第14話 迷惑客
紫苑は今、鼻歌を歌いながら、カフェの裏口の鍵を開けている。昨日の和解――気分が高揚していた。今日、漣夜は久しぶりに一家で出かけるそうだ。紫苑は紅音への報告も兼ねて久々にカフェの手伝いをするつもりだ。
カフェの鍵を開けた瞬間、紫苑の視界にちらりと黒い服装をした、有り体に言えば不審者のような人物を発見した。
「紅音さん……?」
「え!? 紫苑君!?」
その人物は紅音のことだった。黒いニット帽に上下を黒いパーカーと黒いズボン、極めつけにサングラスとマスク。標準的な不審者と言える。いくら中に美女がいようとも通報は免れないだろう。
「今日、手伝い?」
「はい!」
二人でホールの準備をしながら、紅音に漣夜との仲直りの件を話す。
「良かったよ……」
「すいません。ご迷惑をお掛けしたみたいで……」
紅音は首を振る。
「紫苑君の悲しい顔はもう、見たくないよ」
「ありがとうごさいます。紅音さん」
まるで我が事のように相談に乗ってくれた紅音には紫苑は感謝してもしきれない思いだった。
「本当にありがとうございます!!」
紅音はそれに対して、にっこりと笑った。
「お相子だよ。私も紫苑君にはいつも助けられているから……」
開店と同時に外で待機していたのか、ワンピースを着た女性の客が入ってきた。紫苑の見たことのない人物。常連というわけではないだろう。にもかかわらず紫苑はどこかで見たような記憶がある。
「いらっしゃいませ……」
紫苑は女性客が纏っている異質な雰囲気に嫌な予感がし、離れようとする。
――腕を掴まれた。
「ご主人様」
紫苑は女性から発せられた言葉に耳を疑った。ここはそういう店ではない。仮にそうだとしても、逆だ。咄嗟に女性の顔を凝視する。
光沢を放っているように見える漆黒の髪をハーフアップにしている。目は鋭さを少し感じるが、垂れ目で全体的に優し気な雰囲気を醸し出している。ゆったりとしているワンピースからでもスタイルの良さが分かり、どこかのモデルと言われても、不思議ではないほどの美女。
やはりどこかで見た覚えがある。もしかしたら、本当にモデルの人の可能性がある。
「ああ、ご主人様! そんなに見つめられると……」
何故、この女性は恍惚とした表情を浮かべているのだろうか。紫苑は顔を引きつらせる。その間に、女性は鞄を漁り、何かを取り出した。
――赤い液体……?
100mlほどの瓶に詰められ、机の上に置かれている。紫苑は後退る。
「これは……?」
「ご主人様のためにお作りした特注品です。ぜひ、お飲みになってください!」
(この人、ヤバい……!!)
紫苑は咄嗟にその場を離れようとした。が、再び腕を掴まれた。
「ご心配なく、単なる栄養ドリンクです」
いつの間にか、瓶の蓋が開けられている。
(飲みたくない……!!)
しかし、女性から飲み物を受け取ってしまった。瓶から飲み物の匂いが漂い、紫苑の鼻腔を刺激する。女性は今か、今か、と紫苑が飲むのを期待しているように見える。
誰かに助けを求めても良かったが、女性から敵意や悪意のようなものを全く感じなかった紫苑は、毒でないことを願いながら、一気に赤い液体を飲み干した。
――独特。
触感はどこか、粘性が高い。近いものでいうと、トマトジュースだろうか。しかし、味に関しては野菜類のそれではなかった。正直に言うと、あまり美味しくはない。どこか、金属のような風味を感じる。
紫苑は渋い顔をしながら、飲み終わった瓶を女性へと返す。女性の顔にはこれ以上ないほどの歓喜が浮かべられていた。
「貴方様のお名前は?」
紫苑はため息をつく。本音を言うと、この女性に対して、自己紹介などしたくはないが、名前を言うまでは居座られそうな厄介な雰囲気を感じ取り――
「渡辺紫苑」
端的に一言、そう言った。名前を聞き、満足したのか、女性は何度か、頷いた後、立ち上がった。そして、出入口まで歩いていくと、お辞儀をした。
「では、紫苑様。失礼いたします」
そう言い残し、女性は店を出て行った。
他の客がいなくて、本当に良かったと、紫苑は心の底から思った。ああいうのを迷惑客と言うのだろう。注文せずに帰っていった女性を密かに出禁リストに入れた紫苑は振り返った。
――目の前に般若がいた。




