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涅槃会の朝に

作者: 田中教平
掲載日:2026/03/15

 

 鬱なのだろうか、祐介は思った。彼は朝風呂を上がって、着替えたら、まるで力が入らない。

 と云うのも、母から「おばあちゃんが亡くなりました。老衰でした」とメッセージを受けていた。

 ショックを受けた感は少なった。以前から元気が無い事は、母から伝えられていた。遂に亡くなってしまったか、と言った思いが強かった。しかし、暫く時間が経ってみると、明確に心のアチコチに穴が開いているようであった。気分を変える為に、コーヒーか、煙草を摂りたい、と考えた。両方無かった。彼はエアコンの設定を、暖房にしたり、その暖かさに不快に感じると冷房にしたり、又、暖房にしたりを繰り返した。

 彼は外着に着替えると、近くコンビニに向かった。青空にたなびく雲が綺麗であった。

着くと、ATMには沢山人が並んでいた。チョコレートの売り切れが多かった。

 彼は飲料、コーヒー、そして妻の為にチャイラテを買おうとそれを手にした。

 レジにてハイライト、と告げ、ハイライトも買った。合わせて約九百円だった。

 彼は自宅に帰ると、寝室で眠っている妻を起こしチャイラテを渡した。そうして、書斎に戻り、コーヒーを飲んだ。ハイライトを袋から取り出し、そのパッケージをじっと眺めた。部屋も外も、コンビニさえも一切、静かであった。

祐介はコーヒーをもう一口飲んだ。苦味が舌に残り、そのわずかな刺激が、止まっていた体のどこかをゆっくりと動かし始めるのを感じた。ペットボトルを机に置くと、静かな書斎に小さな音が響いた。それが合図のように思えた。彼は原稿用紙を引き寄せ、ペンをとった。指先はまだ少し冷たかったが、紙の上に最初の一文字を書きつけると、いつもの朝の癖が戻ってくるのが分かった。祖母の死の実感はまだ遠くにあったが、文字だけは確かに今日のものとして、白い升目をひとつずつ埋めていった。


祖母が亡くなったのは三月十四日であった。

そうして、その報せを受けたのは今日、三月十五日であった。祐介が考えたのは、今日は涅槃会であって、お釈迦様の命日だという事だった。そのお釈迦様の命日の前日に亡くなったというのが、妙な縁も感じさせつつ、彼はその気づきによって、驚いたのであった。

 その事を、彼は妻に話すと、妻は涅槃会じゃなくて、その前日のホワイトデーに亡くなった、という事の方が意味を感じる、と言った。

 涅槃会の前日に亡くなったというのは全くの偶然かも知れないが、祖母は普段から何か意味がある事に重点をおいて行動していた節が強く、例えば、祐介が上京する際、祖母が祐介に渡したのは黄色いリボンであった。

 後に知った事であるが、黄色いリボンは、戦場へ出てゆく兵士に対し、御婦人が健闘と帰還を願いつつ、プレゼントしたものだったのである。

 ともかく、通夜、告別式と出席してみて話を聞いてみない事には何も分からない、と見当をつけて、彼は一旦、筆を置いたのであった。


 祐介と香奈は二人連れ立ってまずコンビニに向かい、ATMでそれぞれ、必要なお金を下した。香奈は祐介の口座残高を見て

「これだけしかないの。大丈夫?」

と、言ったが、祐介にしてみれば、禁煙薬の服用を継続し、煙草をやめる事ができれば、殆ど出費する先は無いから大丈夫だと思ったが、何も応えなかった。

 二人その足でスーパーマーケットに向かい、

食料品を買った。弁当のコーナーに入って

「今日の昼食はどうするか」

と言ったが

「これなんか良いんじゃないの」

と、香奈が浅利飯の弁当を指さした。

「浅利飯、なんて旬だね。しかし浜名湖は残念だったね」

 と言った。浜名湖では以前、浅利がよく獲れて、潮干狩りを楽しむ者も多かったが、最近では全く浅利が採れず、潮干狩りも禁漁という事になっている。

 二人は浅利飯の弁当を二つ、籠に入れるとお会計をしにレジに向かった。

 二人、その内祐介は時々、春の青空を眺めて、自宅に帰った。

 祐介は母からメッセージが届いている事に気づいた。

 祐介と香奈は黒色のスーツは持っているか、と問うメッセージであった。急いで二人はクローゼットを開いて確認したが、祐介の保持しているスーツは黒に近い紺色で、厳密な黒ではない。香奈の持っているスーツは黒だったが、夏用で時期が合っていなかった。

その旨を祐介は返信した。

 すると母から、これから祖父の家に向かい、お上人さんと通夜、葬式の相談をするので午後は予定があるが、それが済んだ後、または明日、黒のスーツを揃えに行こう、という返事があった。

 諸々、了解、承知した祐介は、その旨を労いの言葉を添えて、返信した。

 十一時半になって、祐介は浅利飯の弁当が食べたくなった。

「これさ、先食べていい?」

「いいよ。わたしは昼食よしておくかな、なんかお腹いっぱい」

 香奈、大丈夫かよ、と言いつつ、祐介は浅利飯の弁当をレンジで温めた。そして食べた。

 祐介は自覚したのであるが、彼の心は哀しみが抜けきっておらず、弁当を温めて食べる事もまるで義務のようであった。それにしても浅利飯は美味しかったのだが。

 十二時になって、香奈が、やっぱりわたしもお弁当を食べる、と言って、浅利飯の弁当をレンジにかけた。祐介はそのとき、鬱っ気を紛らわす為に、風呂を追い炊きして入ろうと考えて実行、風呂についているバネルの「追い炊き」ボタンを押した。


 本来ならば、本日日曜日、涅槃会という事で彼は原付バイクで走って、山の向こうにあるお寺へお墓参りに行く予定であった。しかし事情が事情なので、キャンセルせざるを得なかった。

 しかし彼は仏教というものに対して、タッチしておきたい気持ちがあった。すると一冊の本「なぜ生きる」という本を先日購入しており、本は、浄土真宗の開祖、親鸞の言及に対し、丁寧、講釈してくれてある本なので、これを読もうと考えた。

 どこか、自殺を考えていたり、死にたいと考えていたりする者、老若男女問わずだが、この本を読むと、そのような気持ちが薄れてしまったり、全く無くなってしまうという。


 祐介、彼は宗教に関心が深かった時期があり、以前、密教の修行者の独白本を読んでいたのだが、密教というのは明確に人を救う、と主張しており、その修行者は、色々、修行道場を変えて、最後、密教に辿りついたのだが、その修行者をそういった行動に駆りたてたのは、人を救いたいからであったという。


 これには祐介も興味を持って読みすすめたのであるが、そこで、語弊があるかも知れないが、浄土真宗や法華宗はアマチュアの仏教であって、禅宗と密教こそが、プロの仏教であると断言している所を読むと、祐介、彼は考えざるを得なかった。


 祐介、彼は浄土真宗本願寺派であったが信心を持って「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に行って仏になる、という教えは明確に、文字を読めないもの等に対して救いを与える易しい教えである事を、祐介は理解していた。

 しかし、親鸞の言及に目を通すと、親鸞はこの現在において救われる事を強調している。そして「よくぞこの世に生まれてきたものぞ」という境地を体験する事こそ、肝要な事であるとも言及しているから、実際、その事を説いている先の本「なぜ生きる」は実際、人を救うのである。自殺を止めるのである。個人の人生に向かって、叱咤激励してくれるのである。

そこに、アマチュアもプロもないだろうと、彼は判断したのであった。 


 香奈といえば、そのとき原稿用紙換算百頁の小説の推敲を行っていた。

主に誤字、脱字を直していた。しかし、その小説の構造は、と言うと、自身の人生を振り返った私小説であったが、祐介、彼が昨晩、この小説は単にシーン、シーンを振りかえったものであって、どういう論理性を持っているのか見えてこない、という発言を、香奈はどこか気にかけていた。

その言葉で目の前の小説の見方が変わった。

「一つ言えるとすれば」

そのとき祐介は慎重に言葉を選んでいた。


「普通は青春時代というものは重宝されるものだ。そうしてその青春時代を切り取っただけでも一つの甘く、苦い小説になるでしょう。しかし、この話は違って、青春と呼ばれるものは、大分、遅れてやってきている。主人公が安心するのは、大人になって、彼氏ができてからの話だ。普通は青春のアラベスクがあって、現実の社会生活に突入すると、つまらなくなるものだ。そうなっていないのがいい」


 そう、祐介は香奈の小説を評し、励ました。

 香奈、彼女は黙々と書きつづけた。

 祐介は寝室のベッドで横になりながら、本を読んでいた。


「ふう」

 香奈は一段落つくと、自分も自身の寝室で横になる事にした。

 未だ、寒い春である。


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