第8話 恋話
四人と入れ違いで漣夜の母親が外出した。その際、ヒルデと挨拶を交わしていたが、初対面だったのだろう。ヒルデは終始、ぎこちなかった。
四人は二階へと上がる。二階には部屋が二部屋ある。いつも通り、漣夜が自分の部屋の扉を開けようとすると――
「こっちの部屋は何ですか?」
ヒルデが不意に、漣夜に尋ねる。
「ああ……、そっちは妹の部屋だ」
(妹……?)
漣夜には妹がいたようだ。しかし、漣夜からその話題が出されたことは一切無かった。そして、その時、紫苑が見た漣夜の顔が強く、印象に残った。
「ふぅ…………。 やっぱ家の中だな!!」
漣夜は部屋のベッドに横になりながら、そう言った。理心も安心しきったのか崩れ落ちるように床に座る。
「本当、何よアレ……」
「雰囲気が怖ぇよ……。ありゃ、鬼の仮面か?」
「“鬼面”と言ったところですかね」
(“鬼面”……)
「ヒルデ、ヒルデ」
理心がヒルデの名を呼ぶ。ヒルデは不思議そうな顔をする。
「キャラ、キャラ」
ヒルデはハッとして笑顔を浮かべた。
「ソウデシタ! ソウデシタ!」
「もう、いいじゃねえか…………。普通に喋れば――」
「ダメダメダメ、ダメデスヨー!!」
ヒルデは何かのこだわりのようなものがあるのか、基本的に片言で話す。本来であれば、流暢に話せる――これをヒルデに言うと、少し不機嫌になるのだが、流暢に話している時のヒルデはなんとなく雰囲気が変わっているような気もしなくもない。
「まあ、すっきりしたわ!! マジでいたのね!!」
「なら、アイツも無事に……ってのも変だが、逃げられたってことか?」
「そうなるのか……」
(無事に……か)
「そんなことより!!」
理心は紫苑を指差す。
「あの子とはどうなの? 進展は?」
紫苑の表情が固まる。理心が言っているのは愛利寿のことだ。
「まだ、特には…………」
「紫苑はどう思ってんだ?」
「う~ん…………」
漣夜の質問に紫苑は長考する。自分自身は愛利寿に対してどういう気持ちを抱いているのか、言語化して一番最初に出てくるのは――
「友達……かな…………」
「気づいてないわけじゃないんだろ?」
「わかってる。ただ、何で僕なんかに好意を抱いているのかが分からない……」
紫苑の根っこの部分は変わらない。それは長年積み重ねてきた経験から形成されるものだ。友すらいなかった紫苑が自分に自信を持てぬことは仕方のないことだ。
「それは野暮ですよ」
ヒルデの落ち着いた声が部屋に響く。紫苑はそちらに視線を向けた。
「恋に理由はいりません。ただ、受け入れるかどうかは紫苑の自由です」
真剣な表情でヒルデはそう言った。
「私の両親は駆け落ちでした。そこまでの道のりは多分、苦難の連続だったと思います。相容れない二人が結ばれる――それほどまでに恋というのは重く、そして力強い」
並々ならぬ想いが込められた一言。そこにはまるで実感すら込められているような、そんな気さえ感じる。
「わかるかも……」
理心がポツリとそう呟いた。それにヒルデは目敏く反応した。そこにはさっきまでのヒルデはいなかった。
「ヤッパリ、レンヤノコトガ!?」
「ちげぇよ…………」
ヒルデのテンションの高さに呆れたような声を出す漣夜。理心も苦笑いを浮かべている。
「幼馴染って言ってもそんな昔からじゃないの、漣夜とは」
「そうだな。中学に入る、少し前ぐらいか…………」
「そう。私は遠い田舎からこの町におばあちゃんと二人で引っ越してきたの」
「おば……!! まあ、そうだな…………」
漣夜は理心の発言に異議を申したいような顔をしていたが、理心に睨まれ、すごすごと引き下がった。
「僕と同じだ…………」
「そう、紫苑もなのね……」
理心の顔には悲痛が刻まれている。彼女の両親は多分――。
そして紫苑自身も母の顔を知らなかった。物心つく前にはすでに――。
部屋に湿っぽい雰囲気が漂い始めた、その刹那――
「通りで紫苑は虫が得意なわけだ!!」
四人が通う学校は豊富な自然の弊害か、虫が多い。特に蠅が多く、苦手な者は本当に大変だ。紫苑は特に虫に対して、大きな反応を示さないので、漣夜はそのことを言っているんだろう。
それにしても、無意識だろうか。部屋の中の雰囲気が少し、明るくなった。理心も少しだけ、微笑みながら話を続ける。
「私には憧れの人がいる。心のほとんどを占めるのはその人だから、誰かを好きになるとかは多分…………ないと思う」
「いいえ、理心はその人が好きなんですよ」
ヒルデの言葉を聞き、理心は目を見開いた。そして、すぐに悲しそうな笑みを浮かべる。
「かもね……。でも、私はこのまま、憧れ続けるだけでいい」
「な……ぜ…………?」
「彼女はもう私の記憶の中にしかいない。全ては過去――消え去ったものはもう戻らない」
(亡くなったのか……)
紫苑は少し、やるせない気持ちになった。ヒルデの顔にもまるで我が事のような悲痛が刻まれていた。
「奇跡は二度は起こらない。彼女との出会いは奇跡だった。だから二度と会うことはできない」
理心の重く苦しい言葉で、部屋の中に沈黙が流れる。誰一人として声を上げることができずにいた。しかし――
「奇跡か…………」
沈黙を破ったのは漣夜だ。その表情は神妙な面持ちだ。
「理心とは違うが…………、俺にもいる。その――会いたいって奴が……」
(漣夜もなのか……?)
「あいつは俺の親友だった。でも、忽然と姿を消した。俺の親も知ってたはずなんだが、覚えてない」
漣夜の顔が少し、暗くなる。しかし、すぐに呆れたような笑みを浮かべた。
「約束もしたんだけどな…………。多分、全部、俺の妄想――空想の遊び友達ってやつだったんだろうな…………」
「漣夜…………」
「頭の中でずっとちらつくんだ…………。忘れようと思っても忘れられない。妄想だってわかってるのにな…………」
二人は大切な人を失った。その経験は二人の心に不可逆な変化を齎したのだろう。それが現実であろうと、空想であろうと。
紫苑にとって大切な人――父、紅音、そしてこの場にいる三人もすでにその中に含まれている。もしこの内の誰かを失えば、自分はどうにかなってしまうと、紫苑は思わずにはいられなかった。
「諦めるんですか?」
まるで、挑発ともとれるような言葉がヒルデから発せられた。だが、その表情、声音からは相手を軽んじるような意図は見受けられない。ならば、何故、こんな発言をしたのだろうか。
「どうしても会いたいというのならば、何が何でも!! 何をしてでも!! 成し遂げようとするのが――」
突然、ヒルデは片手で自らの頬を叩いた。その影響か、発言が遮られた。そして一瞬、舌打ちのようなものをして、満面の笑顔を浮かべた。
「ゴメンナサイ! イマノハワスレテクダサイ! ゼンゲンテッカイデース!!」
「お、おう…………」
ヒルデ以外の三人は困惑の表情を浮かべる。すると、不意にヒルデは首を傾げた。
「イモウトサンニアエタリデキマスカーー?」
「無理だ」
漣夜からの即答。流石のヒルデも呆気にとられた。
「エ、エット…………」
「引き籠って、ほとんど出てこない。少なくとも、俺が起きてる内は絶対に…………」
「ナ、ナゼナンデスカ…………?」
ヒルデの質問に漣夜は黙り込む。だが、理心は事情を知っているのか、先ほどから静観の姿勢だ。
「俺の……責任なんだ」
「漣夜」
理心の呼びかけに漣夜は手で制す。
「俺は――――最低なクソ野郎なんだ」
漣夜は自らの過去――過ちを語り始めた。




