言っているのなら中身は下着なのだろう。
「そっか、じゃあシャワー出たらこれとこれを着てろ」
そう言って彼女に服を押しつけ、風呂場へと案内する。玄関からそこまで水が滴り落ちて一本の道を作っていて、俺はため息をつきたくなったがここは堪えた。
「あー……」
「なんだよ、まだなんかあんのか?」
幽霊のような女は、魂の抜けたようなそんな声を出しながら周囲をぐるりと見回して――。
「んじゃ、行ってくるねー……」
そう言い残し、脱衣所のカーテンをしゃっと小気味よい音を立てて閉めた。よくわからん。
俺はリビングに――と言ってもワンルームマンションなのでリビングも何もないのかもしれないが――取って返し、冷蔵庫を開けてなにか食べさせるものでもないかと探す。
(くそっ、チーズと納豆しかねえ)
給料日前の俺にはよくあることで、一日や二日はそんなものでも乗り切れていたが、今回は俺じゃない。
仕方ない、『非常用』の金を削って、大急ぎでコンビニまで行ってなにか買ってくるか――。
そう思っていたところ、最上段にラップのかかった深皿があるのに気付く。
「あっ、こいつがあったか」
俺に親切にしてくれる隣人(専業主婦三十八歳)が昨日、作りすぎたと言って分けてくれたおでんだった。
いつもいつも給料日前は助かっているが、今日はことさら助かった。雨の中、また外に出たくないからな。
さっそく温めて、風呂上がりの彼女のために備えておく。
やがてガラッと言う音がして、それから一分後にしゃっとカーテンの開く音がした。
「うっはー! 超さっぱりした!」
そして開口一番、そいつはまるで別人のような声の調子でそう言う。
いや、別人なのは声だけではなく――。
振り向いた俺は、「なんだ、いきなり元気になって、まあいいや、おでんがあったまってるぞ」とか言おうとしてそれこそ絶句した。
(な、なんちゅう美人だ……)
雨水を垂らし続けた、幽霊のようだった髪は、ちょっと栗色のまっすぐなストレートになっていた。サラサラ感をこれ以上ないほど演出し、それでいて湯でしっとりと濡れているそれは雨水が濡らしていたときとは比べ物にならないほど艶やかだった。髪ではなく、頭の周りがうっすらと輝いているかのよう。
ぱっちりした瞳はメイクなどなくても力があったし、すっと通った鼻、薄い唇、少しだけ尖った耳、もちもちしていそうな頬、全てのパーツがまるで神が与えたかのように非の打ちどころがない。
男物の服に身を包んだ体は、出るところは出て締まるところは締まった、まさに男の理想とも言える、モデルも裸足で逃げ出すほど均整がとれていた。
半袖から露出した肌は、湯上りらしくぽっと桜色に染まり、なんとも言えない色香が漂う。
「いやん、もう! 何じろじろ見てんのさー!」
「あ、いや、悪い……」
しかし、随分と元気になったものだ。まさか風呂の中で性格がチェンジしたとか、そんなよくわからない変身をしたりしたのか。
「ま、まあその、飯……おでんだけどあるからさ、その、食えよ……」
こんな美人を久しぶりに見て、しどろもどろになった俺はかろうじてそれだけ言う。
これほどの女に巡り合ったのは、たしか――。
と、俺が記憶の糸を手繰っていると、
「あのさ、正直ご飯はアレなんだよ」
と、その女が言った。アレってなんだ。
「実は私さ、お金ないんだよね」
彼女はそう続ける。俺はすっかり緊張してしまって、ありきたりなことしか言えない。
「い、いいよ金は。気にすんなよ」
「でさ、仕事もなけりゃ愛もないんだよね。三、四がなくて五もないんだよね」
今度は俺も訝る。
何を言い出すんだ、この女は。
「そんな、ないない尽くしの私がきみに何を払えるかってのはさ、いい男のきみなら分かるんじゃない?」
「え、ちょっと……」
俺は直感した。
まさか――。
目の前の美人は、誘うような目で俺を見据えて。
「いやまあ、嫌ならいいけどさ。い、や、な、ら」
外では、雨の音がする。
俺もダメな奴だとはつくづく思う。
だけども、こんな美人(風呂上がり)に誘われて、据え膳食わないほど俺は徳が高くもない。
だから俺を責めなくたっていいじゃないか。俺だって男なのだから。
けれど、ことが終わった後急速に冷めるのも、俺が男であるゆえ必定だった。
「や……やっちまった……」
勢いで、とんでもないことにもつれ込んでしまった。
こんなことになるとは、今日の仕事を終えた辺りでは、いや、この女に出会ってからも、もっと具体的に言えば一時間前まで思いもしなかった。
(これ、何かの罠か?)
そんな風に思う。
「ビジンキョクってやつ……じゃねえよな」
俺は横の女に、今にも部屋のドアを蹴破って凶悪そうな男が現れたりしないかという不安からおそるおそるそう聞く。
「んー? もしかしてツツモタセのこと? それくらい正しく読めないと恥かくよー? てか、美人局をビジンキョクってリアルに読む人、私初めて会ったかも」
そう、脱力気味にうつ伏せになった彼女は返す。
しょうがないだろう、俺は大学に全部落ちて仕方なく就職したんだから。教養はないんだ。だってどう見てもビジンなキョクじゃないか。
「ビジンキョクじゃございませんよん。もちろん美人局でもないけどねー」
あっけらかんと、女はそう言う。それから気だるそうに、うーん、と伸びをしてから上半身を起こした。結局最後まで上は脱がなかったな。
「うあー、久しぶりに満足したよ。きみ、巧いね?」
「そりゃどうも……」
とりわけ、そっちに自信があるわけでもないが、褒められて悪い気はしない。とくにこんな、なかなか抱けないような美人に褒められたのなら。ただ、素直に喜べないのは現状をしっかり把握できていないからだ。何が起こっているのか、掴みかねているからだ。
「ま、なんだかんだであれだよね」
すると女は俺のほうに半身を向けて、
「七年経っても、会ってすぐおっ始められる……そういう間柄ってさ、それこそ親友って感じだよね」
「どうだかな……って、え?」
「あれ、私のこと覚えてない?」
俺はこいつと七年前に会ったというのか。
七年前というと、俺が高校二年生だった頃だ。
その時には彼女どころか女友達だっていなかったはずなのだが――。
「俺にそっち系の女はいなかったぞ」
「うわー、冷たいなあー。私はあの時のクラスの子たちは全員友達だと思ってんのに」
同級生なのか。
俺がそう聞くと、女はしびれを切らしたように言った。
「あーもう、自他共に認める、才色兼備な天才学級委員、木下智子のこと、お忘れかい?」
そこまで言われてやっと思い出した。そして、驚愕する。
「おま……あの時の木下かよ!?」
いた。そんな奴は確かに。どう頑張っても記憶から消せない、きれいな顔立ちに短い髪が印象的で、その髪型や顔つきの通りにテンションが高いあの学級委員だ。
成績は学年一位で、テストが近くなるとアングラで生徒たちに個別指導をして金まで取っていたほどだ。奨学金も受け取っていたはずだ。
それだけではなくスポーツも得意で、あらゆる部活から勧誘が来るのに断り続け、おまけに気さくで誰彼かまわず一視同仁する彼女は学校中すべての男女の人気者だった、といっても過言ではない。
そんな木下が、たった今まで俺に抱かれ、たった三十分前、傘も持たず捨て猫のように雨に濡れていたというのか。
「そうだよん、木下智子。で、きみは寺尾くんでしょ。すごい偶然」
(偶然、で片付くのか?)
俺の苗字は確かに寺尾だ。だがそれは部屋に入る前に表札を見た、ということでも説明がつく。本当に彼女なら俺の下の名前も知っているはずだ。クラスメイトを全員友達だと、さっき言ったばかりのこいつならな。
「じゃあ、下の名前はわかるか?」
「昌史、だったはずだけど?」
即答だった。そして正解。
それだけでは判断に困るが、とりあえずこいつは七年前にクラスメイトだった木下ということで間違いなさそうだった。
俺が黙っていると、木下は「あっ、やっぱり?」といった顔で俺に寄ってきた。
待て待て、疑問はまだ尽きないんだ。
「お前……なんであんなとこで濡れてたんだよ」
「うわー、寺尾くん、女の子に『あんなとこが濡れてた』とか、なにそれセクハラ発言ー?」
「違うわ! てかおまえ女の子って歳じゃねえだろもう!」
「うわっひどっ! 私は永遠の17歳だよ! 時間の概念なんて超越してんだよ!」
「うそつけ! あの時俺と同じ学年だったんだからお前も22か23だろが!」
こんなことを言い合いつつも、俺はどこか懐かしかった。
誰に対しても、こうやって悪戯っぽく笑って茶化してくる彼女は、七年前のあの少女だ。
あの時のままだ。
「えっと、何の話だっけ? 寺尾くんが数学のテストで8点しか取れなかったって話だっけ?」
「そうじゃねえ! ってかよく覚えてるなそんなこと! お前のことだよ、お前がなんであの公園で雨に降られてたのかっちゅう話」
すると木下は考え込むような顔を作って――。
「あの雨が酸性なのかどうか、ハゲるまで浴びて試してみようっていう気象庁の極秘実験をだね……」
すぐにばれる嘘を言った。
それを聞いて、俺はもう理解した。
この木下が本当に俺の知っている木下なら、そんな下手な嘘を、まずい状況を乗り切ろるために使うことはしない。
もっと重大な理由があって、彼女はあんなところにいた。
これは、聞くな、という遠回しな意思表示なのだ。
「ああそうか、わかったよ。実験邪魔して悪かったな」
百歩譲ってそれがもし本当なら、あのとき、消えそうな声で必死に『家に上げてくれ』なんて頼み込むはず、ないだろうが。
こいつは多分、言いにくい事情を抱えているのだ。
「とりあえず、飯だな」
「あ、うん! おでん食べたい! おでん! さっきからおでんの匂いが漂ってる!」
すると木下はまた元気になって、ベッドから降りて下着と俺のズボンを履いて、俺をせかす。
もう一度温めないとな。
木下は結局俺の部屋に泊まった。
悲しいことに未使用の、空気で膨らむ来客用ベッドを出そうとして(俺がそれで寝ようとした)、木下がそれを止めた。
「いいじゃん二人で一緒のベッドで寝たって。さっきもそうしたじゃん!」
いや、お前がいいというならいいんだがな。
「久しぶりにさ、高校の話で盛り上がろうよ」
まあ、謎はまだいっぱいあるが。
俺は木下が持ち上げてくれた掛け布団の中に入って、面積が半分になってしまった枕に自らの頭を乗せた。
「狭い狭い! もっと向こう行って、向こう」
「お前も少しは遠慮しろよ!」
たまにはこういうのも、いいものだ。
その時は、そんな風に呑気に考えていた。
初めて女を連れ込んだということに、舞い上がっていたのもあるが――。
俺がそんな調子でいたから、彼女が何を背負っていたのか、その時の俺にはちっとも見えなかった。
そして俺がこの時、彼女のどす黒い世界に片足を踏み入れていたことも、当然知る由もなかったのだ。
その、雨の日の夜は。