第9話 妹
林道漣夜には五歳下の妹がいる。名を林道恵。しかし、ここ数年、漣夜は妹の姿を見ていない。何故、こうなったのだろうか。それは長年、溜め込まれた歪が原因だった。
漣夜は物心ついた頃から自分の妹が普通ではないことを認識していた。妹はほとんど泣かない。それは赤子のときからだった。しかし突然、嬉しそうに笑い出すことがあった。漣夜の両親はそれを微笑ましそうに見ていたが、漣夜の目にはそれが少し不気味に映った。
漣夜は少しずつだが、妹の面倒を見るようになった。それは両親に言われたからでもあるが、やはり自分の妹でもあるので、漣夜自身、乗り気ではあった。妹は本当に泣かない。それは面倒を見るようになってから、改めて実感することだった。
ただ、一つだけ、妹はたまに虚空を見つめることがある。まるで猫のように何もない空間をじっと見つめる。
妹が言葉を話し始めるようになった。そして同時に物心がついたようにも見えた。その頃には漣夜は自分の妹はこういうものなのだと徐々に受け入れられるようになってきた。妹がある言葉を発さなければ――
「じいじ ばあば」
何もない空間を見ながら、そう言った。その場には偶然、漣夜しかいなかった。
――歪――
妹が自分の足で歩けるようになった。両親は大喜びし、家族で公園に行くことになった。今まで、面倒を見ていることを覚えていたのか、あるいは歳の近さからか、妹は漣夜になついていた。
「キラキラ、ピカピカ、フワフワ」
そう言いながら、漣夜の手を引き、妹は虚空を指差す。その様を両親は微笑まし気に見ていた。
――歪――
――歪――
――歪――
――歪――
日常生活を送る内に溜め込まれていく歪。兄妹故に避けられない、それは確かに漣夜の心に傷をつけていった。
しかし、ある時、ピタリと止まった。妹は突然、普通になったのだ。それからの二人の仲は良好になっていった。どこにでもいるような――それ以上に、仲良しな兄妹。
これから先もずっと続いていくだろうと、そう思われていた――――
普通になどなっていなかった。時折、妹の口から不意に語られる異常。気を抜くと出てしまうのだろう。それは漣夜が小学校の高学年になった頃を境に加速度的に増えていった。
今まで良好だった兄妹の関係に少しづつ、罅が入り始める。一緒に居たくない、会話をしたくない、そう思い始めるほどに漣夜は限界だった。だが、それでもなお、家族であるという想いだけが、漣夜のギリギリの線を繋ぎ止め、兄妹間の交流を辛うじて続けていた。だが――
「あれ…………?」
ある日の、学校からの帰り道、二人で共に歩いていた最中、妹は不意に空を指差した。空は分厚い雲で覆われていた。その様子はこの後の天候の変化を如実に感じさせるものだった。
「雨、降りそうだな……。恵、早く帰ろう」
「何か、飛んでる…………」
妹の言葉に漣夜の溜め込まれていたものが決壊した。漣夜は歯を食いしばり、恵と繋いでいた手を振りほどいた。
「いい加減にしてくれよ!! 何なんだ!? 何なんだよ、お前は!?」
「お兄ちゃん…………」
「触るな!!」
漣夜は恵が伸ばしてきた手を振り払った。
「お前は妹じゃない! 俺の前から消えろ! この――化け物が!!」
――雨が降ってきた。
突然の豪雨が二人を濡らす。互いに向かい合う二人。漣夜はすぐに後悔した。口を衝いて出た言葉の数々。それはとても家族にかけるようなものではなかった。
雨音だけが周囲に鳴り響いている。互いに言葉は交わさない。漣夜も口を開けずにいた。謝罪の言葉を出せずにいた。
妹が漣夜に近づいてくる。漣夜は罪悪感からか、妹の顔を見ることができず、ただ俯いている。雨粒が髪を伝い、地面に流れ落ちる。
妹は漣夜に何かするわけでもなく、そのまま、横を通り過ぎて行った。
漣夜はただ立ち尽くしている。妹が去った後も、ずっと、豪雨に撃たれ続けていた。
――空ではいつまでも雷鳴が轟いていた。




